ツイとミラ 心を通じ合わせて

 紆余曲折あって兄妹ではないと互いを認識した二人は十四歳になった。

 この頃、ようやくツイはミラを異性としてみていたことに気が付き始め、無意識に彼女を視界に入れてはドギマギと緊張することが増えていた。

 また、すっかりと安定したミラは元々の明るくて人懐っこい、優しい性格を取り戻していた。

 物おじせず人見知りをしないミラは、タルトに激しく反抗して大暴れしていた過去が嘘であるかのように、愛想良く振舞って他者とコミュニケーションをとることが得意だ。

 ちなみに、特に彼女が好んでお喋りをするのは同年代の友達と子供、そして年配の女性である。

 ミラは年上に可愛がられやすいようだ。

 勉強が苦手であり興味関心が薄い代わりに他者と接するのが得意で機転も利くミラは、ツイとは違って医療の勉強や調剤、診察の手伝いなどではなく、病院での受付や看護師の手伝いをしていた。

 病院に入院している子供たちと遊んで面倒を見るのだって大切な仕事だ。

 苦しく、キツイことも多い体力勝負な仕事だが、ミラは持ち前の根性を使って一生懸命に働いていた。

 深く関われば思慮深いのも落ち着いているのもツイの方だと分かるが、付き合いの浅い第三者から見れば、タルトの下で黙々と勉強をしている物静かな彼よりもテキパキと働いて笑顔で他者と会話をするミラの方が大人びて見えるらしい。

 ミラの働く姿を見た夫人が、

「ツイ君はのんびり屋さんだが、ミラちゃんは随分と大人で働き者だね。いい娘だ。ウチのお嫁さんに欲しいくらいだよ」

 と、冗談交じりに彼女を褒めることも少なくなかったし、同年代の男性で彼女に憧れる者も少なくなかった。

 ある日、休憩時間にタルトの研究室から出てきたツイは、ミラと食事をとろうと受付で彼女を待っていた。

『ミラ、綺麗だな……』

 女の子らしさを求めて伸ばされた髪は綺麗に手入れされていて、丁寧に結われたポニーテールの上ではワインレッドのリボンがチラチラと揺れている。

 今日は暑いですね、と患者と会話を交わしながら額の汗を拭う。

 白い首筋を伝って鎖骨に流れる一粒の汗が朝露のように綺麗で、快活な笑みが眩しかった。

 気が付けば視線が良く動く口を追っていて、身振り手振りで忙しい腕や少し膨らんだ胸を眺めている。

 不意に目が合うと、ミラがニコッと笑って小さく手を振った。

 途端、ツイの体温が一気に上がって頬が赤くなる代わりに耳が真っ赤になった。

『僕の髪、少し長くて良かった。なんか、赤くなっているのを見られるのは恥ずかしいや』

 熱い耳を押さえて思う。

 少し待っていると、急いで仕事を終わらせ、キャミソールを着てヒールの高いサンダルを履いたミラがツイの隣にやってきた。

 女の子の方が、身長が伸びるのは早いとはいえ、ツイの方が数センチほど彼女よりも背が高い。

 だが、ヒールを履くと同じくらいの背丈になって顔の距離が一気に高くなる。

 隣を歩くミラにツイはずっと心臓を鳴らしていた。

「ねえ、ツイ、聞いてる?」

 ミラに見惚れて上の空なツイの頬をツンと彼女がつつく。

「え!? あっ! ごめんね。僕、ボーっとしていたよ。どうしたの?」

 苦笑いをして頭を掻くツイにミラがプクッと頬を膨らませた。

 彼女の腕には小さな紙袋が掛けられている。

「それ、どうしたの?」

 ツイが紙袋を指差すとミラは呆れた表情になった。

「全くもう! 今、これの話をしてたのよ。これ、患者さんに貰ったんだけれど、移動をするには不便だからタルト先生の研究室においてこようかなって」

 言われてみれば、歩いている途中にミラが自身の紙袋を指差していた気がする。

 ツイが「なるほど」と納得しているとミラが、

「ねえ、ツイ。私、これね……あのさ、私がプレゼントを貰ったの、気にならない?」

 と、寂しそうに眉を下げて問いかけた。

 ミラにプレゼントをくれたのは同年代の少年だ。

 中には少年には痛い金額のアクセサリーが入っている。

 だが、あいにくツイは男女の仲的な思想が発達していない。

 ミラが誰かから何か物を貰った、程度の認識だったし、もっと言えば送り主の候補に彼女に好意がある男性なんて考えていなかった。

 そのため、ミラの質問の意図が分からずコテンと首を傾げる。

 何も気にしていなさそうなツイを見て、ミラは「そっか」と、やはり寂しそうに笑っていた。

 ミラはちょっと寂しい気分のままタルトの部屋にアクセサリーを預けると、帰宅時に回収して部屋に持ち帰った。

 机の上に乗せられたプレゼント箱は開封されていない。

 後日、アクセサリーは渡してくれた少年の元に戻った。

 ツイに一途なミラは彼以外の男性からのアクセサリーのような高価なプレゼントを受け付けていなかったからだ。

 元々は今回のプレゼントも、

「ごめんね。私は貴方のことを良く知らないし、何かを返せるわけじゃないから、こういう物は受け取らないようにしているんだ。わざわざ買ってくれたのに、本当にごめんね」

 と、受け取らずに返すつもりだった。

 だが、ミラにプレゼントを押し付けた少年が、彼女が返事をする前に逃げてしまったので受け取る羽目になったのだ。

 そのため、一度は受け取ったミラだが、三日後に少年が挙動不審になりながらやって来た時に再度断りを入れて返した。

 プレゼントを返した時、少年は少しだけ泣いた。

 そして、それを見たミラの優しい心が痛んで、その夜、少しだけ落ち込んだ。

『受け取ってあげたら良かったのかな? でも、分からないけど、それは良くない気がする。だって、私とツイが一緒に住んでなくて仲も良くないのに、あの子みたいに私がツイにプレゼントを贈って、ありがとうって受け取ってもらえたら期待するもん』

 プレゼントを受け取って適当に相手をあしらうこともできただろう。

 ありがとうと笑ってうやむやにすれば少年は泣かなかった。

 だが、ミラの心がそれは優しさではないと断言していた。

 誰に叱られようが、

「私は貴方のことが好きじゃないから要らない!」

 と、キッパリ拒絶してやるのがミラにとっての優しさだった。

 ただ、それでも泣かせたことを思い出すと胸が痛んで、心臓の奥に苦みが広がった。

『それにしても、何にも思わないかぁ……あれにも参っちゃったな。私はツイがクッキーを貰っているのを見て、凄く狼狽えたのにな』

 穏やかで知的な容姿をした少年が大人たちに混ざって医学の小難しい話をし、見習いとして働いているのを見ると、同年代の少年に比べて随分と大人に見え、憧れてしまうのだろう。

 ツイが女の子から手作りのクッキーを貰った姿を目の当たりにした時には随分と挙動不審になったものだ。

 とはいえ、ミラの好意はおろか自分の気持ちにすら気がついていないツイは、他人に対してはより鈍感で、クッキーをくれた女の子たちがすぐ隣に居るにもかかわらず、

「お仕事お疲れ様ってクッキー貰ったよ。ミラも食べよう」

 と、笑顔でミラをお茶に誘ってしまったのだが。

 少女が酷い! とツイからクッキーを奪って逃走したため、彼の腹にクッキーは入らなかったが、ミラは随分と警戒したものだった。

『とんだ罪作りだわ、ほんと。あーあ、厄介なの好きになっちゃったな』

 小さく溜息を漏らしてミラは寝返りを打った。

 思いっきり頬を膨らませては破裂させずに、口から間抜けな吐息を漏らすのを繰り返している。

 ところで、ミラは嫉妬すらしてくれない! と憤って落ち込んだわけだが、実はツイ、この頃から嫉妬をしていた。

 どういう時に嫉妬をしていたのかと言えば、同僚の医者見習いや患者の少年なんかが、

「ミラさんって素敵だよな。可愛いし、ハキハキしてるし。彼氏とかいるのかな? 俺、立候補しちゃおうかな。ああいう初心そうな子って、ちょっと押せば案外いけそうだし」

 と、なんだか嫌な雰囲気を匂わせながらヒソヒソ話しているのを聞いた時や、少々強引な少年がミラをデートに誘おうと腕を引いた時である。

 いくら男女の関係に疎いツイとはいえ、ハッキリと邪な雰囲気を出しているのを見てしまえば流石に察するものがある。

 妙に嫌な感じがして、心臓がモヤモヤと淀んだ。

 加えて後者に関しては嫉妬に加えて助けなきゃ、という思いが働き、慌ててミラのもとに駆け付けていた。

 まあ、ミラは気が強いので腕を引いた男性に対しては、

「気持ちが悪い! 触るな!」

 とビンタしていたが。

 それでも、かなり肝が冷えたしモヤモヤと心臓が淀んだ。

 ツイは当時、モヤの正体を自分の大切な保護対象が何やら嫌らしげな人間に好かれてしまったからだと思っていた。

 あんな男にミラはやれん! ミラをバカにしやがって! という思いでイラついていたのかと思っていたが、本当の答えはミラに対する恋愛感情からくる嫉妬だ。

 今回のアクセサリーに関しても、男性からの物だと知れば妙に嫌な気分になっただろう。

 ミラは突き返すつもりのアクセサリーをツイの気持ちを知るための道具として扱えなくて、言い淀んでしまったが。

 さて、こんな鈍感人間のツイだが、約一年後にはようやくモヤの正体を知る日がやってくる。

 何を隠そう、ツイがミラへの恋愛感情に気が付いたのは、彼女に好意を寄せる人間に対して抱いた嫉妬がきっかけなのだから。


 二人が十五歳になった時、タルトは病院から独立して自身の診療所と新たな自宅を作った。

 なお、もともと住んでいた家は叔父から借りていた借家であるため、自分の家を持つのは初めてだ。

 借家に住んでいた頃、ツイやミラの関係でお金が足りなくなった時には、叔父に頭を下げて家賃を待っていてもらったものである。

 タルトたちの家は新築ではなかったが建物自体は新しく、木を基調として作られた温かな雰囲気を持っていた。

 また、主な居住地となる二階の空き部屋は三つでちょうど良かったし、家全体の規模も二、三人で住むのがぴったりなくらいだ。

 タルトたちは新しい家をかなり気に入っていた。

 新しい町で始まる新生活。

 見るものすべてが新鮮だ。

 胸を弾ませながら始めた暮らしには不安も多かったが、タルトの診療所は新しい町にも馴染んで概ね成功し、数か月経つ頃には三人とも生活に慣れていった。

 また、タルトが薬学を専門とした医者で、だいぶ薬剤師よりの内科として働いていたこともあって、病院にいた頃よりもゆとりのある働き方をしていた。

 ツイもタルトの弟子として特に薬学を学びながら薬を調合し、患者がやってくれば診察をしていたのだが、雑談をしたり多めに休憩をとれたりするほど余裕がある。

 ミラに関しても同様で、受付と事務をこなしつつもツイや患者と雑談をしながら働いても問題の無いほどだ。

 のんびりとした雰囲気が優しくて、子供やお爺さんおばあさんが少しだけ会話しに来ては要件を済ませて去って行く。

 診療所は町のちょっとした癒しだった。

 しかし、そうなると笑顔で雑談に応じてくれるミラ目的でやって来て、長居をする図々しい患者もどきも現れる。

 直接、デートに行こうよと口説いてくれれば、

「行かない! 診療所はそういう場所じゃない。さっさと帰れ、このカスが!」

 と、言う内容の言葉をオブラートに包みこんで処方し、追い返してやることもできるのだが、下手に知恵を回されて頭が痛いだとか腰が痛いだとか、怪我や痛みの話をされると上手く追い返すことができない。

 診療所が患者を選ぶわけにはいかず、受付であるミラが患者の語る症状の話を無視するわけにはいかないからだ。

 個人で行う小さな診療所だからこそ、余計に。

 もちろんミラは、

「診察はツイに頼んでください。私は診る専門じゃないので」

 と拒絶したが、患者もどきの中には、

「俺、肩が痛くて困っちゃうんだよね。ちょっと診てくれない? 触ってみてよ」

 と、ボディタッチを迫るカスな輩も存在した。

『なんか、凄くムカつく! 僕のミラに話しかけるなよ。診療所だけど怪我をさせてやろうか?』

 医者見習いとしてスレスレな言葉だが、口から出していないからセーフとしよう。

 ツイは、理屈ではミラが強く出られないことを理解している。

 しかし、それでもミラがヘラヘラと嫌らしい目つきをした男性にベラベラと超軽度な捻挫の話を聞かされて苦笑いを浮かべているのを見ると、どうにも苛立ちが抑えられなかった。

『ああ、クソ! もどかしいな! 本当は僕のミラだから近寄るなって怒鳴りたいのに! せめて、ミラは僕のものだって屑に知らしめる方法はないかな。牽制して脅したい。だって、ミラは僕の、僕の大事な……大事な、女性だから』

 僕の大事な○○。

 ミラが自分の中でどんな存在であるのかを知りたくて、ツイはふとした瞬間に○○に当てはまる言葉を考え、探して来た。

 妹が当てはまらないのは十三歳の時に気が付いた。

 宝物は当てはまるが比喩表現だ。

 直接的にミラを捉えてくれる言葉ではない。

 僕の物。

 しっくりこないことも無いが違和感が残る。

 これもどこか比喩的だ。

 所有欲求はあるが、ミラは物ではない。

 保護欲求もあるから子供というのも考えたが、どうにも違和感が甚だしい。

 答えを妥協せずに探して来たツイがやっと見つけた答えは「女性」だ。

 異性として、ツイはミラのことが大切だった。

『そっか、僕、いつからか知らないけどミラの恋人になりたかったんだ』

 愛しいから守りたい。

 愛しいから自分の物でいて欲しい。

 愛しいから世話を焼きたくて、必要とされたくなる。

 好きだと返してほしくなる。

 自分の肉親を守ろうとするのとは全く違ったミラへの想い。

 タルトに向ける欲求と異なるのは当たり前だ。

 感覚で分かっていたことを始めて理屈で知り、ツイは何だか妙に清々しい気分だった。

 そして約三秒間、頭がクリアになるような爽やかな気分になったら、そこから一気に体中が激しい熱で侵された。

 四角い眼鏡によくある茶髪、柔らかなそばかすと和やかな垂れ目。

 ツイは穏やかな羊の姿をした獣だ。

 物静かな外見に入れ物を突き破りそうなほど激しく渦巻く感情や欲を押し込んでいる。

 感情や欲の正体に気が付かない間は首を傾げるばかりで激しさを無視できたが、一度でも気が付けば溢れるソレを抑えきれなくなる。

 体を破ってこぼれてしまう。

 脳内はミラのことでいっぱいだ。

『ああ、ミラのことが好きだ。凄く、凄く好きだ。大事な僕のミラ。ミラは僕のことをどう思っているんだろう』

 沸騰しそうな額を熱い手で押さえる。

 ふと思い出すのは、自分に照れて笑いかけたミラの顔だ。

 近寄ると真っ赤になっていたミラの頬に耳。

 彼女の姿はまるで、ミラに近寄ると無駄に心臓が鳴を鳴らして全身を熱くしていた自分自身のようだ。

 そして、いつもハッキリとしていたミラがモゴモゴ、モジモジとして歯切れを悪くしていたはツイ自身の話題になった時ばかりだ。

 あの時はよく分からなくて流してしまったミラの、

「好きな人だよ」

 という言葉の意味を、数年経った今ようやく察した。

 それ以外にも分かりやすいミラの奥手なアピールが脳裏をよぎる。

『分からない。確証も無いし、ミラは僕の事を兄妹に準じる存在だと思っているから、他の人と違う対応をするだけなのかもしれない。でも、もしかしたら、本当に僕のミラなのかもしれない。確かめたい。それに、もしもミラが僕のことを好きじゃなくても、それでも僕はミラが好きだ。少なくとも、ここにミラ目的で来るような野郎には渡せない。牽制したい』

 もうすぐで休憩時間になる。

 たった十分が待てず、ツイは席を立った。

「タルト先生、少し早めに休憩を貰ってもいいですか? ミラを連れて奥に引っ込んでもいいですか?」

「それは構いませんが、ツイ、目がイッちゃっていますよ。様子が変です。どうしたのですか? 徹夜でもしたのですか?」

 焦点の合わぬ怪しげな薄茶色の瞳にタルトがキョトンと首を傾げる。

 だが、ツイは「大丈夫です」と雑に返事をすると、フラフラとした足取りでミラの元へと急いだ。

 受付の机にはグッタリと疲れたミラがテーブルに突っ伏していた。

 例のナンパな男はつれないミラに根負けして帰ったようで、彼女の周りには特に人間が存在していない。

 チラリとドアの方を確認しても患者が入ってくる気配は無い。

 これならば、少し早くに休憩に入っても問題は無さそうだ。

 ミラはツイが近づいてきたのに気が付くと癒しを求めてパッと顔を上げた。

「あ、ツイ! 聞いてよ! さっきの患者さん、結局診察もしないで帰っちゃったの! 何なのよアイツ! 気持ち悪い!! ここは薬屋さんで内科なのよ! 他の患者さんにも迷惑だし、二度と来ないで欲しいわ! 出禁にしちゃいたいくらい!」

 ミラは確かに、薬の調合や診察を行えない。

 だが、彼女は自分の仕事を、人を救う崇高な仕事だと認識しているし、誇りを持って職務に当たっている。

 だからこそタルトやツイを尊敬していて、自分も少しでも彼女らや患者のために働きたいと懸命に働いているのだ。

 元々ツイ以外に興味がない上にナンパな雰囲気の男が嫌いだということもあるが、自分の大切な仕事をヘラヘラと汚された気がして、余計に彼女は憤っていた。

 ムキになって怒るミラにツイがホッと微笑む。

「良かった、ミラも嫌なんだね。ねえ、ミラ、ああいうやつを追い返す方法を思いついたんだ。タルト先生に休憩を貰ったから、一緒に奥に行こう」

「うん。それはいいけど、ツイ、大丈夫? 目がイッちゃってるよ? それに、微妙に言葉の脈絡があってないし」

「大丈夫。ミラが来てくれたらだいじょうぶになるよ」

 ミラの綺麗な手を取れば、ポンッと彼女の頬が赤くなる。

 もしかしたらミラも自分の事が好きなのかもしれない。

 その確信がほんの少し強くなって、ツイの口元には知らず知らずのうちに笑みが浮かんだ。

 真っ赤になってマゴつくミラを引き連れて、ツイは奥の休憩部屋へと向かう。

 ミラがドアを閉めた瞬間、ツイは彼女にギュッと抱き着いた。

 下心と欲求に気がついていないミラは、ツイがよろけて自分に抱き着いたのだと思ったらしい。

 慌ててツイを支える。

「ねえ、ツイ、どうしたの!? 体調が悪い? だって、目がイッちゃってたし! だから、あんまり徹夜しちゃだめだよって言ってたのに」

 タルトもミラも、どうにもツイの瞳が気になるようだ。

 しかし、その割に二人とも瞳に宿るものを誤解しているらしい。

 ツイの瞳は意識もうろうとした瀕死の瞳ではない。

 ミラという獲物を定めて、どのように食べてしまうか、どうやって腹に収めてしまおうかと狙うケダモノの瞳だ。

 本来は自分の身を心配するべきであるのに、あべこべに自分を心配するミラがおかしい。

 ツイは喉の奥で笑いを溢すと油断した彼女の薄い肩に噛みついた。

『ああ、これじゃ駄目だ。跡がつかない。跡をつけたい。許されたい』

 ミラにとってはどうだか分からないが、ツイにとっては幸運だ。

 何故なら、彼女は今日に限って、羽織った半袖の上着の中にキャミソールを着ていたのだから。

 何をされたのかが理解できなくて、ミラがビクッと震え、固まる。

 やや有って噛まれたことを理解すると、少し湿った布が恥ずかしくて瞳から涙が溢れだした。

 真っ赤な耳にツイが唇を寄せる。

「ねえ、ミラ、僕はいい方法を考えたんだ。ミラは今、綺麗に鎖骨が出る服を着ているでしょ? そこを噛んで噛み跡をつけたら、アイツらは、ミラは僕の物だって気が付いてくれると思うんだ。ねえ、ミラ、噛ませてよ」

 ツッと指で鎖骨をなぞればドキンと心臓を跳ね上げさせたミラが体まで大きく震わせる。

「え!? さ、さこっ! 噛む!?」

 初心な被食者は捕食者を愛している。

 そのため、鎖骨を噛むという不穏な言葉にもドギマギとしたまま、ろくに対応しかねて視線を彷徨わせた。

 そうしていると、ツイがそのままフワリと体重をかけてミラを押し倒す。

 抵抗できるように両手は自由にして、コテンと無防備に寝転がるミラを上から覆い被さって見下ろした。

 抱き着いて以降、お互いの表情を見たのは今が初めてだ。

 ただでさえ混乱していたミラが愛情渦巻くツイの真直ぐな獣の瞳を覗き込んで余計に混乱を深くし、アチラコチラに目をやってからギュッと瞳を閉じる。

 ミラの潤んだ瞳や頬を伝う涙、真っ赤な頬、キュッと結ばれた唇に動かさぬ両手が可愛らしくて、ツイは彼女の髪を撫でた。

 ゆっくりと体をミラに近づけていく。

 鋭い八重歯を覗かせる歪んだ唇を汗ばむ喉元ではなく赤い耳によせた。

「ねえ、ミラ。僕はミラが好きだよ。女性として好きなんだ。少し前に気が付いた。ミラを僕のものにしたいな。噛み跡をつけてキスをしたい。僕のものだって証をつけて、ミラを狙う屑からミラを遠ざけたいんだ。僕のものに触るなって威嚇したいんだよ。だから噛みたいんだ。ねえ、お願い、ミラ。噛ませてよ」

 囁いて懇願する。

 完全に固まっていたミラだが、首をなぞられて再度「お願い」と頼まれるとゾワリと冷たい熱に侵され、微かに頷いて両腕を脱力させた。

 さあ、召し上がれ。

 今のミラはそんな状態だ。

「ありがとう、ミラ。優しいね。ねえ、もしかしたら痛いかもしれない。ごめんね。嫌だと思ったら殴ってね。殴って僕を止めて。ちゃんと止められると思うから、多分。僕はミラに拒絶されても傷つかないから、嫌なら殴ってね」

 うわごとのように殴ってくれと繰り返す。

 そして吐息の熱い唇を鎖骨によせると、そのままカプッと噛みついた。

 くると分かっていても実際に噛まれると驚くのだろう。

 ミラの肩がほんの少しだけ揺れて髪がパサッと音を立てた。

 だが、お試しで噛んだ力は弱い。

 真っ白いままの鎖骨を見つめるとツイが、

「……もう少し強く噛まないと跡はつかないのか。ミラ、痛い? ミラが痛いのは可哀想だ。でも、どうしても跡をつけたいや。ねえ、ミラ、ごめんね」

 と寂しそうに呟く。

 だが、言葉に対して行動はそこまで優しくない。

 衝動に任せて噛み過ぎないように、とはいえ跡が全く残らないのでは困るから少しだけ力は強くして。

 傷つけないようにミラの様子を見ながら調整して、何度も噛み直した。

 その度にミラが小さく呻いて震える。

 ギュッと閉じた瞳から流す涙の原因は、強い刺激と少しの痛みと体内を侵す甘さだろうか。

 白い鎖骨にやっとついた曖昧な赤を優しく撫で、満足そうに微笑む。

 それからツイは、

「ミラ、ごめんね。沢山労わるから」

 と、噛み跡のようなものに唇をよせ、触れるだけのキスをした。

 それから跡の周りに唇を押し付けて、噛み跡ではない愛情の後を丁寧につけていく。

 鎖骨から段々と位置が下がっていって、だいぶ下の方へと向かって行く。

 襟を引っ張り、かなり際どい所へ視線を向けると、ミラが無言でツイの腕を抓る。

 ツイはキスを止めて、ゆっくりと体を起こした。

 相変わらず、ミラは顔の上も下も真っ赤で、肩から下には体温とは関係ない赤が咲き誇っている。

「これ以上は駄目か。でも、たくさん触れることを許してくれてありがとう。泣かせてごめんね。でも、どうしても噛みたかったんだ。ああ、ミラ、可愛いな。凄く可愛いな。凄く可愛い僕のミラだ」

 目が合えば何度でも潤むのが可愛らしくて、何事か言葉を紡ごうと微かに開いた唇を貪った。

 息も絶え絶えに漏れる吐息に瞳が歪んで貪る勢いが激しくなった。

『ミラは、気が付いてるのかな? どっちでもいいや、可愛いから。でも、駄目だったら素直に殴られよう』

 小説や物語なんかでは酸欠になった女性がボーッとして頭が真っ白になったと男性に好きかってされているが、実際はどうなんだろうか。

 ミラは、すっかり衝動に主導権を奪われたツイの両手がどこを触っているのか、知っているのだろうか。

『ミラは鋭いし、目に見えるよりもずっとシッカリしてるから気が付いてるかも。ねえ、ミラ、お願いだから抵抗しないね。僕の背中にギュッと回された腕を答えだと思いたいけれど、どうなんだろう。そろそろ声が聞きたいな』

 飢えた獣だって腹が満ちれば穏やかに眠る。

 だいぶ好き勝手にミラを貪ったツイは少し落ち着いて、思考を巡らせることができるようになってきた。

 唇を離したミラはゼェゼェと肩で呼吸をしていて、小さな唇が、

「スケベ」

 と動いた。

 どうやら気が付いていたらしい。

 ごめんねとツイが笑うとミラはそっぽを向いた。

 その反面、ツイの背中に回された両腕は力を増すばかりだ。

 やはりミラは極端に分かりやすい。

 可愛い彼女に悪戯心が湧いた。

「ねえ、ミラ、僕はミラが、いつも男性を張り倒してでも遠ざけるミラが僕だけは拒絶しなかったから、ミラも僕のことが好きなんだと思ったんだ。でも、もしかして違ったの? お兄ちゃんとして大好きだから、ミラは優しすぎるから、殴れなかったの?」

 問いかけながらグイグイと近づく。

 何やら不穏な雰囲気だ。

「ま、待って、ツイ、あの、息が! ちょっと待って!」

 息切れをしたままのミラがブンブンと首を振り、背に回していた腕を慌てて前に持ってきて自分の顔を覆った。

 その腕をツイが掴んで、ゆっくりと退かし始める。

「好きって言って欲しいな。拒絶されるの、やっぱり苦しいかもしれない。ごめん、後でちゃんと話を聞くから、僕がこれ以上何かをする前に好きって言って」

 言葉そのものは切ないが、それを出す口角は楽しそうに歪んでいる。

 問いかけながらも、答えを述べさせる気の無い唇が彼女の口を塞いだ。

「ま……! す、て、言えな……ツイ、ツ! ん、んぅ……」

 好きだと返そうと口を開けば、その度にツイが唇を貪る。

 ミラが呼吸困難になりかけ、気絶しそうになるとようやくキスを止め、彼女の身体にギュッと抱き着いた。

「ミラ、ミラにとって僕はどんな人? お兄ちゃん?」

 いつかと同じような問いを出すツイは声も瞳も態度も無邪気そのものだ。

 少し幼い印象すら受ける。

 これに対して、呼吸を整えたミラが溜息を溢す。

「ツイ、ツイって、ちゃんと私の話聞いてた? 私、数年前からツイは私のお兄ちゃんじゃないよって言ってるじゃん」

「じゃあ、何? お父さんとか親戚のおじさんは駄目だよ」

「……ツイ、もしかして私のこと揶揄ってる?」

 無邪気な瞳の奥にからかうような色が見えた気がして、ミラはムギュッとツイの両頬を引っ張った。

 すると、ツイが「バレたか」と嬉しそうに笑う。

「でも、言葉が欲しいのも本当だよ。ミラは分かりやすいけど、ね?」

 ニコッと笑う表情は普段の穏やかで優しいツイのものだ。

 激しくなっていた心臓がトキンとときめいた。

「分かったわよ。あの、さ、私もツイのことが大好きよ」

「何として?」

 しつこいくらいに「何であるか」を問うツイに呆れてしまう。

「そんなにそこが大事なの!? 男性としてよ。男性として好きなの! キャッ! ツ、ツイ、駄目だって! 今日はもうおしまい!」

 ツイはまだ空腹で、腹八分目にすら到達していなかったようだ。

 ミラが不足している。

 そのため、ため息交じりに答えるミラに抱き着くと、ツイはムギュムギュと自分の顔を彼女の胸に押し込んで首を振った。

「嫌だ。僕は今日、ミラの事しか考えられなくなった。だから、今日一日は仕事できないよ。ミラはここで僕と付き合ってよ」

「何言ってんの! コラ!」

 ポコポコと背を叩いても退けない。

 ツイのお尻の上で無邪気に揺れる獣の尻尾が見えた気がして、キュンと胸が鳴る。

 そして同時に部屋に置かれた壁掛け時計の時間も気になる。

 時期に終わる休憩時間に真面目なミラが肝を冷やしていると、タルトがノックをしてから、

「開けますよ」

 とドアを開いた。

 そして、二人の様子を見てピキリと固まった。

「タルト先生、助けて~」

 すっかり困ってしまったミラがモタモタとタルトに手を伸ばす。

「なんというか、私、成長と驚きに見舞われておりますね。ええと、確認なのですが、お二人は恋人になったのですか?」

 タルトが瞳をパチパチと瞬かせながら問うと、行きぴったりに二人が頷く。

「タルト先生、僕、有給ってやつが欲しいです。恋人になれたミラとイチャつきたいので」

「バッ! 駄目に決まってるでしょ! ですよね、先生!」

 キラキラと輝くツイの瞳と困りきったミラの涙目が同時にタルトを捉える。

 スケベなタルトは当時ジルという最愛を見つけていなかったので、今では考えられないほど性に対してドライだ。

 だが、スケベと強い愛情の片鱗は当時から持っていたのだろう。

 何となくツイの方に共感できて、コクリと頷いた。

「良いですよ。今日は暇ですし、診療所が開いて以来、働き詰めでしたからね。リフレッシュなさい。ただし、ここでいかがわしい声を出されては困ります。お部屋に帰りなさい。それと、ツイ、ミラ。あまり男女関係に干渉したくはありませんが、立場上、私は二人の保護者なので形式上注意をしておきます。成人年齢は十六歳ですからね。少なくとも一年は待ちなさい。あと、結婚前は避妊なさい」

 意味があるのかないのか分からないタルトの言葉だが、ツイは真剣な表情でコクンと頷いていた。

 ちなみに、大変初心なミラは「それって……」と顔を赤くしている。

「ねえ、ミラ、行こう?」

 立ち上がったツイがミラに手を差し伸べて微笑む。

 まるで、お花畑へデートへ行こうと誘う純朴少年だが、実情は……

 まあ、此処についての言及はやめておこう。

 野暮だ。

 誘うツイがあんまりにも嬉しそうで愛おしかったから、モジモジとしていたミラはゆっくり手を取って頷いた。

 二人の有給は舌が溶けそうなほど甘かった。

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