第31話
週末が明けた月曜日。
テンマと銀次の通う不良高校では、またも異様な光景が広がっていた。
——ペラッ
——ペラッ
——ペラッ
——ペラッ
——ペラッ
…
その渦中はやはり六道テンマ。
教師が普段通り授業を進行する中、薄気味悪い笑みを浮かべ、嬉々として机に向かう。
その机の上や周囲の床には何冊もの参考書や教科書が積み上げられ、それらのページを物凄い速度でめくり読み込んでいる。
側から見ればただページをめくっているだけで、とてもその内容が頭に入っているとは思えなかった。
ただ、その眼球は確かに文字を追い、時折り発される言葉の中には教科書の内容と思わしき単語が聞こえてくる。
喧嘩が大好きでそれ以外には関心を見せない事で周知されているあの六道テンマが勉強をしている。
その事実は、教師からしても、生徒からしても、決して見慣れることの無い違和感のある異常な光景だった。
そもそもこの学校で進学を目指す生徒は稀だ。いや、居ないと言ってもいい。
中学から、早い者では小学生の頃には勉強を放棄した者、または苦手意識を持ち離脱した者、この学校にいる殆どがそういった生徒達だ。
現に、今授業を行っている教師が、この教室で、いやこの学校で勉強をしている生徒の姿を見かけたのは初めての事だった。
「先生〜」
授業の真っ最中にも関わらず、手を挙げ自分の席へと教師を呼びつけるテンマ。
本来であれば、テンマのこの行動に関して教師は注意又は怒ってもいい。だが、ことこの学校に勤めている教師に至っては、そんな事些細な問題でしかなかった。
それも、考えてみれば当然の事だ。普段から溜まり場のように教室を私物化している生徒達が蔓延るこの学校で勤めているのだから感覚も狂う。
もはや、先生と呼ばれるだけで嬉しいとさえ思っていた。
「は、はい!!」
嬉しそうにテンマの席へと駆けつける教師。
実は、今朝から教師陣の間では、勉強をしている生徒達が居ると話題になっていた。その達とは、もちろんテンマや銀次の事なのだが、教師にとってこれはまさしく大ニュースだった。
1限目や2限目を担当した教師が言うには、教えている内容とは異なったが質問までされたという。
遂に自分の番が!
教師は内心高揚していた。
この学校に新卒から勤めて4年。夢にまで見て就いたこの教師という職業は、もはや転職を考える程の域に至っていた。
不良がいても根気強く指導を!と意気込んでいたのも最初だけ。1人に手を焼いてるうちに、更なる不良が…まさか、学校に属する殆どの生徒が不良とは流石にお手上げ状態だった。
最近では、何故教師になったのか、自分の存在意義とは、これは考え方によって給料泥棒なのでは?…と本来であれば悩まなくても良い筈の事で自己嫌悪を繰り返す日々を送っていた。
しかし、今朝いつものように絶望しながら学校に出勤するとどういう訳か先輩教師陣の表情が明るい。話を聞いてみると、朝早くから学校に来て自習している者がいると言うではないか。しかも、その自習は授業中にも行われ、遂には質問までしてくるという。
遂に仕事が出来る!!
希望でしかなかった。
自分の担当科目は数学。
しかし、テンマの元で広げられていたのは授業に関係ない科目の教科書ばかり。ざっと見た感じ主に暗記系の科目だ。
授業に関係のない教科書を広げる。これは、授業なんて端から聞くつもり等無いと言われているも同義。これも本来では怒っていい案件だ。
しかし、そんな事今となっては気にするまでもない小さな問題だった。
スマホを弄ることも音楽を流すこともなく、お菓子を食べずに席に着いている。そして、科目は違えど教科書を開き、自分を先生と呼び頼ってくる。
どこに問題が??
「ど、どうしました?六道君…」
思えば、初めての教師としての仕事。
高揚している心を抑えて、なんとか平静を取り繕う。
「これってどういう意味?」
来た!!質問!!これは何が何でも答えなければ!!
「少し見せて貰えますか?」
「うん!!」
笑顔のテンマから教科書を受け取ると、そこに記されている文に目を通す。
科目は世界史。
専門外も専門外。だが、これは何としても答えなければならない。教師生活の大事な一歩だ。ここで生徒の信頼を裏切るわけには行かない。
幸い、自分もそれなりの大学を出ていて、受験でも世界史を選択した。深く掘り下げられる日本史に比べれば、暗記量は増えても世界史の方がまだ得意と言える。
「…」
続くしばしの沈黙。
「んー、先生でも分からない?」
テンマの言葉に教師の鼓動は早くなる。額から顎へと汗が一粒流れた。
分かる。分かるはずだ。いや、分からなければならない。
内心穏やかではなく、脳の隅から隅までの記憶を掘り返し、昔の記憶を思い起こす。頭に血を送り過ぎて、半ば目が充血してきても考える事はやめない。
「…!?こ、これはですね…」
これ程、自分を褒めたいと思ったことは無い。最近では珍しく自己肯定感が上がった。掘り返した先にあった確かな記憶。これは自分も苦戦したところ。
世界史は、日本史と違い馴染みのない名前ばかりが出てくる為に混乱してしまいやすい。暗記した内容と上手く結びつけなければ、理解するのは難しい。
「…という訳ですが…理解できましたかね」
教師という職に就いて置きながら、久しくしていなかった教えるという行為に、些か不安を覚える。
ちゃんと理解してもらえただろうか?
しかし、テンマは自信のなさそうに発されたその言葉に、とびきりの笑顔で反応した。
「えーー!凄いね、先生!!なんか名前とかは直ぐ覚えられるんだけど、中々話が繋がらなくて意味分かんなかったんだ!ありがとう!!すっごく分かりやすかったよ!!」
この4年の教師生活で初めて得られたやりがい。その感動で教師の目からは一雫の涙が溢れていた。
今まで求めていた反応そのものだった。この4年という社会人生活としては短くも、永遠のように長く感じられた地獄の時間が一気に報われたような気がした。
教師というのは、労力に見合わないと言われる事の多い職業だ。事実、自分も最初のやる気は次第に無くなっていき、最近はそんな風に考える事も多くなっていた。
だが、違った。
どれだけ苦労が多くとも、1人でも自分を頼ってくれる生徒がいれば、そんな事は些細な問題なのだと今実感した。
「先生大丈夫?」
「え、えぇ、大丈夫です。目にゴミが入ってしまっただけですので…」
「換気しようか!僕、窓開けるよ!」
「あ、ありがとうございます」
ここではいつも罵声ばかり浴びせられてきたのに、今は心配され、自分の為に動いてくれる生徒がいる。
この事実に、さらに涙が溢れそうになるが、それをグッと堪え、気になっていた事をテンマに質問してみた。
もしかしたら、自分が失言をしてやる気を削いでしまう可能性はある。だが、どうしても聞かずには居られなかった。
「六道くん…僕からも一つ質問してもいいでしょうか」
「いいよ!なに??」
「何故、急に勉強を始めたのですか…?あ、誤解はしないで貰いたいのですが、僕はその事自体はすごく嬉しく思っています。た、ただ、その理由が気になりまして。この学校はご存知の通りあまり勉学に力を入れていません。大学進学する生徒も殆ど居ません。授業を真面目に聞いてくれる生徒も居ません…」
今は授業中。テンマ以外にもこの教室には生徒がいる。六道テンマという抑止力のおかげで今は大人しくしているが、強面をぶら下げ、教師とテンマの話に聞き耳を立てている。
この場の発言により不況を買い、後にテンマの居ない場所で…なんて事は十分に考えられる。
だが、それでも六道テンマという生徒と対話をしてみたかった。
「最近では、教師を辞めようとさえ考えていました。ですが、僕は今日六道くんに頼ってもらえました。それでお礼を言ってもらえました。凄く嬉しかったです。そのおかげで今後も教師を続けていく覚悟ができました。ですので、もし宜しければ理由を教えて欲しいのです。勉強に興味のなかった六道くんが、勉強に興味を持てた理由を。それが、少しでも理解する事ができれば、今後の教師生活にも活かせる気がするんです。お願いします」
やるべき授業を中断し、長々と1人の生徒と対話する。本来なら、これは教師として許されない行為だろう。ましてや、いち生徒に頭を下げ、己の利益まで得ようとしている。
だが、そんなの関係ない。元から授業なんて成り立っていなかったのだから、今更気にするだけ無駄だ。
「んー、僕ね、歳の離れた親友がいるんだ」
「親友…ですか?」
質問の答えに対しては、些か言葉足らずな短い返答。ただ、話してくれるのならば、何でもいい。今は聞き手に回ってみよう。
「そう!言葉遣いとかも小学生とは思えないくらい大人っぽくてね。勉強も運動も何でもこなすし、本当に弱点なんかない完璧人間なんだ」
「それは凄いですね」
「そうなの!それで最近ね、その親友の運動会があったんだ。そこでもやっぱり大活躍でさ!僕も綱引きに参加したりして凄い楽しかったんだ!けどさ、その時ふと思ったんだ。僕達は歳の差があるから、一緒にいられる時間は限られてるなって…」
「そうですね。時間の流れは良くも悪くも皆平等ですから」
「ふふっ、別の親友にも同じような事を言われたよ。でも、仕方ないって分かっててもやっぱり諦めきれなかったんだよね。その子の側に居ると凄い楽しいから」
「本当に好きなんですね。その方の事が」
「うん!だからさ、限られているからこそ少しでも一緒の時間を過ごす為の方法がないか考えてみたんだ。そしたら、学校の先生になるのが一番かなって閃いたんだよね。僕が先生になって、その子が通う高校に赴任すれば長い時間一緒に居られるでしょ?」
「…なるほど…それはまた凄い決断をしましたね」
「ふふっ、うん、自分でも僕が教師っていうか今は大学進学かな?を目指すようになるなんて今でも信じられないよ!!でも、その子はすごく頭が良いからさ。高校もきっとすごく偏差値が高い所に行くんだ。だからその為にも、僕は良い大学に行かなきゃいけないって訳!…ってあれ、何の話だっけ?勉強に興味を持てた理由?今のでわかった??」
「えぇ、よく分かりました。ありがとうございます。六道くんは良い出会いをしたんですね」
「うん!」
教師の言葉に笑顔を向けた後、再び教科書に目を落とす喧嘩最強と名高い六道テンマ。
その姿を見て、教師もまた笑みを浮かべた。
人の出会いとはここまで1人の人間に影響を与えられるものなのですね。
テンマの話に感心すると同時に、教師は確かな気付きを得られていた。
もしかしたら、ここにいる生徒の殆どが、なにか夢中になれる事ややりたい事を見つけられていない子達なのかもしれない。
なら、それを見つけ、応援し、その手助けを少しでもする事ができる教師がいれば…それは、六道くんに影響を与えた人物のような存在になり得るのかもしれない。
これは、色々な物を壊して来た六道テンマという人間が、初めて他人に良い影響を与えた瞬間だった。
諦めるのはまだ時期尚早だった。自分はまだ、はじめに思い描いた理想の教師を目指すことが出来る。
その事に気が付いた教師の行動に迷いは無かった。
「六道くん、また勉強に躓く事が有れば、教科を問わず僕に聞いてください。力になるとお約束します」
「えぇー!いいの!?いっぱい聞いちゃうよ?」
「えぇ、構いません。それが教師である僕の仕事ですから。六道くんの先輩教師となる身として恥ずかしくない働きをします」
「あははっ!がんばるよ〜!」
教師は続けて周囲の強面の生徒達に向かい声を張り上げた。そこに、強面と口調の悪さに怯えていた自分はもう居ない。
「あなた達も何か困った事があれば、何でも相談して下さい。どんな内容でも決して馬鹿にせず、真摯に対応すると誓います。僕は、あなた達の教師ですから!」
新米教師が一皮剥けた瞬間だった。
しかし、この時の教師は六道テンマという人間について大きな勘違いをしていた。自分に教師という職に再び希望を見出してくれた手前、些か美化し過ぎていたのだ。
六道テンマは端から立派な教師なんて目指していない。生徒の力になりたい等といった崇高な目標も持ち合わせていなければ、口にもしていない。
六道テンマが話すその行動理念の全ては、その親友を軸とした歪んだ想いによってできている。
「親友と一緒の時間を共有したい」と言えば聞こえは良いが、手助けを約束した教師はその歪みに気が付けていなかった。
六道テンマが楽しくもない勉強をする理由。それは、月下快という狂人の側にいる為の手段として教師という職が最適だった。
ただ、それだけの理由だった。
「ははっ!絶対先生になるぞ〜!」
このすれ違いの果てに生まれる怪物は、良い教師か悪い教師か…それは、後になってみないと分からない。
だが、少なくとも聞き耳を立てていた周囲の不良達は、テンマの教師になるという発言に顔を青くさせ、皆一様に同一の事を思ったという。
『お前みたいな教師がいてたまるか』
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