第32話

「くそ、重いな」


 日課のマナの枯渇や身体能力の向上を図るためのトレーニングを終えた俺は、ふらふらな足取りで3階の自室へと向かっていた。


 スキルを手に入れて間も無くから続けているこの日課は、もう直ぐ一年が経とうとしているのにも関わらず、辛さはちっとも変わっていない。


 俺の治癒スキルは本来であれば、筋肉の疲労などを含めた疲れ全般を癒す事が出来る。しかし、マナの枯渇後は治癒を満足に使えない為その限りではない。


 マナの枯渇は精神的疲労が強く、俺のトレーニングは強化された肉体でも悲鳴を上げるほどの負荷を掛けて行われる為、身体的疲労もそれと同じくらい強い。


 その為、現状の就寝前というのが1番俺が弱っている状態と言える。暗殺者がいるなら正に今が狙い目という訳だ。風呂に入るのさえ億劫なのだから、俺の肉体がいかに強靭でも攻撃系のスキル所持者ならば簡単に殺せる事だろう。


「ふぅ…」


 やっとの思いで3階の自室へと辿り着くと、俺は一息つくのも程々に窓の外へと目を向けた。


 ——ペコッ


 遠く離れた木の枝に止まるカラスが俺と視線を合わせると静かに頭を下げた。


 距離はだいぶ離れているがお互いの姿は、しっかりと視認できている。


「よし、順調みたいだな」


 その事を確認した俺は、ここ最近力を入れていた事の成果を実感し、密かに満足感に浸っていた。


 脳の強化という以前から有益と考えていた試みは、想定よりも大きな利益を俺達にもたらした。


 まず、人体実験に移行する前に試験的に行ったカラスだが、初めは難しいとされていた複雑な命令も難なくこなし、体感では人間と殆ど差を感じない程の知能までの成長を遂げた。


 俺の話す言葉はもちろん理解しているし、入念に文字を教え込んだ結果、文字での意思の伝達も可能になった。


 カラスの体の構造上、話したり、文字を書いたりする事は未だ難しいようだが、今の所、命令をこなす分には支障は無く、特に強化する必要性は感じていない。


 現状、本格的に施した強化は脳、視力、嘴、翼の計4箇所だ。初めは脳だけの予定だったのだが、重要任務を任せている内に、必要に駆られて色々と追加してしまった。


 しかし、成果は上々だ。


 視力に関しては、元の性能が優れていた事もあり、少なくとも今の俺よりは遥か遠くのものが見えているようで、指笛を鳴らせば俺からは姿が視認できない距離からでも俺を見つけて飛んでくる。


 嘴と翼に関しては、攻撃力と機動力の足しになればいいなと軽い気持ちで施したのが、これが結果から言えば大成功だった。


 飛ぶスピードは格段に速くなったし、その速度から繰り出される嘴での攻撃は、人間の頭くらいは軽く貫通しそうな程の威力を秘めていた。


 更に攻撃力を伸ばそうと思えば、筋肉や骨の強化等といった方法もあるが、それは別に急ぐ必要はないだろう。今でも十分役に立っているし、俺は別に戦力を求めている訳ではないからな。


 声帯なんかも強化すれば、直ぐにでも話す事が可能なのだろうが、意思疎通が明確に取れ過ぎるのも色々と面倒臭そうだからと強化は今の段階では見送っている。


 必要に駆られれば、する事もあるだろうが、現状ではその予定はない。万能過ぎない方が都合の良いこともあるのだ。


 因みにカラスに任せた重要任務というのは、具体的に言うと主にコンビニや個人商店等での金品の強奪といった犯罪行為だ。


 まぁ、言いたい事は分かるが、この件に関しては、止むに止まれぬ深い訳がある。


 というのも…何処までの命令なら実現出来るのか限界を確かめようと余り深く考えもせずに命令してみたら完璧に任務を遂行するもんだから味を占めてしまったのだ。


 考えてみて欲しい。


「あそこの機械ぶっ壊したら、これくらいの紙が入ってるから咥えられるだけ持ってこい」


 この一言で、数万が手に入る。


 な?うま過ぎる話だろ?

 正に止むに止まれぬ事情というわけだ。


 カラスは野生動物だから法律という面倒くさい強制力に縛られない。その為、人の身では犯せない事を簡単に実行できる。これは暁光だった。


 精神的に強いのも魅力的だ。野生は弱肉強食。その事をよく理解している為、こういった行為を犯す際に変に緊張したりしない分人間と違って躊躇がない。俺という絶対的な天敵がいる影響もあり優先順位が明確だった。


 元来、社会秩序の外側に生きてきた生物の為、性質として罪悪感等は芽生えたりしないのだろうが、これは俺の配下としてはこれ以上ない素質だった。


 そして、話すことが出来なければ、もし誰かに捕まり、拷問されようとも俺との関係が漏れる事も無い。


 まぁ、最近はあまりにやり過ぎてネットニュースに取り上げられたりして控えているが、折を見てこの活動は続けていこうと思う。活動資金の調達には丁度いいからな。


 全国各地でやれば俺に然るべき機関からの疑いの目は向けられないだろうし、カラスが金目の物が好きというのは周知の事実だから、いい目眩しにもなるだろう。


 正確には光る物だろうが、それはこの際些細な問題だ。俺との関与さえ疑われなければそれでいい。


 まぁ、人と違って人相のようなはっきりとした外見的特徴がある訳でもないから、疑われる事は十中八九無いだろうが、用心するに越した事は無いだろう。


 もし仮に、カラスを見分けられる者がいて、更には俺まで辿り着けたなら、その時は俺も素直にお縄につこう。そいつは紛れもなく俺の想定外だ。


 そして、肝心なカラスの忠誠心だが、当初抱いていた俺への恐怖心も、次第に強化されていく自身の身体や時間経過を経て、メリットがあると理解したのか態度も徐々に緩和していき、今ではいい関係を築けている。


 最近では自ら進んで常に俺の姿が見える位置で控えるようになったりと色々と良い変化を見せている。


 俺と目が合うと頭を下げる事から、どうやら恐怖に尊敬が合わさり畏敬の念のようなものを持ち始めたらしい。


 そして、本命である人体の脳の強化の方だが、これも結果から言えば大成功だった。


 カラスと同様の方法でテンマに試してみた所、特に死にかけたり、術後障害などが残る事もなく、問題無く強化を終えることが出来た。


 別に、銀次の方にはテンマと違い明確に勉強しなければならない理由も無かった為、無理に脳の強化をする必要は無かったのだが、銀次が覚悟を決めていたのと、俺がその選択の方が今後の活動においてプラスになると考えた為、結局2人に強化を施した。


 テンマは教師、銀次は…まぁ、取り敢えず良い大学に行っておけば急な方向転換の際にもどうとでもなるだろうという事で、2人には今ひたすらに勉強をさせている。


 銀次は進学の為の学費の方を心配していたが、ちょうどカラスの活躍で臨時収入もあった為それで賄えばいいだろうという事で落ち着いた。高学歴の駒が出来るだけでなく、恩も売れる。投資としては悪くない。


「まだ受かると決まった訳では無いけどな…例え、脳の稼働率が上昇しても、銀次はともかくテンマは基礎という蓄えが皆無だ。いかんせん今までのハンデがデカ過ぎる。まぁ、物覚えは格段に良くなったんだし問題ないだろうが、当分はテンマと銀次はお勉強に集中だな…」


 未だ怠い体をベッドに投げ出し、意識を自分の中へと集中する。


 そして、口では百人一首を唱え、頭の中では3桁の掛け算を同時進行で行う。どちらか一方が疎かになったら終わりというルールで、ミスが出るまで続けていく。


 1分…3分…5分…


 ——ピーポーピーポー


 窓の外から救急車のサイレン音が入ってくる。


「…やっぱ無理か」


 やはり、並列思考はまだ難度が高いらしい。少しでも集中が途切れると、途端に思考が一つになってしまう。5分ちょっとしか維持出来なかった。


 今俺が目下力を入れて取り組んでいるのは、アニメや漫画なんかでよく見る並列思考だ。


 実は、テンマと銀次に脳の強化を施した際の様子を鑑みて、この分なら問題無いだろうという事で自分にも脳の強化術を施していた。


 スキルを使うトリガーである自身の脳を傷付けるというのはリスクが無い訳では無かったが、それを冒すだけのリターンは得られたように思う。


 まず、記憶力が増した。念の為言っておくが、俺の記憶力は元から優れている。だが、それを加味しても十分効果を実感できたという事だ。


 具体的に言うと、本来なら短期記憶のように保持期間の少ない記憶でも、長期記憶のように憶えて居られるようになった。


 普段なら特に気にすることも無かった一瞬視界に入っただけのものでも、形状や文字、色や配置等の細部に至るまでが瞬時に脳内に保管される。


 今までは脳に入れる前に情報を整理しなければならなかったのが、強化後は取り敢えず全ての情報を脳にぶち込み、それを後から取捨選択する事が可能になった。


 簡単に言うと、脳内にハードディスクを埋め込まれたような感じだ。脳の記憶の保管庫の容量が格段に大きくなり、以前よりも俄然自由が利く。


 それが可能なら、並列思考も可能なのでは?…と考えたのだが結果はこの様だ。少しの外的要因で直ぐに思考が統合してしまう。


 単純な計算問題などのジャンルの似通った分野でなら今でも3つくらいの同時進行も可能だが、それに限らないとなると2つが限界。それも現状綱渡りな状態で、途端に難易度が増す。


「ま、使い熟すには更に研鑽が必要って事だな。幸い脳の強化は始めたばかりだし、まだまだアップデートの余地はある」


 並列思考を身に付けるメリットは多い。戦闘中はもちろんの事、日常生活でも色々な場面で役立つ。


 ゆくゆくは、鶏を適当にいなしながらマナ操作の練習をしたりなんて芸当も出来るかもしれない。これは是非とも身に付けたい。


 それに、同時進行で物事を進行する事が出来れば、その分時間を有効に使える。時間がいくらあっても足りない俺からしたら、正に願ってもない能力だ。


「出来るまでやってやるよ…生憎俺は苦戦が大好きなんだ…秋の田の…」


 狂人の脳トレはその後一晩中続いた。


















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