第7話
「ただいま、……きゃっ」
アリシアが玄関を開けると、彼女らしからぬかわいい悲鳴が漏れた。
「おい!どうした!?」
荷物の重さに負けてのろのろ後ろを歩いていたアッシュもその声には思わず駆け寄った。
開け放たれた玄関から中を覗いてみると、床や天井がピカピカと輝きを放つほどにきれいになっていた。そして、それを見たアリシアが面食らって玄関に立ちすくんでいた。
「あっ!おかえりなさい、姉さん!……ついでに下僕」
「リッキー、これ、あなたがやったの?」
「はい!久しぶりに本気を出させていただきやした!」
声を聞いて玄関に現れたリッキーは、アリシアの問いかけにさも当たり前のようにそう答えた。
本気を出したからといって、ここまできれいにできるものなのか。指示を出したアリシアにすら甚だ疑問だったし、ここまでやられるとちょっと引いた。
アッシュも、まだリッキーのことが分かり切っていないとはいえ、リッキーが普通のリスじゃないのはさすがにわかった。
「ま、まあきれいになったならいいんじゃないか?……ちょっと過剰だとは思うけど」
「そうね、きれいなことはいいことだものね、……やりすぎだけど」
掃除の加減はさておいて、きれいになったことはいいことと言い聞かせて二人とも自分を納得させた。……掃除の加減はさておいて。
「じゃあ荷物も多いことだし、さっさとしまっちまおうか」
「————アッシュ、待ちなさい」
屋敷に入ろうとしたアッシュをアリシアが呼び止めた。
理由がわからず、屋敷の中に入らず立ち止まったのだが、続きの言葉はなく、アリシアはなにかを求めるようにアッシュを見るだけだった。
「……な、なんだよ。人の顔をじろじろ見て」
「なにかいうことがあるんじゃなくって?」
「なにか、いうこと……?」
と、言われてもアッシュには見当がつかなかった。
察しの悪いアッシュに、焦れたアリシアがヒントであろう単語を発した。
「ここはあなたの家、ならいうことがあるでしょ」
その言葉はアリシアにとってはとても当たり前な言葉だったが、アッシュにとってはそうではなかった。
おそらく、普通の生活をしていたころには当たり前だった言葉。
盗賊になってから、いやそれよりももっと前、自ら帰るべき場所を捨てたあの時から、忘れてしまっていた言葉。
その言葉を発すれば、ここに根を張ることになってしまう。彼女にはそのつもりはなかったが、彼はそう思った。
一瞬のためらい。
だが、それを振り払ったのは、彼の中にあった漫然としたなにかだった。
「————ああ、ただいま」
その言葉を聞いた一人と一匹は
「「おかえりなさい」」
そうやって微笑んだ。
「じゃあ、始めますか」
リッキーの掃除によって新品のようになった調理場と、新品の調理道具に食材を並べて、アッシュはほくそ笑んでいた。
いままでまともな調理場も道具も与えられずに料理をしてばかりだったので、こんなにも清潔でかつ使いたい道具を使って調理ができるというだけで気分が昂っていた。
「あら、もう準備できたの?」
扉にもたれかかりながら、アリシアがにやけ顔で一人ほくそ笑むアッシュを見ていた。
かあっとアッシュの顔が紅潮していく。
「あ、ああ、もう始めるところだ」
ごまかすようにナイフを持って、食材を切る動きをし始めると
「じゃあ、もう日も落ちていることだし、始めましょうか」
なぜかアリシアまで調理場に足を踏み入れていた。どうやらアッシュと一緒に料理をするつもりのようだ。
別に期待をしていたわけではなかったが、調薬をする以上、不器用ではないはずなので、最低限の手伝いくらいはできるとアッシュは高をくくっていた。
————そして地獄を見た。口に出すのも憚られるほどの地獄を。
新品だったはずの道具の半分は無残な形に変わり、もう使い物にならなくなった。
きれいに掃除されていた調理場のいたるところには血が落ちており、石で作られた流し台はところどころ切られたような無残な傷がつけられている。
食材も半分は使い物にならなくなってしまい、結局アッシュ一人で作り直すことになった。
「つっかれたぁ……」
始める前はルンルンで上機嫌だったはずなのに、料理が出来上がるまでにアッシュの気分は百八十度変わり、今では異様なほどの疲れを感じていた。
「な、なんで、あんなことに……」
出来上がった料理を運んでいたアッシュの目に、テーブルに腰かけてわなわなと体を震わせるアリシアの姿が入ってきた。
あれだけ自信満々だったのに、あんな惨状を作り上げたのだから、ああなるのも無理もないだろう。あれでは食事の文化がなくなるのも頷ける。だって、自分じゃ作れないんだもの。
正直、このまま放置していてもいいのだが、目の前でしょげられているとせっかく作った飯もまずくなってしまう。変な慰めは逆効果になると判断し、アッシュは必要な言葉だけを口にした。
「飯できたが、食うか?」
「食べるッ!!」
食い気味に反応したアリシアは、並べられた料理を一瞥し、ナイフとフォークを握ると勢いよく食べ始めた。その様子はやけ食いのようにも見えた。
アッシュとしては、感想の一つでももらえると好みもわかってよかったのだが、やけになっているアリシアに聞く勇気はなかった
結果、二人とも無言で食事をすることになった。
「久しぶりの食事にしては悪くなかったわ。ご馳走様」
先に食事を終えたアリシアは一言それだけ言うと自分の使った食器をまとめて、まだ荒れたままになっている調理場へと片付けに行った。
アッシュのほうはというと、またアリシアの言葉に感動を覚えていた。
料理を作って褒められるなんて久方ぶりの経験だったし、今日は特に大変だったし、お礼を言われるとその苦労が少しだけ報われたような気がした。だからなのか、明日からも頑張って作ろうと思うなんて、気の狂いが起きてしまったのだ。
ガッシャーン、ガシャガッシャン
何かが割れるような甲高い音が家中に響き渡った。
————嫌な予感がする
アッシュの脳裏に先ほど見た地獄が思い起こされた。
「きゃー!お皿が、お皿がああ!」
嫌な予感は的中し、調理場のほうからアリシアの悲鳴が聞こえてくる。
すでに調理場は大変なことになっているのだから、これ以上ひどいことにはならないだろうと、そのまま食事を続けようとしたアッシュだったが、
「アッシュ!……ねえ、アッシュってば、早く来て!」
「……はあ」
さすがに呼ばれてしまえば無視するわけにもいかず、いったん食事をやめて重い腰を上げた。
地獄になっているであろう調理場のことを考えて、もう一度小さなため息をついた。
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