第2話 唯一の理解者

 ぬるい風が窓から入り込む6月の昼下がり。午前の授業から解放された生徒たちがそれぞれの友人たちと昼食をとる中、俺は溶けたナメクジのように机に突っ伏していた。


「何故だ……あれほどの天使を見て、感涙するどころか手を叩いて笑うだと?」


 信じられん。俺の秘蔵ファイル『美歌 六歳四ヶ月』から至高の一枚を提供してやったというのに。

 これはもう……


「この教室の全員が悪魔に取りつかれてる……?」


 あまり考えたくはないが、このクラスはもう手遅れなのかもしれない。いや、美歌の力ならば、哀れな子羊を救えるかもしれない……

 そんな思考を巡らせていると、椅子の足を引きずる音とともに、身長差が目立つ二人組が目の前にやってきた。


「はーい。自分の価値観の相違を悪魔に押し付けないであげてね」

「相変わらずだな~明人は」


 自分が知る中で、最も悪魔に近しい人間たちの声にため息が漏れる。


「元はと言えば、お前らが俺に面倒ごとを押し付けたせいだろう」


 机にへばりついた上半身を持ち上げながら、俺は交互に二人をにらみ上げる。


「いや~僕たちは、君の布教を手伝ってあげようとしただけだよ」

 

 芝居じみた手振りで肩を竦める身長小さい方は夢川甘次ゆめかわかんじである。あどけなさの残る童顔に騙されそうになるが、豊富な恋愛経験をもち、多くの女子生徒を泣かせてきたクズ男だ。


「えっ?さっきは『シスコン暴走させて、授業滅茶苦茶にしようよ』って――ぐふぉあっ!」

「なに普通にばらしてんだよ」

「ありがとう悠馬ゆうま。お前のそういう隠し事できない所には、好感を持っている」


 何の躊躇いもない暴露のせいで、甘次から蹴りを貰っているでかい方の男は鹿野悠馬しかのゆうまと言う。見ての通り、一般高校生にしては脳の積載量が少ない。平たく言ってしまえば馬鹿である。

数回の蹴りで満足したのか、甘次は持って来た席にどかりと座り込んだ。悠馬も太ももをさすりながらも、加害者である甘次の隣に置いた椅子に腰を下ろす。


「僕たちが三馬鹿って呼ばれてるの絶対君のせいだからね」

「ちょっと待て、何故俺のあずかり知らぬところで、そんな蔑称のグループに所属させられているんだ?」

「いーじゃん、三馬鹿。俺は気に入ってる。なんかめっちゃ仲良さそうじゃん」

「良くないよ!高校入ったから、せっかくPINE(パイン)の連絡先整理したのに、全然女の子の名前増えないんだけど!」


 そう言いながら、甘次はメッセージアプリの画面を見せつけてくる。ほとんどが本名ではなかったので、正確なことはわからないが二十人ぐらいは女子のようなアイコンがあった。

 こいつの毒牙にかかる同級生に、ささやかだが祈りを捧げておこうと思う。


「じゃあうちのばあちゃんのPINEいる?最近始めたんだって」

「絶対にいらない」


 くだらない会話を繰り広げながら、二人は持ってきた弁当の封を開けた。こいつらは人の机で飯を食うのに同意も取らないらしい。

 

 こんな無遠慮が人の姿を得たような奴らと出会ったのは中学の――


 いや、やめよう。こいつらとの腐れ縁など、俺の海馬の細胞一つたりとも働かすのに値しない。俺の脳に運ばれるグルコースは美歌のことを考え、その姿を詳細に描くためにある。


 中学と言えば、俺の二個下である美歌は俺と同じくこの私立聖明星学園しりつせいあけぼしがくえんの中学校に通う二年生である。同じ学校に進学してくれるなんて、どこまでお兄ちゃん思いの妹なんだ。

 残念ながら、俺の登校する高校とは建物が異なっており、会いに行くには昼休憩しかない。本当ならこいつらに構わず、隣りの中学校舎に走っていきたい。


 しかし、現在の俺には学校での接触禁止令が出ているのだ。


 それは、同じ中学の三年生だった俺が、妹の記念すべき初登校日を祝福しに行った時のことである。


『……なんで来たのお兄ちゃん』

『家族に会うために理由なんているか?』

『キモイ。というか、二度と学校で話しかけないで』


……まあ、たった三文字の罵倒にひるんだわけではない。決して思わず号泣しそうになるほど傷ついたわけではないが、愛しい妹が言うことには素直に従っておこうと思う。


「神崎くん、凄い面白い顔してるね。さっきの発表辛かった?」


 若干の傷を伴った記憶に囚われた意識は、思いがけない声に現実に引き戻された。

 声の方向に振り返ってみると、一人の女子がこちらに微笑んでいた。

 雲の隙間から差す陽光のように、柔らかく鮮明な笑顔。内向きに巻かれたセミロングの髪が天使の羽のように優しく揺れる。

 天羽千聖。

 名前遊びからか、本人の雰囲気からそう呼ばれるのかは分からないが、このクラスだけでなく、他学年の生徒からも『天使』ともてはやされる人物が、後ろに立っていた。


「俺は別に辛いなんて思っていない。愚かなご学友達に憐れみを覚えているだけだ」

「あはは……愚かは言い過ぎじゃない?でも、妹さんすっごくかわいいからそう言っちゃう気持ちもわかるかも」


 困ったように眉を下げながら、彼女はふにゃりと笑った。その笑顔を見ていたクラスメイトが呆けたように吐息を漏らす。


「神崎くんのプレゼン聞いて、私も神様はいると思ったの」


 そう言いながら、彼女はスマホをこちらに向けてきた。女子高生らしいパステルカラーのケースに包まれた液晶にはロック画面が表示されている。デジタル標記の時計の後ろには、満面の笑顔を浮かべる幼稚園児ぐらいの男の子がいた。


「うちの弟が生まれたのも絶対に神様の奇跡だもん」


 そう言いながら、彼女は先程よりも温かく朗らかな表情を浮かべた。天使と呼ばれる彼女から放たれた光のようなものに貫かれ、周囲の男子が濁った呻き声を上げる。俺の後ろでは悠馬が「はぅあ!」と言いながら椅子の背もたれに崩れ落ちた。 

 まるで十字架を向けられたアンデットのようだ。やはり、このクラスは物の怪の類が蔓延っているらしい。

 胸を抑えながら悶えている男どもを尻目に、俺は天然のエクソシストに向き直った。


「ありがとう。君なら、そう言ってくれると思ってたよ」


 弟という名の天使を愛する彼女は、俺のである。


 




 




 


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