第11話
「よし、これでいいか」
白いシーツを広げて干すと、アッシュは満足そうにつぶやいた。
アッシュが巨大なクマの話を聞いてから、数日が経った。といっても、彼にとっては普通の日々のままだったのだが。
あの日からアリシアとリッキーの二人は、部屋に籠りきりになったと思ったら、急に外に出て行ったりと、慌ただしいとまではいかないまでも忙しない。
それに比べてアッシュは屋敷から出るなという言いつけもあるので、屋敷にはびこるカビと戦ったり、積み重なった本の整理や埃の排除といった平穏な日々に浸っていた。
今日だって、そろそろ西の方角からクマがやってくるので、渓流のあたりで迎え撃つという話をアリシア達がしていたというのに、こうやってのんきにシーツを干している。
危ないことに巻き込まれないのは喜ばしい限りなはずなのに、一抹の寂しさをアッシュは感じていた。
シーツを干し終わると、今度は換気のために屋敷中の窓を開けて回った。
アリシアはめんどくさがりなのであまり屋敷の換気をしない。そのため、屋敷の中の空気が淀んでいることが多々ある。それを気にしたアッシュが一日に一回、少しの時間だけ窓を開けるようにしている。長時間開けないのは、森の中の屋敷ゆえに大量の虫が入ってきてしまうからだ。
いつもの日課で何も考えずに二階の窓を開けていると、アッシュは遠くに気になるものを見た。北西の方角にある頭一つ大きな木が動いた気がしたのだ。
その場所をにらんでいると、今度はそのあたりの木々が大きく動いていた。視力に自信のあるアッシュでもなにが動いているかは判別できなかったが、周囲の木々が動くということは相当巨大なものが動いているのは想像に難くなかった。
木々の動きは北西から西の方角に移動しているようだった。————アッシュはなにか得体のしれない、漠然とした不安感に襲われた。
「……いや、まさか、そんな……」
口では否定しつつも、外に出る準備を始めていた。
アリシア達は西の渓流でクマを迎え撃つと言っていた。アッシュが知っている渓流は、この前リッキーと一緒に釣りをしたあそこしかない。ほかにも渓流があるかもしれなかったが、そんな可能性は彼の頭の中にはなかった。
胸の中に渦巻く不安感に突き動かされるように、釣りをした渓流へとアッシュは大急ぎで向かった。
「来たにはいいけど、……どうしよ」
勇んで渓流まで来たものの、そのあとどうしようかまでは考えていなかったアッシュは、近くの草むらでアリシアの様子をうかがっていた。
彼女に屋敷から出るなと言われている手前、こっちになにかが向かっているような感じがしたので来た、なんて真正面から言ったらはちゃめちゃに怒られる羽目になることは目に見えていた。なので、アッシュは様子をうかがいつつ、言い訳を考えるしかなかった。
視線の先のアリシアは渓流の真ん中、流れている水に囲まれた岩の上でなにかを待つように遠くを見たまま佇んでいた。
リッキーはこの場におらず、森の警戒をしている動物たちと一緒にさらに西の方角からこちらに向かってきているクマの誘導をおこなっていたのだが、いま来たばかりのアッシュはそんなこと知らないので、どういう状況なのか不思議に思うしかなかった。
(アリシアがあっち向いてるってことは、やっぱりあれはクマじゃなかったんだよな)
アッシュが見た?ものは北西の方角からこちらのほうへと向かっているようだった。そのため、クマがいつのまにやら移動していて渓流にいるアリシアは不意打ちしようとしていると思ったのだが、それは考えすぎだったようだ。
クマの心配がないのなら、帰ってもよかったのだが、せっかくだから最後まで見ていこうかとアッシュが考えたとき、————アリシアがほんの少し足を動かした。
瞬間、ドドドドッという地響きが聞こえ始める。クマがやってきたのだ。
続くように、高速で飛行する物体が頭上を駆け抜けた。
「————リッキー!」
飛行物体に向かってアリシアが叫んだ。
「来ました!あとは頼んます」
そのまま止まることなく、リッキーと彼を乗せた鳥はどこかへ飛んで行った。
地響きの方向から木々の倒れる音と、だんだんと大きくなっていく土煙。
数秒ののち、ひときわ大きな大木をなぎ倒してアリシアの正面に巨大なクマが顔を出した。アリシアの体に力が入る。
クマはアリシアを見るや否や急ブレーキをかけて渓流の浅瀬に前足がつくくらいの位置で立ち止まった。その様子はまるでアリシアを警戒しているようだった。
実際に見てみると、クマとアリシアの大きさの違いは歴然だった。
説明を受けた大きさは四つん這いの状態でも人より頭一つほど大きかったが、実物はさらに大きいようにアッシュの目には移った。
アリシアは岩の上に立っているにも関わらず、視線の高さはクマのほうが高い。そのうえ高さだけでなく横幅もあるものだから、アリシアの倍どころか三倍くらいの大きさに見える。あれが彼女に向かって真っすぐに突っ込んでこようものなら、アリシアは木の葉のように吹き飛んでしまうだろう。
だが、そうだからと言って、アッシュは隠れている草むらから出ようとしなかった。いや、出ることができなかった。あのクマを見たときに本能的な恐怖によって足がすくんでしまったのだ。————ゆえにアッシュはその様子を見ていることしかできなかった。
永遠にも思える数秒の沈黙。にらみ合ったままクマとアリシアは動かなかった。
その視界には、ほかのものは入っておらず、一触即発の空気になにものも入り込めないはずだった。
だが、そこに忍び寄る影があった。否、実際には影もなく、姿もなかった。かすかに砂利を踏みしめる音だけをさせて、それはゆっくりとアリシアに近づいていた。————その異変に気が付いたのはアッシュだけだった。
すこし距離の離れた草むらで様子をうかがっていた彼だからこそ、そのかすかな音に気が付けたのだろう。
かすかな異変を察知して振り向いたアッシュが見たのは、なにもない場所の砂利が足跡のように沈み込んでいく不思議な光景だった。足跡の大きさはあのクマの足と遜色ないほどに大きく、徐々にアリシアのほうへと向かってきていた。
まだ距離はそれなりにあるが、あれがあのクマと同等の大きさの何かだとするならば、数秒で詰まってしまうくらいの距離しかない。
アリシアは正面にいるクマと向き合ったままで、自身の周囲で起きている異変にはまだ気が付いていない。
アッシュは迷った。すぐにでも叫んで伝えるべきだろうか。だが、叫べばあの足跡にも気づかれてしまう。なにかアリシアにだけ伝えれる手段はないかと、思考を回していると、
「グギャァアアアアアア」
足跡の方角から耳がつんざくような鳴き声が響いた。そしてそこに先ほどまで姿が見えなかったもう一匹のクマが出現していた。
鳴き声とともにクマは砂利を巻き上げながらアリシアへと突撃を始めた。
その鳴き声でアリシアも気づいたようだったが、間に合わない。振り向いた瞬間にはクマの頭が彼女の体に届いてしまう。————そう考えるよりも早く、アッシュの体も駆け出していた。
猛烈な勢いでアリシアへと突撃する二匹目のクマ。
全速力で走りだしたアッシュは、突撃しているクマとアリシアとの間に割り込んだ。
守ろうとか、そんなことを思ったわけじゃなく、体が勝手に動いていた。そして次の瞬間には、
「……ぁ」
クマの突撃を受けたアッシュは、漏れるような声だけ残して宙を舞った。
————そこで、彼の意識は途絶えた。
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