第8話

 薄暗い部屋の中、アッシュは上半身を起こした。

 かすかな明るさを頼りにカーテンを開く。だが、まだ日も出ていない時間なので、部屋の中に光がさすことはない。それでもなんとなく体が朝になることは経験則でわかっていた。

 アッシュがこの屋敷にやってきてから一週間が経った。

 それだけ時間があれば人間慣れてしまうもので、早朝に起きるのも苦にならなくなっている。

 あの地獄を見てから、アリシアが料理をするために調理場に立とうとすることはなくなった。が、食事の文化は復活したようで一日三食きっちりと食べるようになっていた。

 おかげでアッシュが二人分の食事を拵えて、一緒に取るのが習慣が出来上がった。


 目を覚ましたアッシュは、部屋から出て調理場へ入ると慣れた様子でてきぱき朝食を作っていく。

 前日に仕込みをしてあったのだが、作っているうちに窓の外の景色も明るくなっていった。

「アッシュ、今日も早いなぁ」

 明るくなってきていた窓の外からリッキーがあくびをしながら入ってきた。

 リスがあくびというのも不思議な感じがするかもしれないが、そもそもが人語を話すリスなのだから、それくらいは気にならないくらいにアッシュの感覚はマヒし始めていた。

「よお先輩、おはようございます」

 初日はあれほど戦っていたアッシュとリッキーの関係性も一週間で大きく変わった。簡単に言えば先輩・後輩の関係になった。

 初日のようにバチバチとやりあって電撃を食らう羽目になりたくなかったアッシュが折れて、上下関係が出来上がった。

 とはいっても、尊敬などは全くしていないし、使う敬語も中途半端だ。それでも人間関係?がうまくいくのだから、なかなか侮れない。

 リッキーはアッシュに挨拶だけすると、その後ろを通って調理場を出て行った。アッシュが朝食を作っている間に、朝の掃除なんかをやるのだ。別に話し合って決めたわけではないのだが、一緒に生活する中で自然とそういう分担が出来上がっていた。

 朝食を作り終えてダイニングに並べていると、寝ぼけたアリシアがのそのそと部屋から出てくる。

「……おはよう。朝食は、できているようね」

「おはよう、並べ終えたら食べられるぞ」

 いつも座っているテーブルの席にアリシアが腰をかけたところで、ちょうどよくアッシュが朝食を並べ終えた。

「「いただきます」」

 食事の間は基本的に無言だ。

 幼いころ食事中にしゃべるのは行儀が悪いとしつけられて以降、アッシュは食事中には必要なこと以外は話さないようにしていた。

 アリシアは無言が苦にならないタイプなので、特に気にせず食事に夢中になっていた。

 無言の空間で、食器にナイフとフォークが当たる音だけがかすかに鳴っている。


 アッシュは昔この静寂が嫌いだった。

 静けさの中にある緊張感で食べ物の味が押しつぶされてしまっていて、マナーよく噛んで飲み込むことを繰り返し行う行為が食事だと思うほどにストレスだった。

 だが、今はこの静寂を心地よく感じていた。リラックスした状態で自分の作った料理の味や香りを楽しみながらマイペースに口に運んでいく。おそらく彼の生きてきた人生の中で一番食事を楽しんでいるのが今なのだろう。


「ごちそうさま。今日の朝食はいい感じだったわ」

 食事を終えると、毎回アリシアは一言だけ感想を言う。

 内容は大したことないのだが、アッシュが彼女の好みを把握するのに一役買っている。

「午前中は研究室にこもるから、自由にしていいわ。午後からはまだ考えてないから昼食の時にでも話すわ」

 使った食器をテーブルの上で重ねると、アリシアは席を立って二階へ上がっていった。

 午前中だけとはいえ、アリシアの屋敷に来てから初めての休み。掃除に洗濯などやらないといけない家事もいろいろあるが、それでも自由な時間ができることにアッシュは胸を躍らせた。

 最後の一口を大急ぎで飲み込むと、アリシアの分も含めた食器を洗い場に運んだ。


 食事の片づけを終えてから、リッキーと一緒に掃除や洗濯など一通りの家事を終わらせても、太陽はまだ東に傾いていた。

「……う~ん」

 さてどうしたものかと、アッシュは首をひねった。

 昼食のことまで考えると、街に行くほどの時間はない。できても森の周囲でなにかするくらいだろうか。

 いままで休みの時は何をしていたか思い出してみるも、盗賊団にいたころは休みなんてものは存在せず、それより前は根本的に生活が違いすぎて参考にもできなかった。

 ゆっくりできたときといえば、食料調達で釣りをしていた時くらいだろうか。

「釣りかぁ、……悪くないな」

 釣りならば時間もつぶせる上に、あわよくば食材まで獲れてしまう。倉庫を掃除していた際にくたびれた釣り竿を見つけていたので、アッシュにはなにもかもがちょうどよく思えた。

 倉庫に行くと、記憶の通り釣り竿が置いてあった。

 くたびれてはいたが、竿の強度に問題はなく、気になったのは釣り糸の素材が見たことのない半透明なものだったくらいだが、もう釣りに行く気しかなかったアッシュにとってはさしたる疑問ではなかった。

「アッシュは、なにをしてるん?」

 たまたま倉庫の前を通りがかったリッキーがアッシュに声をかけた。

「時間があるんで、釣りにでも行こうと思って」

 質問に回答はしたもののアッシュはリッキーのほうなど目もくれず、釣り竿の整備をしていた。

 リッキーもリッキーで、質問したのにふーんと興味のない顔をしていた。そのくせ、その場から動こうとしなかった。

 最初は釣り竿しか見ていなかったアッシュも、ずっと立ったままのリッキーを無視しているのは気まずく、適当に話を振ってみる。

「先輩も午前中は休みなんですよね。それともなんか仕事があるんですか?」

「ああ?ワイはいつも忙しいんやで。森の警戒任務もしながら、屋敷のこともやらなあかんからな。とはいっても、森のことはほとんどほかの動物に任せてるから、暇っちゃあ暇なんやけどな」

 遠回しに言っているがそれは普通に暇なのでは?と思ったがアッシュは口にしなかった。言っても面倒なことになるだけなのはわかりきっていたからだ。

 いつも屋敷にいるおかげで忘れがちなのだが、リッキーの本業はこの屋敷の周囲の森の警戒である。ほかの動物と会話して仕事を割り振っているので、本人が働いている様子が分かりにくいが、リッキーが働いていたおかげでアッシュが森に侵入した際にはすぐに見つかっていた。

「暇なら一緒に釣りします?」

 釣りと告げたときに反応が薄かったので、アッシュとしては言ってみただけだったのだが、思いのほかリッキーは迷ったように首を傾けて

「せやなぁ、別に行ったってもいいけどなぁ。……そんなにどうしてもっていうなら、行ったってもいいけどなぁ」

 ちらちらとアッシュを見ながら、そんなことを言っている。

 その様子からすぐになにを求めているか、アッシュは察した。

「先輩、一緒に来てくださいよ」

「しょ、しょうがないやっちゃなあ。そんなに言うなら行ったろうやないか」


 そうしてアッシュとリッキーは二人で釣りに行くことになった

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