春を望む男

月井 忠

一話完結

 一歩、また一歩。

 ゆっくりと小さな歩幅で、男は砂に足跡を残していく。


 視線を上げると、静かな砂丘が横たわっていた。

 ここでは風が砂をさらっていくこともないので綺麗な形を保っている。


 すべてが静止した世界を汚すように、あるいは自らの存在を刻みつけながら男は砂丘を登っていく。


 春と言えば桜だろう。

 男は頭の中でつぶやいた。


 この場に季節を感じさせるものは何もない。

 だからこそ、今は確かに春だなのだと自分に言い聞かせた。


 ことの始まりと終わりには、いつもあの色があった。


 期待と不安を抱きながら進む道。

 左右で迎えるように並んだ木々からは小さな花びらが落ち、ひらひらと風に舞う。

 その先には真新しい校門が彼を待っていた。


 時が過ぎ、卒業証書の入った筒を高く掲げ、友に別れを告げて校門を出る。

 通い慣れた並木道には、薄いピンク色の花びらが絨毯となって敷かれていた。


 空にも道にも、隙間ない花片の群れ。

 思い起こす春の光景は、すべてあの色で埋められている。


 だが今、彼の目の前には、ただ灰色の砂があるばかりだった。

 最後の一歩を踏みしめ、登り切った砂丘の先には、見渡す限りの静寂が待っていた。


 どこを見ても一面の砂。

 多少の起伏はあっても色のない単調な眺め。


 灰色の砂は、骨を砕いた灰のようだった。

 数多の動物が倒れ、朽ち果て骨を残し、時間とともに崩れ、ついには灰となって山を築く。

 自分はその上に立っている。


 そんな空虚な思いと同時に、男は達成感も得ていた。

 やっとここまで来た。


 長い道のりを思えば高鳴りもするが、それで心の均衡を取れるわけではない。


 彼はゆっくり屈むと、失ったものを拾うように右手で砂を一握りする。

 上体を起こし、真っ黒な空に向かって砂を放り投げてみた。


 完全な無風の中、砂はきれいな放物線を描いてパラパラと散っていく。

 砂粒は扇の形を広げ、黒い闇に広がり、やがて薄くなっていった。


 まったく意味のない行動だったが、それは男に花咲かじいさんの話を思い出させた。

 あの日から数えると、今はやはり春なのである。


「何をしている?」

 イヤホンから低い声が響く。


「ああ。ボクのいた地域では、こうして灰を投げて花を咲かせるという話があってね」

「そうか……そっちに行っても?」


「ああ、いいよ」

 男はイヤホンの声に応えると振り向いた。


 自らが灰の世界につけた、ささやかな足跡を逆にたどっていくと一つの影に行き当たる。

 その人影は、ものすごい勢いでこちらに近づいて来た。


 友は歩くでも走るでもなく、ジャンプをしていた。

 ふと男は、オリンピックで見た三段跳びを思い出していた。


 ここでは、あの移動方法がもっとも適しているのは知っている。

 だが、男はゆっくり歩くことを選んで、この砂丘を登った。


 男は更に焦点を先に伸ばす。

 こちらに近づいてくる友の背後には、着陸用の小型艇が細い足を伸ばして灰の上にちょこんと立っている。


 その先には不気味なぐらい、くっきりとした水平線があった。

 灰色の大地と真っ黒な空のコントラストが、まるで死と虚無の境界線を思わせた。


 男は静かに目を閉じる。

 海から吹き付ける風が体を吹き抜け、波の音とともに磯の香りが包む。


 砂浜には白い波が打ち付け、遥か彼方になだらかな水平線がある。

 その上には海の青を写し取ったような空が覆い、境界線はおぼろげで、すべてが一体となっているようだった。


 しかし、ここは違う。

 空気が存在しないため景色は歪むことなく、数学的でクリアな線が世界を描き出している。


 月面は人類が見てきた自然とは、やはり違いすぎる。


 ぐんぐんと近づいてきた友は音もなく隣に着地すると、両足で踏ん張り、砂を派手に撒き散らした。

「ふう、いい運動になったよ」


 友は額を拭うような仕草をする。

 その必要はないのに、すっかり男に影響を受けてしまったようだ。


「キミは汗なんてかかないだろ?」

「ははっ。そうなんだけどね」


 友は笑みを浮かべて続けた。


「さっきの花の話。続きを聞かせてくれよ」

「ああ」


 男は思い出せる範囲で昔話を聞かせた。

 桜の物語は、知らず彼の思い出を引き出していた。


 入学と卒業の時期には桜が舞っていたこと、その色を思い出すだけで、なぜか感傷的になってしまうこと。


「ボクも見たかったな」

 そうつぶやく友の横顔に目を向ける。


「そうだね。キミのいた所にはないものだからね」


 この出会いがなければ、男はこの場所に立つことはできなかった。

 本来なら宇宙という冷たい棺桶の中で、静かな眠りにつくはずだった。




 かつて男は新天地を目指す宇宙船の中にいた。


 多くのクルーがいた。

 ともに訓練を積み、僅かな席を争い、絆を深めた者たちだ。


 ほとんどの者は地上に残ったが、彼らの思いも背負って地球を飛び立った。


 月軌道を越えた時、けたたましい爆発音とともに部屋が大きく揺れた。

 警告を示す赤い照明の元、タッチパネルを操作したがモニターは反応を示さない。


 小さな窓から外を見る。


 粉々になった船体が尾を引き、真っ暗な空に伸びていた。

 バラバラになった鉄くずは火花を散らし、生身のまま放り出された人の姿もあった。


 男がいた動力制御室の後ろから閃光が放たれ、目が眩む。


 瞬間、凄まじい重力に襲われる。

 耐G設計の限界を超える加速度は、男の体を壁に叩きつけた。


 再度の爆発が起こったのだ。

 眩しい残像の中、景色は瞬く間に遠ざかる。


 加速に伴う重力に抗い、男は手を伸ばした。

 瓦礫となった船と仲間たち、鮮やかな青い地球と光り輝く太陽が、真っ黒な背景に溶けてゆく。


 残ったエネルギーのすべてを爆発というかたちで開放し切ったのだろう、小さな部屋の中には静けさが戻ってきた。

 小さな点となった太陽以外、すべてが暗闇に飲み込まれ、もはやどこを探しても見つからない。


 伸ばした手をゆっくり引き寄せ、男は自分を抱きしめた。


 どれほど、時が過ぎたのか。


 それを知る術すらない中、男は自分の置かれた現状を確かめる。

 どうやら部屋から外に出ることはできず、行動できる範囲は以前住んでいた狭いアパートと同じぐらいの広さだった。


 男は選択を迫られた。


 水も食料もない。

 それより先に空気がなくなるだろう。


 半ば諦めの気持ちだった。

 男は宇宙服を身に着け、簡易コールドスリープを起動させる。


 希望がまったくないわけではない。

 事故を知った地球の仲間たちが、新しい船を作って自分を助けに来てくれるかもしれない。


 だが、それがいかに難しいことか。


 男は目を閉じる。


 地球から出発して、この船に追いつくための燃料はどれほどか?

 追いつけたとしてもブレーキをかけ、再加速するためのエネルギーを積める船はあるか?


 そもそも、今の観測技術でこの小さな欠片を見つけられるのか?

 見つけたとして助けるという選択肢は?


 窒息する前に、餓死する前に、男は冷たい眠りにつくことを選んだ。




 薄い視界の中、ぼんやりと目に入るものがあった。

 真っ赤な影が、男を見下ろしていた。


 真紅の顔に青色の瞳を宿す四つの目、耳まで届く大きな口がにやりと笑ったように見えた。


 男は叫ぼうと口を開けるが声は出ない。

 代わりに焼け付くような痛みが喉を襲い、もがきながら再び意識を失った。


 彼らは見た目と違って、男を優しく看病した。

 異星の者ということは瞬時に理解できたが、納得するのは難しいことだった。


 男は彼らとのコミュニケーションを試みる。

 彼らは言葉を持たなかった。


 特殊な感覚器官によって互いにコミュニケーションを取るようだが、男にはそれがない。

 彼らはイヤホンを作り男に与えた。


 こうして言葉による対話が始まった。

 男の発見された場所、地球までの距離、彼らの航行技術なら容易に行けるということ。


 すぐに、送ってやろうという言葉が出てきた。


 その友は今、男の隣にいる。


 宇宙服どころか何も着ていない姿で、月面に立っている。

 ある意味裸と言えるのだろうが、それも違うらしい。


「手前で足踏みさせてしまって、すまないね」

 友は口を動かすことなく言った。


「いや、むしろ良かったよ」


 彼らはエネルギー補給のため月面に寄ったのだ。

 男としても、故郷を前に一度落ち着きたかった。


 二人は共に黒い空を見上げている。


 そこにあるはずの地球は、未だ闇に埋もれている。

 太陽と月の間にあって、黒い影しかない。


 しばし待つと、かすかな光とともに光の弧が現れた。

 弧は少しずつ厚みを増して、地球の横顔を見せ始める。


 男は両手をすくい上げるようにして、ぽつんと浮かぶ球体に手を伸ばした。

 そこには、赤黒くただれた惑星があった。


 黒い大地に赤いひびが入り、月からでも確認できるほどの噴火を起こしている。

 今や地球は青い星ではなく、業火に堕ちた死の星だった。


 この状況は前もって友から聞かされていた。

「これから目指す場所に、キミの言うような星はない」


 彼らの観測技術が示す画像を見ても、男は信じなかった。

 しかし、自らの目に映る姿は信じざるを得なかった。


 六分の一の重さで涙が頬を伝う。

 涙の質量は変わらないはずなのに、男はその重さに耐えることができなかった。


 気づくと膝をつき、灰の地面に手をついていた。


 肩に手のぬくもりを感じる。

 友の優しさが伝わってきた。


 涙は余計に重さを増して落ちていく。


 この優しい隣人のことを紹介する同胞はもういない。

 家族や仲間、誰一人として男の帰りを待つ者はいない。


 あれからどれほどの時間が過ぎたのか。

 その間に何が起きたのか。


 人類は二つに分かれ殺し合ったのか、あるいはそのために起きた天変地異なのか。

 男にも友にも、その理由はわからない。


 何に対しての怒りかわからぬまま、男は右の拳を砂ごと握り、空に向かって投げつけた。

 細かな砂は地球に届くことはなく、さらさらと落ちてくる。


 友の四つの目には、ただそれだけのことに映っただろう。


 しかし男は、あの死んだ星に咲き乱れる桜を描き、おかえりと迎える人々の姿を見ていた。

 幻だと知ってなお、男はその光景を手放せないまま心に誓う。


 どれだけ時間がかかっても、あの星を蘇らせる。

 そのための大きな一歩を刻むのだと。

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春を望む男 月井 忠 @TKTDS

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