第9話

 二人が向かったのは、屋敷のある森から西に向かったところにある渓流だった。

 渓流というだけあって川の流れはそれなりに速く、周囲には大きな岩がごろごろと転がっている。だが、それはそれだけ魚が隠れる場所が多いということであり、現に澄んだ水の流れの中には複数の魚の影が見え隠れしている。

 釣りに適していると思われるこの場所を選んだのは、アッシュではなくリッキーだった。

 当然のことながら、屋敷の周囲についてはアッシュよりもリッキーのほうが土地勘があった。土地勘があまりなく釣りをする場所をどうしようかと迷っていたアッシュに、魚が居そうな場所としてこの渓流を教えたのだ。

「んーと、ここら辺がいいかな」

 適当なところでアッシュは持っていたバケツを置き、手ごろな岩に腰を掛けた。バケツに差していた竿を拾い上げると、道中で拾っておいた餌を釣り針に刺して水の流れに落とした。

「ふ~ん、釣りってこんな感じなんやなぁ」

 アッシュの手際を見ていたリッキーがつぶやいた。

 その手には餌として捕まえていた昆虫が握られており、ばたばたと足を動かすそれを両手で抱きかかえながら噛り付いていた。

「そうですね。あとはかかるのを待つだけです」

 リッキーのほうへは一切視線を向けずにアッシュが答えた。リッキーのほうへと視線を向けてしまうと、否応にもかじられた昆虫の姿が目に入ってしまう。リスのリッキーには普通だとしても、人間であるアッシュにとってはグロテスクで見るに堪えず、視線を向けることができなかったのだ。


 しばしの無言。

 川を流れる水の音と遠くで聞こえる鳥の鳴き声、風になびく木々と葉の音だけの静かな空間。

 倉庫の時のようにリッキーと二人だと、アッシュは妙な気まずさを感じていた。なにか話さないといけないと思い、かねてから気になっていた質問をしてみた。

「そういえば、先輩はなんでアリシアと一緒にいるんですか?」

 その言葉の奥には、あんなにひどい扱いをされているのに。という言葉も隠れていたが、ニュアンスで伝わってしまわないようにアッシュは我慢した。

 リッキーがリスなのに人の言葉を話せることや石になれること、おそらくそれも関係があるとアッシュは踏んでいたが、そこまで詳しく聞くと長くなる気がしたので、一番聞きたいところだけに絞った聞き方をしていた。

 だが、リッキーにとってはそうではなかったのか、持っていた昆虫を一息に口に詰めて呑み込んだ後、覚悟を決めるように少しだけ息を吸い込んだ。

「そやな、この際やし、ワイと姉さんの愛のメモリーを教えてやろうやないか」

 得意げな表情のリッキーをアッシュは訝しむような目つきで見つめた。

 彼から見てもリッキーからアリシアへの感情には大きなものがあったが、アリシアからリッキーへの感情はあまり見えてきていなかったからだ。あっても自分と同じく、体のいい使い走りとしか考えていないんじゃないかと思っていた。

「人間たちの暦だと、何十年も前になるんやろうな。ここからもっと遠くの森にワイは住んどった。ああ、その時はまだ普通のリスやったな。それでも今と同じハンサムフェイスやったけどな」

 思っているよりも淀みないしゃべりで始めたものだから、聞いた本人のアッシュもすこし驚いていた。特に“今と同じハンサムフェイス”は、本気なのか冗談なのか、まったく見当もつかないし、そもそもリスのハンサムがよくわからなかった。

「姉さんは、その森に今みたいに屋敷を作って暮らしとった。ワイはそのころから姉さんの屋敷に出入りしとったんや。今とは違って会話もできひんかったけど、屋敷に行くと餌がもらえたからな、それを目当てに通っとったんや。ほかのリスには内緒にしとったけどな」

 小さな胸を張ったリッキーに、胸を張れることじゃないだろうにとアッシュは心の中であきれた。と同時に今も昔もアリシアが森に住んでいたことに驚きを感じていた。食事の概念がなくなったのが百年前とか言っていたはずなので、その頃から同じような生活をしていたのかもしれない。

「そんなこんなでワイらは平和な生活を送っとったんやが、————ある日、急に森が炎に包まれたんや。理由はわからん。たぶん、近くに住んどった人間の不始末やったんやと思う。なんにせよ、ワイらリスには止められんくらいの大火事になった」

 アッシュは自然と両手に握った竿をぎゅっと握り、息をのんでいた。握りしめていたのに、竿が引いていることにすら気が付くことなく、リッキーの話の続きを待った。

「森に住んどった動物たちはすぐに逃げ出した。自分の身が大事やからな。けど、ワイは逃げてる途中に姉さんのことを思い出して戻ったんや。……今考えれば、火事くらいで死ぬとは到底思えんけど、その時のワイは必死やった」

 森の火事というのは、天気次第ではかなりの規模になり、大きな被害が出るものであることをアッシュは知っていた。人間ですらコントロールができず、恐怖に陥るものなのだ、さらに体の小さい動物たちからすればそれこそ、天変地異にほかならない。そこから逃げるのは当然の動きで、それに逆らったリッキーの勇気は筆舌しがたいほどにすさまじいものだったのだろう。

「そこからはよう覚えてない。気が付いた時には、姉さんが心配そうな顔をしてワイを見とって、なんかしゃべれるようになっとったからな。あとから聞いたら、火事を伝えに行ったにはいいものの、その道中で死にかけになったワイを姉さんが助けてくれたらしい。治療の副作用でこんな風になってもうたらしいけどな。ワイは感謝しとるんや、普通のリスじゃなくなったおかげで、今でも姉さんと一緒にいられるんやからな。————どや、これがワイと姉さんの愛のメモリーや」

 話を終えると、リッキーは感想を求めるようにアッシュの顔を見た。

 すこし気になった点があったにはあったが、それはリッキーに言うべきではないものであると判断して、それ以外の感想を考えていると、

『クエエー!』

 遠くで変な鳴き声が聞こえた。

 アッシュは気にせずに感想を考えていたのだが、なにやらリッキーの様子がおかしい。

 空を見上げるなり、アッシュの体をよじ登り、肩まで来ると

「アッシュ、ワイの体をできるだけ高いところに持ち上げてくれるか?」

 真剣な表情でそう頼んできたのだ。

 なにやら不穏な雰囲気を感じ、アッシュは言われた通りに両手でリッキーの体を持ち上げた。

『クエエー!』

 すると、再度同じ鳴き声が聞こえた。

「もう、おろしていいで」

「わかりましたけど……、先輩、あの鳴き声は?」

「ああ、すまんな、緊急の仕事ができてもうたみたいや。ワイは一旦屋敷に戻るけど、アッシュは釣りを続けててかまへんよ」

 地面におろした直後、いい笑顔でそれだけ言い残すと、リッキーは森の中へ消えて行ってしまった。

 話に夢中になりすぎて、釣り針につけていた餌だけを持っていかれていたことにアッシュはようやく気が付いた。

 リッキーの話はアッシュとしてもかなり興味深い部分があった。だが、少なからず疑問も残っていた。

 リッキーは火事の原因は、近くに住む人間の不始末だと言った。そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない可能性だって十分にあった。端的に言えば、アッシュはアリシアに原因の一部があるのではないかと考えていた。そして、それがあったからこそ、リッキーを必死になって治療したんじゃないか、とも。

「……そんなこと考えても仕方ないか」

 当時のことを又聞きしただけの自分が考えた予想など、ただのろくでもない妄想でしかないのは本人が一番わかっていた。だから、これ以上考えてもプラスはだろうし、考える必要もない。そんなことしても妙な不信感が生まれることだけなのはわかっていたからだ。


 そうやってアッシュ本人は振り払ったつもりだったのだが、そのあと釣りに集中することはできず、結局なにも獲れないまま屋敷への帰路につくことになった。

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