はい? らんなーず・はい?

シエリアは開店準備で朝から店先の掃除をしていた。

心地よい朝の風を浴びて少女は美しい桃色のミディアムヘアをかきあげた。

ゆったりとした水色のワンピースがひらひらとはためく。

その碧眼へきがんの瞳は向こうから走ってくる人物に向いた。


「やっほ〜‼ おはよ〜!!」


ジョギングの女性が挨拶しながら駆け抜けていく。

店主は彼女に挨拶を返した。


「あ、おはようございます‼」


その女性は日課にしているのか、よく店の前を走って横切る。

少女はそれを見てうらやましく思った。


「はぁ〜。あれだけ軽やかに走れたらさぞかし楽しくて気分がいいんだろうなぁ…」


シエリアは極度の運動音痴うんどうおんちなのである。

学校での体育の成績はいつも1だった。

そのため、運動が出来る人を見ると憧れざるをえないのだ。  


明くる日、少女が店番をしていると昨日の女性が店にやってきた。

普段の明るい彼女とは違う、深刻な顔をしている。

彼女は名をジーナと言った。

シエリアよりは一回り年上のようで、大人のお姉さんという感じだった。


一体、何が彼女をここまで悩ませるのかと少女は不思議に思いながら話を聞いた。


「私、困ってるの。ランナーズ・ハイになったことがなくてね…」


店主は首をかしげた。


「はい? ら、らんなーず・はい?」


知らないのも無理はないと依頼主は説明しだした。


「ランナーズ・ハイってのはね、長距離を走り続けたりすると至る境地らしいの。なんでも快感や高揚感こうようかんがあって、身体が軽くなるみたい。そしてどこまでも走り続けられる気分になると聞くわ」


好奇心で体感してみたいのだろうか?

その割にジーナは切迫せっぱくしていた。


「私以外は皆、ランナーズ・ハイを経験してるの。私はダメだからいくら走っても苦しいだけよ!! それでも、置いていかれたくないから、苦しくてもひたすら走るしか無いの!!」


問題はかなり深刻だ。泣きそうになる彼女を見てシエリアは声をかけた。


「わかりました。お受けします。何日かお時間を頂きますが……」


それを聞いたランナーの表情はパァァっと明るくなった。


「ほ、本当ですか⁉ あ、ありがとうございます!!」


彼女は笑顔を浮かべて走っていった。

その夜、シエリアはいつものように後悔していた。


「わあぁぁ!! どーしよ!! 私、マラソンのマの字もわからないよ!! それに、走ったら苦しいに決まってるじゃん!! なのに快感ってどういうこと⁉ ''らんなーず・はい''ってなんなの〜⁉」


謎のあまりくちびるをとんがらせた。

それでも無理難題を解決するのがトラブル・ブレイカーの仕事である。


「…そうか、アレがあったね。気乗りしないけど…」


そう呟つぶやきながら、彼女は店の奥の棚を漁った。

そしてある小瓶を取り出した。

ラベルには''ドラゴン・エリミネイター''と書いてある。

一見してただの滋養強壮剤だが、あるいわく付きの代物しろものである。


「興奮作用が効きすぎて販売禁止になっちゃったドリンク…。もしかしてこれを飲んで走ればなんちゃらハイになるかもしれない…」


確かに販売禁止にされたものだが、薬としては優秀である。

そのため、薬師が調合したものに関しては販売が認められていた。

しかし、禁止されただけあって、そのまま飲んだらただではすまないだろう。


さすがにこれをそのまま飲むほどシエリアは迂闊うかつではなかった。

それに、これでも本業の薬師であるし。

彼女はドリンクをビーカーに移すとラベルの原材料を見た。


「ふむふむ…。萌え草の成分と墓場の砂が反応して、それが魔神ガエルの油と結びつくから、これを中和して…」


少女は何度かに分けて、可能な限りエナジードリンクを弱毒化した。

思わずシエリアは額の汗を拭った。


「ふぅ。ここからがキモだね…。一旦、抽出した高揚成分こうようせいぶんを戻せば反応が起こる。量が多すぎると暴走しちゃうし、少ないとハイにならないかもしれない。絶妙な量が難しいね…」


少女はポタリポタリと興奮成分を3滴、ビーカーに垂らした。

そして片手に容器をもち、もう片手を腰に当てた。


「よし。出来ることはやったよ。覚悟を決めるしか無いね。男は度胸、女も度胸!!」


そう言いながらシエリアはドリンクを一気に飲み干した。

可憐かれんでゆるふわな見た目に反し、意外と彼女には度胸とガッツがあった。

しばらくして少女は体をペタペタと触った。


「あれ? なんにも――うっ!!」




少女の胸は焼けるように熱くなり、心臓が爆発するほどに高鳴った。

そして酷くそわそわし始めて、その場にとどまっていられなくなった。

思わず足踏みを始める。


「し、しまった。コレ、き、効きすぎだよ…。でも、これで走り出せば!!」


彼女は勢いに任せて雑貨屋から飛び出していった。

興奮のせいか、運動音痴うんどうおんちだったはずのシエリアは自然に走り出すことが出来た。

夜だったので街中を爆走してもそこまで目立たなかい。

とは言え、すれ違う人はみんな驚いていたが。


そして彼女は郊外こうがいをぐるぐる回って走り続けた。


「あああ〜~!! 足が痛い!! 腕も痛い!! 身体が引きちぎれそうに痛い!! 息もできない!! 心臓も爆発しそう!! ぎゃあぁ〜〜!!」


もはやどのくらい走り続けているのかわからない。

走っているのか、止まっているのかさえわからなかった。

全てがピークに達した瞬間だった。


シエリアはふっと身体が軽くなった。そして、今までの痛みがウソのように引いた。

まるでスキップしているような感覚である。

高揚剤こうようざいとは別の、得も言われぬ多幸感があった。


これなら世界の果てまで走っていける。

次の刹那せつな、彼女の意識はふっと途切れた。

翌日の朝、シエリアは激痛で目を覚ました。


「ううう…あいつつ…いった〜〜」


気づくと彼女は店のカウンターにもたれかかっていた。

確かにランナーズ・ハイらしきものには達した。

だが、その代償に全身が激しい筋肉痛に襲われていたのだ。

それに桃色の髪もボッサボサでくせっ毛はねまくっている。


少女は這いずりながら本日閉店の看板をかけた。

そして全身に特製シップを貼ると自室で眠りについた。

2日後、痛みは残るものの、シエリアはようやく店先に立てるようになった。

心配してくれる客もいたが、ただの風邪だとはぐらかした。


待ちきれなかったのか、ジーナが店にやってきていた。


「ごめんなさい。私、待ちきれなくて――」


彼女が言い終わる前に店主は再調整したドリンクを取り出した。


「試飲したので大丈夫だと思います。必ず、次の日が休みの時に試してくださいね……」


――――こうしてジーナも無事にランナーズ・ハイに達することが出来たらしい。

そして、コンプレックスからも開放されたらしく、今はドリンク無しにやっていけているそうだ。


…確かにスポーツのできる人には憧れます。

でも、見るのとやるのはやっぱり別物なわけで。

マラソンとかジョギングはもう二度とやりたくないなぁ…というお話でした。

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