政略結婚だった二人

くる ひなた

政略結婚だった二人

 在位八百年を迎える魔王陛下は、プルプルしているおじいちゃんである。

 よって、政務はほぼ優秀な副官に丸投げされていた。

 魔王の副官は、竜族の血を引く黒髪の青年で、名をローエンという。

 明かりが灯され始めた魔王城の廊下に、彼のブーツの踵がカツカツと忙しない旋律を刻んでいた。


「やばっ、副官閣下だ! 隠れねぇと! 俺、報告書出し忘れてるんだよなっ!」

「いやそれ、絶対早く出した方がいいぞー。先週締め切り破ったヤツなんて、魔王城の塔の先にぶっ刺されてたからな」


 叩き上げの魔王の副官は、自分にも他人にも厳しいことで知られていた。

 その鋭い眼光に、後ろ暗いところのある者は、厳ついガーゴイルでも巨大なオーガでも身を竦ませる。

 ローエンは彼らのやりとりに気づいており、明日の朝一で報告書を提出しなければ、あのガーゴイルも塔の先端にぶっ刺してやろうと決めた。


「ローエン様、素敵……カラカラになるまで、精気を吸って差し上げたいわぁ」

「どうにかして、寝所に忍び込めないかしら……」


 その氷のように冷たい美貌に、名門サキュバス一家の令嬢達は頬を染め、舌舐めずりをしながら熱のこもった眼差しを送る。

 もちろん、ローエンはこれにも気づいていたが、相手をするつもりはないため気づかないふりをしたし、寝室の施錠は何があっても忘れないでおこうと思った。

 魔界の太陽と月は完全交代制で、空に揃うことはない。

 太陽が西の山際に消えゆく中、月は東の連峰の大きく抉れた部分から頭を出した。

 そんな中、骸骨頭の文官が息急き切って廊下を走ってくる。 


「閣下、申し訳ありません! こちらの書類をご確認いただき、サインを……」

「──明日にしてくれ。もう、終業時刻が過ぎた」


 足も止めずにぴしゃりと告げたローエンは、差し出された書類はもちろん骸骨文官の顔も見ないまま、さっさと歩いていってしまった。

 それを見送るしかなかった骸骨が、しみじみと呟く。


「一月前までは、毎日日付が変わるまで執務机に張り付いてらしたのに……人って、いや魔族だけど、所帯を持つとこんなに変わるものなんだなぁ」


 一月前──ローエンは、結婚をした。

 よって、魔王の副官になって十年あまり、ほぼ寝に帰るだけとなっていた魔王城の私室には、一月前から彼の帰りを待つ者がいた。

 窓を鏡代わりにして襟を整えつつ、歩調は次第に早くなる。

 その鬼気迫る表情に気押されて、誰も彼もが自然と道を開けた。




「おかえりなさい、ローエン」

「ただいま戻った──姫」


 私室にもかかわらず律儀にノックをしたローエンを、彼とは対照的な雰囲気の娘が出迎えた。

 ふわふわのブロンドを揺らして、笑顔で駆け寄ってきた彼女は、姫は姫でも魔族の姫ではない。

 彼女は人間の姫──しかも、現在この魔王城に住まう唯一の人間であり、ローエンの妻だった。


「姫……いや、アメリ、座りなさい。話がある」

「はい、ローエン」


 ソファに腰を下ろして一息ついたローエンだが、すぐに顔を引き締めて姫を──アメリを呼びつける。

 彼自身は、本来なら一国の姫を娶るほどの出自ではないため、妻の名を呼び捨てにする時は少なからず躊躇した。

 そんな夫の気など知らないアメリ姫は、ととと、と近寄ってきて、言われた通りに座る。

 ローエンの、膝の上に。


(いや、そこかい)


 とは思ったが、ローエンは口には出さなかった。

 ただ、小さく呻いてから、それを誤魔化すみたいに咳払いをする。

 そして、殊更真面目な顔を作って続けた。


「俺が何を言いたいか、わかるか?」

「あの……もしかして、お庭の池の水を全部抜いてしまったことを怒ってらっしゃいますの?」

「別に怒っているわけでは……ん? んん? 池の水を? 抜いたのか? 全部っ!?」

「はい、全部抜きました。ついでに、わんさかいた外来魚は全て厨房にお預けしました」


 ローエンが全力でシリアス顔をしているというのに、姫ときたらニッコニコである。


(そういえば……魔王城一階職員食堂の本日の日替わりが、急遽白身魚フライ定食になっていたな……)


 などと思い返しつつ、ランチは黒酢豚定食を食べたローエンが問いを重ねた。


「なぜ、池の水を抜くような事態になったんだ?」

「ピアスを片方、落としてしまいましたの」


 アメリの小さな耳たぶには、結婚してすぐの頃にローエンが誂えてやったピアスがはまっている。

 金の土台に乗っているのはローエンの瞳の色にそっくりのアメジストだが、石を選んだのはアメリ自身なので、彼が独占欲丸出しで自分色を纏わせたとかでは、断じてない。

 今現在、左右どちらの耳にもピアスがはまっているところを見ると、無事に回収できたのだろう。

 アメリはそれを確かめるように、両の耳たぶに手をやりながら続けた。


「私は最初、潜って探そうとしましたの。そうしましたら、おじいちゃまが……」

「──それだ、それ! そもそも、俺が注意したかったのは!」

「それ?」

「その〝おじいちゃま〟という呼び方……いかがなものかと思う。古参の魔族の中には戸惑う者も少なくない。姫も重々承知しているだろうが──あの方は、魔王様だぞ」


 ローエンの主君である魔王陛下は、プルプルしているおじいちゃんである。

 間もなく千歳を迎えるご長寿のため、腰なんて直角に曲がってしまっている。

 アメリ姫との縁談はもともと、この魔王との間で持ち上がったものだった。

 にもかかわらず、その家臣であるローエンの妻となった姫は言う。


「ですが、ローエン。私とお話する時の魔王様の一人称は、〝おじいちゃま〟なんですよ?」

「魔王様は、魑魅魍魎が跋扈するこの魔界を統べるお方だ。曲者揃いの魔族どもを従えるには、それ相応の威厳が必要で……」

「それに、〝おじいちゃま〟と呼んでほしいと、可愛らしくおねだりなさるんですもの。叶えて差し上げたいわ」

「か、可愛らしくおねだり……魔王様、が……」


 頭を抱える魔王の副官を、人間の姫はニコニコして見上げていた。


 アメリは、さる王国の末王女として生を受けた。

 超未熟児で生まれ、幼い頃はとにかく体が弱くて寝込んでばかりいたという。

 その行く末を案じた家族──殊更、歳の離れた兄王子や姉王女達は、この世で最も強い男に嫁がせたいと考えるようになる。


「北の神聖皇帝がいいんじゃないか?」

「いや、あいつは性癖が特殊過ぎるし、恨みを買いまくってるからすぐ死ぬ」

「西の島一帯を統べる大公は?」

「あいつは筋金入りのマザコンだから絶対無理。ママが死んだら死ぬ」

「なら、大陸中に名を轟かせる東国の剣士はどうだ?」

「だめだ、あいつは尋常じゃなく足が臭い。アメリの嗅覚が死ぬ」

 

 とか、なんとか。

 あいつもだめこいつもだめ、死ぬ死ぬ死ぬ、と家族会議を重ねる中……


「いや、何も人間にこだわる必要はないじゃないか! もっと強くて長生きをする魔族──その頂点にある魔王がいい!」


 などと言い出したのは、はたして誰だったのだろう。

 そもそも素面だったのかどうかさえも疑わしい。

 ただ、アメリの祖国にとって、魔界との関係を深めることは政治的にも大きな利点があった。

 近年勢力を広げつつある北の神聖帝国は唯一絶対の神を崇めており、魔王を頂点とする魔界とは、それこそ天地がひっくり返ろうとも相容れない。

 そして、たとえ性癖が歪んでいる神聖皇帝とて、人智を超えた存在である魔王と事を構えるつもりはないだろう。

 つまるところ、ローエンとアメリは政略結婚により夫婦となった。

 魔王は高齢な上、十年前に先立たれた妃を今もまだ深く愛しているため、その右腕かつ独り身だったローエンに御鉢が回ってきたのである。

 なおも難しい顔をしている彼に、たった一人で魔界に嫁がされた人間の姫は言う。

 

「私が生まれた頃には、祖父は二人ともすでに鬼籍に入っておりましたので、〝おじいちゃま〟と呼べる相手はおりませんでしたの。ですから、魔王様がそう呼ぶことをお許しくださって、うれしいのです」

「そ、そうか……」

「それに、安心してください、ローエン。呼び方ひとつで、魔王様の偉大さが損なわれることなんてありませんわ」

「それはまあ、そうなのだが……」


 アメリはずっと笑顔だが、意見を曲げる気は微塵もなさそうだ。

 荒くれ者のガーゴイルやオーガを怯ませ、魔族の令嬢達を見惚れさせる魔王の副官も、このやたら胆力のある姫の前では形無しである。

 それでも、ローエンは往生際悪く厳めしい顔を作った。


「それはそうと……魔王様がお止めにならなかったら、池に潜るつもりだったのか? ピアスくらい、またいくらでも用意してやるというのに」

「いいえ、ローエン」


 アメリが、ふるふると首を横に振る。

 彼女のふわふわの髪が鼻先を掠め、ローエンは頬の内側を噛んで激情を堪えねばならなくなった。

 夫の口内が流血沙汰になっているなど露知らぬ姫は、さも大事そうに両耳のピアスに触れながら続ける。


「私にとってこれは、かけがえのないピアスなんです。だって、初めて自分で選んで……初めて、ローエンが私のために買ってくださったものですから」

「いや、しかし……」

「自分でじっくり時間をかけて選ぶのも楽しかったですし……何より、ローエンが嫌な顔ひとつせずにそれに付き合ってくださったのが、とてもうれしかったのです」

「うむ……だがな……」


 妻のいじらしい言葉に、ローエンは難しい顔で唸るばかりだった。

 出自に問題がある彼は、アメリに対して引け目を感じている。

 魔王が決めたこととはいえ、生粋のお姫様である彼女を娶るのに、自分が分不相応に思えてならなかったのだ。

 ローエンが唯一誇れることといえば、〝魔王の副官〟という肩書きだけ。

 だから、その呼び名にふさわしい冷静さと威厳を常に纏っていたかったのだが……


「ちゃんと取り戻したこと……ローエンに、褒めていただきたいです」

「……っく、アメリッ!」


 おずおずといった様子で、アメリに上目遣いに見られた瞬間──ついに、ローエンは表情筋を引き締めるのを諦めた。 

 到底不可能だったのだ。

 彼女の前で、魔王の副官の仮面を着け続けることなど。

 自分の膝の上にちんまりと座った相手の体に両腕を回し、ローエンは堪りかねた風に叫んだ。


「アメリッ……かわいい! 俺が買ったピアスをあなたが大事にしてくれて、うれしいっ!」


 自他ともに認める仕事中毒だったのが、結婚したとたんに定時で仕事を切り上げるようになったという事実が物語っている。

 ローエンは、完全に心を奪われてしまっていた。

 一月前に夫婦となった、アメリ姫に。

 俗な言い方をすれば、彼は妻に沼ってしまったのだ。

 それはもう、ズブズブと。


「かわいい、かわいい……」


 顎をくすぐるふわふわのブロンドからは花のような香りがするし、腕の中に囲った体は小さくて柔らかい。

 何より、ローエンがようやく素の表情に戻ったのがうれしいのか、またニコニコして見つめてくるものだから……


「かわいすぎる」


 魔王の副官の沽券もかなぐり捨ててデレデレしてしまうのも、語彙力が心許なくなるのも、しかたがないことだった。


「ふふ……ローエンの方がかわいいです」

「うぐっ……」


 とどめとばかりに、華奢な両腕が背中に回ってきて、ローエンの胸の奥では心臓が大きく跳ねる。

 彼は、力一杯抱き締めたい衝動に駆られた。

 けれど、なけなしの理性が働いて踏みとどまる。

 ローエンは細心の注意を払い、そっと包み込むようにアメリを抱き返した。

 彼女が少しでも損なわれるのは、恐ろしくてならなかったのだ。


「できることならあなたを真綿で包んで、俺の懐にずっとしまっておきたい……」

「ローエンまで、お兄様やお姉様達みたいなことをおっしゃらないで」

「兄上や姉上方の気持ちが痛いほどわかる。姫が……アメリが大切だったんだ」

「存じておりますわ。もちろん、感謝もしておりましたけれど……」


 ローエンの腕の中で、アメリが幼子のように唇を尖らせる。

 兄王子や姉王女達はか弱い末妹を大切に思うあまり、自分達が認めたものしかその側に置かせなかった。

 食べ物も飲み物も、ドレスもアクセサリーも、私室の調度も侍女も……友達でさえ。

 本人の意思など確認せぬまま彼らが選んだそれらを、本心からは好きにはなれなかった、とアメリは言う。

 それを聞いたローエンは、思わず自嘲した。


「……俺もまた、兄上や姉上方が決めた相手だな」

「ローエンは、違います」


 ぱっ、とアメリが顔を上げる。

 彼女はローエンの顔を両手で挟んで引き寄せると、お互いの鼻先がくっ付くくらいの距離で続けた。


「だって、ローエンは私に問うてくださいましたもの。初めてお会いしたあの時、本当に結婚相手が自分でいいのか、と」


 ローエンとアメリの初顔合わせは、結婚式の半年前だった。

 魔王自身ではなくその副官が縁談相手として遣わされたことに、兄王子や姉王女達は当初難色を示したが……


「私のことですのに、私に意見を求める者など誰もおりませんでしたわ。みんな、兄や姉達の顔色ばかりを窺っていたのです。でも──ローエンは、私と真正面から向き合ってくださいました」


 アメリはあの時、自らローエンの手を取った。

 押し付けがましい兄姉に対する反発もあったかもしれないが、それだけではなかった。


「ローエンは、私にもちゃんと意思があるのだと認めてくださいました。それまで、兄や姉達の主張に競り負けてしまっていた私の拙い言葉に、耳を傾けようとしてくださいました」


 それがとてもうれしかった、とアメリが震える声で呟く。

 泣いているのかと思ったローエンが慌てるも、杞憂だった。

 アメリは円やかな頬を色づかせて微笑むと、今度は弾むように言う。


「ローエンのおかげで、私はやっと自分の足で立って、歩けるようになった気がしているのです」


 推しの笑顔を間近で浴びてしまったローエンは、うっと呻いて片手で胸を押さえた。

 ファンサはなおも続く。


「ローエンを選んだのは、兄や姉達ではありません。私が、自分で、ローエンの側にいたいと願ったのです」

「ア、アメリ……」

「ですから万が一、何らかの理由で彼らがこの結婚を撤回しようと思い立ったとしても──私は、絶対に従いません。ローエンと、離れたくありませんもの」

「……っ、アメリ! 俺もだ! 俺も、あなたと離れたくないっ……!」


 感極まった声を上げ、ローエンはアメリを掻き抱いた。

 円やかな頬に擦り寄り、その柔らかさと温かさを心ゆくまで堪能する。

 荒くれ者どもを震え上がらせる眼光も、魔族の令嬢達を虜にする美貌も、もはやふにゃふにゃに蕩けてしまっていた。

 しかし、見ているのはアメリだけで、彼女がそれを厭うはずもない。


 始まりは政略結婚だった二人だが──今は、正真正銘の両思いだった。


「ローエンに出会わせてくださった、兄や姉達に──そして、偉大なる魔王様に感謝します」

「ああ、俺も……」

「そんな魔王様が〝おじいちゃま〟と呼んでほしいとおっしゃるんですもの。これからも、そのように呼んでもかまいませんでしょう?」

「あ……うん」

 

 ローエンは、まんまと言い包められてしまった気がしないでもなかった。

 しかし彼は、野暮な議論を長々と続けるような無粋な男ではない。


「結局のところ、池の水は魔王様が抜いておしまいになったのか?」


 こめかみに唇を押し当てながらそう問うと、アメリはまた小さく首を横に振った。

 

「いいえ、おじいちゃまではなく、私が」

「……アメリが?」


 妻の満面の笑みを前に、ローエンは今度は少しばかり顔を引き攣らせる。

 魔界に嫁いだことで、アメリに関し、重大な事実が発覚していた。

 これまで、過保護な兄姉達が何もさせなかった──裏を返せば、アメリが何も期待されていなかったため気づかれなかったことだ。

 人間の姫でありながら、彼女には類稀なる魔術の才能があった。


「おじいちゃまに教えていただいて、えいっ、とやりましたのよ」

「うん……えいっ、とやったら、できちゃったかー……」


 全ての魔族の頂点たる魔王は、魔術の腕も最高峰である。

 ただし、呪文や術式ではなく感覚だけで魔術を使うため、人に教えるにはあまりに不向きだった。

 ところがアメリは、「えいっとする」とかいう、魔王の感覚的すぎる魔術をフィーリングのみで会得してしまった。

 その結果、彼女が初めて「えいっ」とやって山を一つ吹っ飛ばしたのが、結婚披露宴の最中のこと。

 魔王の余興を、何気なしに真似たのがきっかけだった。

 東の連峰が大きく抉れているのは、このせいだ。


「抜いた池の水は、東の山際にぶちまけておきましたわ。今日は朝からいいお天気でしたもの。きっとたくさんお洗濯物を干していらしたでしょうね」

「それはいい気味……いや、気の毒だな」


 アメリが悪戯っぽく言うのに、ローエンもニヤリと笑う。

 この日、けして清潔とは言いがたい池の水を降らされ──そして、アメリが一月前に吹っ飛ばした東の山の一帯は、竜族の領地であり、ローエンの生まれた場所でもあった。

 しかし、純血を重んじる竜族の中で虐げられるばかりの幼少期を過ごした混血のローエンは、故郷がひどい有様になろうと全く心が痛まない。

 いや、むしろ胸が空く思いがしたものだ。

 魔王の副官にまで上り詰めても払拭し切れていなかった、恨みや恐怖の対象を、可愛らしい人間のお姫様が「えいっ」とやっつけてしまったのだから。

 あの時、ローエンはようやく柵から解放されたように感じ、それを成したアメリに対して崇拝にも似た思いを抱いた。

 なお、ローエンがやべー嫁をもらった、と竜族達はいまや戦々恐々としているらしい。


「ご存じかしら、ローエン。こういうのを、〝ざまぁ〟と言うそうですわ」

「誰だ誰だ、アメリにそんな俗っぽい言葉を教えたのは」


 箱入り娘に俗っぽい言葉を教えた犯人である魔王は、フィーリングの相性抜群な魔術の弟子、あるいは孫娘のようにアメリを可愛がっており、多忙なローエンに代わって日中のほとんどを一緒に過ごしている。

 よって、竜族が彼女に報復できる可能性は皆無なのだが、ローエンはふいに眉を寄せた。


「しかし、アメリが魔術を使えると判明したのが、魔界だったからよかったようなものの……そうでなければ、迫害を受けていたかもしれない」

「神聖帝国に嫁いで発覚なんてしていましたら、きっと問答無用で火炙りですわね」


 想像したくもないことを言ってアメリが笑う。

 笑い事じゃない、と憮然と呟いたローエンは、彼女を抱いたままソファに倒れ込んだ。

 もちろん、万が一にも押し潰してしまわないように、自らが下になる。

 アメリはそんな彼の頬を両手で包み、高い鼻の頭にちゅっとキスを落とした。

 と、その時である。

 チャリン、と何かが床の上に落ちる音が響いた。


「あら……」


 床の上を、銀色のものがコロコロと転がっていく。

 すかさず、ローエンが片手を伸ばしてそれを捕まえた。

 

「銀貨じゃないか。アメリが持っていたものか?」

「そういえば、スカートのポケットに入れたのをすっかり忘れておりましたわ」


 銀色のコインの表には、今はプルプルのおじいちゃんな魔王の、若かりし頃の勇姿が刻まれている。

 銀貨一枚は、魔王城一階職員食堂の日替わりランチなら二食分の値段に相当した。


「池にいた外来魚を厨房に持ち込みましたら、料理長さんがお駄賃をくださったんです」

「日替わりの白身魚フライはやはりそれだったんだな。この銀貨は、浮いた分の食材費から……」

「〝浮いた分の食材費で、今夜はたんまり酒が飲めるぜ、ひゃっはー〟とたいそうお喜びいただきましたわ」

「……うん、アメリ……それはな、着服というんだぞ」


 ヒャッハーしている飲んだくれ料理長の顔を思い浮かべ、ローエンの眉間には深々と皺が刻まれる。

 ただし、それも長くは続かなかった。

 アメリがその皺を撫で、声を弾ませたからだ。


「私ね、お駄賃をいただいたのは、生まれて初めてなのです!」

「そ、そうか……」

「ねえ、ローエン。次の休日はいつですか? この銀貨で、ローエンにおいしいものをご馳走したいです!」

「うっ……尊い……っ!!」


 ローエンは、目頭を押さえて天を仰いだ。


 この翌日、魔王の副官が初めて有給休暇を取った。

 ただし、二日酔いの料理長に始末書を書かせるのも、書類を提出しなかったガーゴイルを塔の先端にぶっ刺すのも忘れなかった。

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