ツイとミラ ミラ編

 ミラは物心ついた時には既に奴隷だった。

 女性で子供だったミラだが、炭鉱では性別も年齢も通用しない。

 日が昇ってからくれるまでの間、重い荷物と痛む体を引きずってあちこちを駆け巡り、小間使いとして働き続けた。

 仕事の中には比較的、危険度の少ないものや楽な作業もあったが、他者から仕事を奪うにはミラは優しすぎた。

 勿論、ミラだって生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされ、毎日のように亡くなってしまう奴隷や、まともに体が動かなくなって再び売られていく奴隷たちを見ているのだ。

 聖女のように振舞って他者を気遣い、自身の持てる労力や財を差し出すなんて真似はできない。

 いつかのジルのように、ミラだって人を殴ったし残飯のような餌を奪い合って争った。

 だが、死ぬ寸前の人間を見てしまえばミラの手は緩んだ。

 後一発殴ったら死んでしまう。

 そんな人間にミラは暴行を加えることができなかった。

 過酷な環境で強く、たくましく生きていくにはミラは優しすぎたのだ。

 結局、ミラはいじめられる側になった。

 メシを奪われたし苦しい仕事を押し付けられた。

 憂さ晴らしに殴られたことも何度もあった。

 だが、生命力や体力の違いか、あるいは生き残るという意思の違いか。

 奪われたミラよりも奪った奴隷たちの方が早くに死んでいった。

 優しいミラは、自身の食料を奪って彼女を殴った少女の奴隷が死ぬ時、せめてもの憐れミニと頭を撫でた。

「ありがとう、ごめんね」

 何度も同じ言葉を聞いた。

 そして、死にゆく少女たちを見た。

 何人も死ぬのを見て、自分を虐めていた子供たちすらもいなくなるのを眺めながら、それでも必死に耐えて生きてきたミラは十歳の時に腕の靭帯を痛め、重いものを持ち運びできなくなってしまった。

 幸い、日常生活を送るには問題の無い程度だが、炭鉱で働き続けることはできない。

 ミラは別の場所へと売られることになった。

 これまでの経験から、ろくな場所へはいけないのだと理解していた。

 案の定、十一歳のミラには買い手がついたが、購入したのはロリコンで暴力的などうしようもない屑だ。

 奴隷の間ですら噂になっていて、

「あそこに買われた少女は死ぬしかない」

 とすら言われている屑だ。

 ソイツに選ばれた瞬間、ミラは目の前が真っ暗になった。

 まだ決済も済んでいないというのに、市場のど真ん中で屑がミラを犯そうと手を伸ばす。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ! 近寄るな! 私に触るな!!」

 ミラの炭坑などでは、ジルの炭坑や奴隷商と似たような方針をとっており、子供であっても男女が一緒の場所で生活をすることは無かった。

 加えて、ミラの年齢も十歳前後と非常に幼い。

 そのため、ミラは殴る蹴るの暴力に晒されたことはあるが性的な暴力に晒されたことは無い。

 でっぷりと太ったニキビまみれの男。

 この世の醜悪を煮詰めたかのような屑から晒される視線が、手つきが、舌なめずりを擦る口元が、妙におぞましくてミラは叫び声を上げた。

 普通ならば少女が悲鳴を上げて助けを求めれば誰かしらが助けに入るものだろう。

 往来での強姦など見逃せるようなものではない。

 だが、奴隷とは「そういう扱い」をしてよい存在だ。

 正確には決済前なのでミラは屑の所有物ではないが、商人の方も金を支払うことが決まっているのならばと黙認している。

 とはいえ女の子が強姦されて泣き叫ぶ姿など見ていたいものでもないので、市場にいた人間は示し合わせたかのように何処かへと去って行く。

 ミラを数発殴って大人しくさせてから犯そうと考えたのだろう。

 活きの良いミラに屑がニヘラニヘラと口角を吊り上げながら拳を振り上げる。

 屑の頭にはミラがどのような声でなくのかということしかない。

 デラリとミラを舐めるように睨んで、躊躇なく拳が振り下ろされた。

 だが、ギュッと目を瞑ったミラに拳が届くことは無かった。

 瞼を閉じた真っ暗闇な世界で聞こえてきたのは屑のうめき声だ。

 恐る恐る目を開ければ、視界に入ったのは股間を抑えてうずくまった屑と仁王立ちしているタルトの姿だ。

『綺麗な人。誰?』

 固いブーツでしっかりと屑の睾丸を蹴り上げたタルトにミラを売っていた商人が詰め寄る。

 だが、タルトは胸ぐらをつかんで何事かを怒鳴る商人に冷たい視線を浴びせ、何かを言い返すと紙切れを差し出した。

 浅ましい商人が大慌てで紙切れに数字を書き込んでいる内に今度は屑の頭の方へと近寄って屈み、何事かを告げる。

 そして、ガンッと瓶が割れそうな勢いで薬を地面に叩きつけると、柔らかな足取りでミラの元へとやってくる。

 自分の目の前にタルトがやってくるまで、ミラはボーッと彼女に見惚れていた。

「誰?」

 ポツリと開いたミラの口が問うた。

 それに対してタルトが冷たい瞳でミラを見つめる。

「私は貴方の購入者となったタルトです。腰が抜けてしまったのですか? 手を貸して差し上げますから起き上がりなさい。役所へ向かいますよ」

 妙に冷たい口調と共に差し伸べられた手をミラはペシンと叩き落した。

 タルトの視線や態度が自身を侮蔑し、見下しているように思えてならなかったのだ。

「歩けます。いりません」

 無表情に自信を見つめるタルトをキッと睨みつけると、ミラは震える両足で何とか立ち上がって歩き出した。

 購入は偽善であり救いではない。

 その思考が強く根付いたタルトは不器用で、優しい言葉や救いの言葉を、まるで聖人君子のような態度をとることができないでいた。

 そのため、ミラにはタルトが自分以外の全てを見下す冷たく偉ぶった高慢な金持ちに見えた。

 そんな彼女と見た物を素直に受け取るミラ。

 最初のわだかまりが生まれたのは、この時だった。


 家に到着したミラは周囲を警戒して辺りを見回しながら廊下を進んだ。

「ミラ、まず初めに貴方をお風呂にいれます。今の状態の貴方を部屋の中でうろつかせるわけにはいきませんから」

 グイッと手を引いてミラを浴室まで連れて行こうとするタルトだったが、

「嫌です! 私はお風呂なんか行かない! 冷たい水をかけられてタワシでゴシゴシ擦られるんだ! そんなの嫌だ!」

 と、喚く彼女が力いっぱい抵抗したため、なかなか進むことができずに困っていた。

「そんなことをするわけがないでしょう! ミラ、もしかして貴方は商人の下でそのようなことをされてきたのですか? それなら細かい傷がありますね。治療が必要です。キチンと見せなさい。とにかく浴室へ行きますよ。そこで傷を洗って、その後は手当てをします」

 浴室の方を指差すタルトだが、ミラはブンブンと首を振り続けて言うことを聞かない。

 弱っているのならば強くは引っ張れないな、とタルトがミラの腕を掴む力を弱くすると、一瞬のスキを突いた彼女が手を振り払って逃げ出した。

 パニックになったミラがひたすらに廊下を走って逃げ込んだのはツイの部屋だ。

 この日はツイの休日で、タルトの勉強やお手伝いをしなくていい日だった。

 そのためツイは自室のベッドで寝転がって、のんびりと本を読んでいたのだが、突然に転がり込んできた珍客に目を丸くした。

「えっと、君は誰?」

 コテンと首を傾げるツイにミラは毛を逆立てた。

 ツイの性別が男であり、ミラは少し前に気味の悪い屑に襲われかけていたからだ。

 全くの別人なのだが妙に重なって、ミラは俯き、ブルブルと震えた。

「あの、もしかして泥棒? 駄目だよ、うちには盗れる物は……結構あるけど、そんなことされたら困っちゃうよ。それとも迷子? そうじゃなきゃ、タルト先生のお客さん?」

 ツイは眼鏡をかけた知的で穏やかそうな少年だが、好奇心が強くアグレッシブな性格をしている。

 そのため、本を閉じるとベッドから降りて、真直ぐミラの元までやって来た。

「ねえ、お嬢さん。君のお名前は?」

 軽く屈んでミラの顔を覗き込む。

 すると、

「近寄るな!」

 という鋭い怒声と共に左頬に強い痛みを感じた。

 一瞬何が起こったのか理解できなかったが、頬を鈍く襲う痛みで自分がひっぱたかれたのだと気が付いた。

『痛い……あれ? あの子、泣いてる』

 頬を抑えながら顔を上げると、ミラが声を押し殺して泣いていた。

 体はガタガタと震え、両手をギュッと握り込んでいる。

 何かに耐えるように歯を食いしばって泣いていた。

 目の前でボロボロと泣く無口ぎみで狂暴な少女にツイが困っていると、救世主のごとくタルトがやってきた。

 タルトはミラを見つけて、

「ここにいらっしゃったのですか」

 と、安堵のため息を吐いたのだが、ツイの顔を見た瞬間、驚きで目を丸くした。

「ツイ!? 何事ですか! 頬から血が出ていますよ! ミラも泣いていますし、一体何が!?」

 タルトに指摘されて流血していることに気が付いたツイは頬を抑えていた手を外して、手のひらを確認してみた。

 ベッタリと血が付着している。

「本当だ。引っ掻かれちゃったみたいです。唾つければ、とはいきませんよね」

 チラリとミラの姿を盗み見る。

 彼女の皮膚には垢が浮いていて、髪には大量のフケが混じっている。

 爪にも垢高泥高が大量に入り込んでいて非常に汚らしい姿をしていた。

 苦笑いを浮かべるツイにタルトも溜息を吐く。

「ええ、残念ながら。ミラは衛生的とは言えない状態ですから、傷口に雑菌が入ればかなり面倒なことになります。早く消毒した方が良いでしょう。部屋にいらっしゃい。ミラ、ミラの治療はその後ですよ。貴方もついていらっしゃい」

 タルトが視線を向けるとミラはビクリと体を震わせたが、棒立ちになってしまって、なかなか歩き出しそうにない。

 何と声をかけたものか。

 タルトが無表情のままで頭を悩ませていると、「ねえ」と、ツイがミラに話しかけた。

 ミラとツイは物理的に距離のあるままだ。

 ビクリと体を震わせたミラが恐る恐る顔を上げる。

 きつく唇を結んだ表情は何かを堪えるようで、酷く怯えているようだった。

「あのさ、怖がらせちゃってごめんね」

 ポツリと一言だけ言うとツイは汚れていない方の手でタルトの手を取って部屋に行くことを促す。

 後ろ髪を引かれるようにタルトは何度かミラの方を振り返って進んで行った。

 そして、二人が部屋に入る頃、やっとミラは動き出して二人の後を追い、タルトの自室の前で、

「痛た! タルト先生、その消毒液染みるよ!!」

 というツイの悲痛な声と、

「我慢してください、ツイ。これが一番効くのです。さあ、後ひと踏ん張りですよ」

 というタルトのキリっとした声を聞き続けていた。

 その後、タルトは俯くミラを連れて風呂に入れ、傷の手当てを行った。

 彼女にも思うところがあったのだろう。

 手当が終了し、ツイに再度紹介されるまでの間、ミラはずっと大人しく俯いていた。

 とはいえ、傷を洗われる時と消毒される時だけは抵抗したのだが。

 それでもやはり、口でガルガルと唸るだけでタルトを引っ掻くことは無かった。

 それから二日間、ミラは部屋の中に籠ってタルトが訪れる度に怯え、獣のように威嚇を繰り返した。

 そして三日目の夜、ミラは夜中に部屋を抜け出して唐突にツイの部屋を訪れた。

 コンコンと数回ノックをすれば、寝ぼけたツイが瞼を擦りながらドアを開ける。

「何ですか、タルト様? あれ? ミラ?」

 ツイはドアの外で突っ立っていたミラに首を傾げた。

 体を洗うのに不慣れなミラに代わってタルトに洗われた頭髪や肌は綺麗に整えられており、黒かった爪も綺麗に切り揃えられて磨かれている。

 タルトによる手入れはミラがお洒落を覚える数年後まで続いていて、彼女はこれを気に入っていた。

 まあ、当時の彼女は嫌がっており、大きくなった今でもなんだか照れてしまって素直にタルトに、

「髪を洗われるのが好きだった」

 とは伝えられていないが。

「ミラ、どうしたの? タルト様は僕の隣の部屋だよ」

 キョトンと首を傾げてもミラは押し黙ったまま首を横に振っている。

「謝ろうと思ったの」

 少し時間が経って、ポツリとミラが言った。

「何を? 僕はあの日以来、基本的にミラに会っていないから、特にミラに謝られるようなことをされた覚えは無いけれど。あ、ミラのひっくり返したらしいお粥、僕が作ったんだ。もしかして、そのこと?」

 ミラは基本的に部屋の外を嫌がって出てこない。

 食事を届けるために部屋に入っても暴れて物を投げつける上、ツイは一度ミラに引っ掛かれてしまっている。

 そのため、タルトは籠城するミラに接触するのは自分ひとりということに決めていて、彼女が落ち着くまでは無理にツイに合わせないように気を付けていた。

 とはいえ、タルトもミラを軟禁するつもりはないから簡単に彼女は部屋を出られるし、今のようにしてツイの元へ遊びに来ることも可能なのだが。

 ミラはツイの問いにブンブンと首を振った。

「お粥、知らなかった。ごめんね。でも、残ったのをタルト様が持ってきてくれたから、少し食べたよ。私が謝りたかったのは、ほっぺの事。ねえ、平気?」

 俯きがちなミラだが、今顔を上げられないのはツイの頬に醜い傷跡が残っていたり、化膿して腐っていてらと思うと恐ろしくて堪らないからだろう。

 彼女は自分の腕を掴んで震えていた。

 ツイがふわりと笑う。

「平気だよ。あんまり傷は深くなかったから。タルト先生の消毒液の方がよっぽど痛かったよ」

 パチリとウィンクをして笑えば、ようやくミラが顔を上げる。

「うん。あれ、私も痛かったな」

「でも、あの消毒液、凄く効くんだよ。おかげで僕もすっかり治っちゃった。ミラは?」

「もう平気」

 ぎこちなく笑えばツイもホッと安心して笑う。

 それから、モジモジとしてツイに話しかけるでもなく部屋に戻るわけでもなく部屋の外に突っ立っているミラに、

「よかったらおいで、お喋りしよう」

 と、声をかけ部屋に招き入れた。

 それからツイは電気をつけてミラを机に座らせると、お菓子を出してあげようとガサゴソと棚を漁り始める。

「ツイは本当に男なの?」

 寝転がって皺のついた穏やかな背中に問いかける。

 ツイが「え?」と振り返った。

 それから、

「僕、確かにひ弱だけど女の子に間違えられたことは無いんだけれどなぁ」

 と、困ったように頭を掻いている。

 しかし、ミラはツイが女の子のように見えるわけではないのだと首を振った。

「私が初めて出会った男性は、化け物だったから。あの男は私の事……ツイは、どうして私に優しくしてくれるの?」

「え? なんで、だろ。でも、僕はミラの面倒を見るって、初めて見た時に決めたんだ」

「どうして」

 照れくさそうに笑うツイに問いを返せば、彼はう~んと首を傾げて唸った。

 ついでにズレた眼鏡が少し面白い。

「僕はね、家族が欲しいんだ。僕だけの家族。タルト先生はお母さんで、ミラは僕の妹になったらいいなって思ったんだ。お兄ちゃんが妹の世話をするのは当たり前のことだから。ねえ、ミラ、僕の妹になってくれる?」

 ズレた眼鏡を治してツイが問いかける。

 柔らかな視線の奥は真直ぐで、ミラの心に語り掛けるようだった。

 やや有って、ミラがコクリと頷くと、ツイが嬉しそうに笑う。

 ギュムッとミラに抱き着いた。

「良かった! 約束だよ」

「うん。あ、でも、ツイの妹になるのはいいけど、タルト様の子になるのは嫌だ」

 ミラも自分に抱き着くツイを抱き返して穏やかに微笑んだのだが、タルトの話題を出すと、ギュッと目つきが悪くなった。

「何でミラはタルト先生のこと嫌いなの? タルト先生は優しいよ。少なくとも、タルト先生はミラのこと好きだよ」

 ツイの言葉にミラはブンブンと首を振る。

「それは嘘だよ。タルト様の目、凄く冷たいもの。態度も。あの人は私のことが大っ嫌いなんだ。それに、嫌いに理由は無いよ。見た目も性格も声も全部嫌い!」

 ミラはガルガルと喉の奥で唸っている。

 説得を諦めたツイは苦笑いを浮かべた。

「そっか。でも、ここで暮らすのなら、ちゃんと先生の言うことを聞いてお手伝いをしなきゃいけないんだよ。先生、そろそろ昼は病院で仕事しなくちゃいけなくなるし」

 タルトが診療所を開く前、彼女は大きな病院で見習いとして働きながら生活をしていた。

 見習いとはいえ知識の豊富だったタルトは、有数の医者しか調合できない薬を作ることができたし、診察の腕も的確だったため病院では必要不可欠な人材であり、給料などの側面でそれ相応の扱いを受けている。

 ここ最近はミラのために無茶な休みの取り方をして彼女の世話を焼いていた。

 だが、いくらタルトとはいえミラのために何日も休みを取り続けるわけにはいかない。

 これ以上休暇をとったら給料を減らすぞ! と病院から脅しのような連絡を受けている。

 しかし、今のミラでは室内を荒らしたり勝手に家出をしてしまいそうで家の中に置いておくわけにはいかない。

 暴れて周囲の人間を攻撃する危険性を考えると、ツイに面倒を見させるわけにもいかない。

 とはいえ、彼女を病院に連れていくなどもってのほかだ。

 暴れに暴れて病院内を荒らし、患者にすら危害を加えることは目に見えている。

 仮に直接的な暴力を振るわずともタルトに向かって叫んだり、怒鳴ったりを繰り返すだろう。

 病院とはデリケートな場所なのだ。

 患者でもないのに、不安定で狂暴な子供を連れていく事は許されない。

 タルトは、ほとほと困り果てていた。

「タルト様は嫌いだけど、私、ツイとは一緒にいたい。あと、外寒いから出たくない」

 ツイの言葉にミラが仏頂面で返す。

 その内容がなんだか我儘で、ツイは思わずププッと笑ってしまった。

「なら、せめてお留守番はできるようにならなくちゃ。ねえ、ミラ、僕と一緒ならお家にいられる? タルト先生に、僕となら平気だって自分でお話しできる?」

 ツイが優しくミラの両手を包み込む。

 ふわりと首を傾げるツイにミラがコクリと頷くと、彼は偉い! と笑って頭を撫でた。

「ねえ、ツイ、なんか眠くなってきちゃった。ここで寝てもいい? 悪夢を見た日も、寒い日も、ツイのお隣に来てもいい?」

「いいよ。僕らは兄妹だから。良かったら絵本を読んであげる。お話も聞かせてあげるよ。歌だって歌ってあげる」

 ツイは身内に対して過保護で献身的だ。

 彼には彼なりの訳があって、そう振舞っている。

 これまでの経験が、そう振舞うことが幸せを掴むための道なのだとツイに教え込んでいた。

 ただ、それはそれとしてツイは素直で自分に引っ付いてくるミラを気に入っていた。

 だからだろうか。

 ツイは早いうちにミラの世話を焼くのが大好きになったし、彼女も構って貰えば貰うほど彼を慕うようになった。

 留守番中にツイから舵を習って少しずつタルトの手伝いをするようになったし、ツイとお喋りがしたくて食事は皆ととるようになった。

 また、夜は基本的にツイと一緒に眠るようになって、時々、自分の奴隷時代の話をするようになった。

 苦しさを打ち明けては泣いて、トントンとツイに背中を優しく叩かれながら眠った。

 家事に失敗したり、大暴れしたりしてタルトに叱られると決まってミラはツイの部屋に逃げ込んだ。

 そしてタルトには終始反抗的な態度をとり、クッションを投げつけた後にツイにだけは、

「本当に、今日は間違ってお皿を割っちゃったの」

 だとか、

「タルト様、本当に怒って私のことを追い出したらどうしよう。私のことを叩いたらどうしよう」

 などと不安を溢してと泣きじゃくった。

 ミラが頼るのは勿論ツイだが、彼女が心を開いて本音で言葉を交わすのが彼のみである以上、タルトだってミラに関しては彼を頼らざるを得ない。

 そのため、ツイは一生懸命に二人の間を行ったり来たりして誤解を解いたり、不安を和らげるよう努めた。

 そうしていく内にやがて成果が出て、ミラは一人でもお留守番をできるようになった。

 さらに時を重ねれば病院に連れて行き、手伝いを頼めるようにもなったのだ。

 当時でも家の中では暴れていたミラだが、彼女には内弁慶なところがあって意外と病院では大人しく過ごしていた。

 また、彼女なりに病院が繊細な場所であることを理解したようで、病院内の患者がいる場所で喚き散らしたり、物を破壊して回ったりすることは無かった。

 まあ、仮に院内でもタルトと二人きりになると相変わらず物を破壊するミラだったので油断はできなかったが、それでも概ね、ミラは病院で上手くやっていた。

 しかし、ある朝、事件が起こった。


 タルトは特別扱いをされているため、大きな病院の一室を研究室として与えられている。

 朝になると、勉強するタルトの隣で彼女の仕事道具を手入れするのがミラの仕事だ。

 薬を調合したり補完したりするための道具にはガラス製の物も少なくない。

 特に試験官はミラの敵で、彼女はこれまでに何本も落としてしまっていた。

 そして、この日にもうっかり手を滑らせ、試験管を床に落としてしまった。

 木製の床に試験官がぶつかる。

 薄い硝子で作られた細い試験官はガシャンと大きな音を立てて崩壊した。

 音を聞いたタルトが苦笑いを浮かべて本から顔を上げ、ミラの元へとやってくる。

「コラ、ミラ。注意なさいと言ったでしょう。よりによって一番希少性の高い物を。値段もそうですが、なかなか手に入らない代物なのですよ。それをこんな……わざとやったんじゃないでしょうね?」

 少々ややこしい話なのだが、ミラは不注意で試験管を割ることもあれば、わざと床に叩きつけることもあった。

 タルトの家に来て約一年が経ち、十二歳となったミラも少しは安定し始めていたのだが、それでも自分の中に溜まる苛立ちを上手く消化できず、物に当たることがあったのだ。

 そのため、タルトはミラのことを疑ってキッと睨んだ。

 疑われたミラは、

「何よ!」

 と目を吊り上げる。

 それから、タルトの机に乗っていた本や薬の入ったビーカー、仕事道具なんかを腕で薙ぎ払って床に叩きつけ、

「私に命令しないでよ! アンタなんか! アンタなんか!」

 と、怒鳴りつけた。

 随分と過激な態度だろう。

 あまりにも情緒が不安定で行動が突拍子もなさすぎる。

 成長していないどころか幼児退行し、悪化しているように思えるミラの反応だが、実際は傷が治りかけているが故に起こっている現象だった。

 ミラにとってタルトは主だ。

 奴隷のご主人様だ。

 だが、最近ではようやく感覚的にタルトが自分の主ではないことを理解し始めていた。

 その関係で、脳にこびりつく自分を苦しめた主人や商人の高圧的で高慢な態度とタルトの冷たい態度が重なっては、それを心の奥底が両者は全く別の存在なのだと切り離すことを繰り返していた。

 おかげで最近のミラはタルトに叱られるとパニックや強い感情を引き起こしやすくなっており、過激な試し行動を増やしていた。

 そしてこれが、ミラのタルトを受け入れるための最後の峠であり一番苦しい所だ。

 今、タルトがどのような態度をとるか。

 ここでミラの今後が決まると言っても過言ではない。

 優しく受け入れるべきか、叱るべきか。

 当然、タルトは考えて行動するだろう、と言いたいところだが、重要な岐路に立たされたタルトがとった行動は決闘である。

 しかも、ミラの今後を考えて選んだ決闘ではなく、怒りに任せて選んだ決闘だ。

 そもそもタルトはミラのためにと頑張って冷静さを取り繕い、なるべく彼女を受け入れられるようにと努めてきたが、元の性格は結構な聞かん坊だ。

 気も強いし怒りっぽい。

 感情的で衝動的な人だ。

 その性質を成長の過程で封じ込められ、今も子供たちのためにと封じているだけなのだ。

 だが、故意のあるなしにかかわらず結構な量の試験管を割られ続け、家の窓を破壊され、トドメに研究途中の薬まで駄目にされたタルトは最高潮に切れていた。

 封印も溶けていた。

 故に、決闘を申し込む。

 タルトは白衣を脱ぎ、運動着に着替えるとミラの方にも運動着を手渡した。

「こちらを着て、職員用の中庭に来てください。決闘ですよ! 今日という今日は怒りましたからね!!」

 フンと鼻息の荒いタルトは、ちょうどトイレで席を外していて、彼女が決闘を申し込んだ後に帰って来たツイに、

「ツイには審判をしてもらいます。貴方も中庭にいらっしゃい」

 と、声をかけると、状況が分からずに混乱している彼をおいてサッサと庭へ向かった。

 そのまま待つこと数分。

 タルトはシッカリと準備運動を済ませていて、やる気十分である。

 それから二人が庭に揃うとミラに対して、

「私は五歳も年上の年長者。体格差もあります。故に、このまま貴方と争えばケンカはただの暴力に成り下がるでしょう。来なさい。最初に五発殴らせてあげます。そうすれば対等なケンカになりますから。さて、私が勝ったら試験管を割るのを止めていただきますよ。貴方が割った分は全て私が弁償しているんですからね。そろそろ出費が痛いですよ!」

 と宣言したタルトだったが、結果は惨敗である。

 腐ってもミラは元奴隷。

 運動不足解消のためにウォーキングを心がけているタルト程度では腕力も体力もミラに勝てる訳が無かったのだ。

 そのため、タルトは班での一発目で地面に倒れ込むと、情けなくミラの前に跪き、

「あの、本当に試験官はやめませんか? あれ、意外と高いんですよ。よく使いますし。明日から私たちの食事がパンだけになったらいやでしょう!?」

 と、懇願する羽目になった。

 自分よりも年下の女の子にぶん殴られて跪かされている。

 しかも、自信満々にハンデを与えたせいで負けているのだ。

 情けない。

 あまりにも情けなさ過ぎる。

 確かにタルトが圧勝するのも大人げなく、みっともないが、だからと言ってこれはないだろう。

『タルト様、殴られて負かされた挙句の行動が私の足元でうごめくって、何かアホみたい』

 ついでに、数分前まで殴ってしまったタルトに酷い目に遭わされ、家から追い出されるのでは? と不安になっていた自分も阿保らしく思えた。

 苦笑いを浮かべ、困ったようにタルトとミラを交互に見るツイだって、妙におかしい。

 迷ったツイが、

「み、ミラの勝ち! タルト先生、惨敗……」

 と宣言すると、とうとう堪えきれなくなって、ミラはププーッと笑ってしまった。

「何を笑ってるんですか! 私はミラの一発で、話すだけでも痛いですよ!」

 みぞおちを抑えたタルトがムッと口をとがらせてミラを睨みつける。

 だが、ミラはいい気分だった。

 タルトが逆上して自分を襲わないのも、自分のことを対等だと思って行動しているのだと知ることができたのも、嬉しくて仕方がなかった。

「ふふ、ケンカを申し込んだのはそっちなんだから、これは正当な一発です!」

 ドヤッと胸を張れば悔しそうに歯ぎしりをしたタルトが、

「確かに、いい一発でした。ちょっと誇らしいです。でも、うぅ……ケンカにしなきゃよかったです! 保護者として面目が立たないですよ!」

 と、頭を抱えている。

『何だか、本当に馬鹿みたいだな。この人の奴隷なんだって思い込んでた自分が。こんなおバカさん、主人でも何でもないわよ。あんな屑なんかじゃなかったわよ』

 悪戯に自分たちを殴り、見下した愛で餌という名の生ごみや残飯を牢にぶちまけていた商人や主人とタルトが完全に乖離する。

 安心して、ポロリと涙が出た。

 だが、気の強いミラはグイっと袖で涙を拭うとタルトの目の前で仁王立ちし、

「ねえ、タルト先生、私が勝った分ってことでリボンを買ってくれるなら、試験管のこと考えてあげてもいいよ」

 と余裕たっぷりに言ってみせた。

 これに対しタルトは、

「ム! ミラ、大変偉そうですね。ですが、今は私がお願いをしている身分。むうぅ、仕方がありません。買います! 買いますから、もう試験官はわらないでくださいよ!」

 と吠えるばかりである。

 そして、本当に翌日リボンを買ってもらったミラは、そのことをきっかけに急に大人しくなって物に当たることもかなり少なくなった。

 変なところで鈍感なタルトは、そんなミラのことを、

「意外と現金な子ですね。ですが、きっかけは何であれ、暴れなくなったのも約束を守るのも偉いですよ」

 と、評価していた。

 だが、別に買ってもらったリボンが重要なわけではないのだ。

 リボンはあくまでも口実で、タルトが自分との約束を守ってくれたのが嬉しかった。

 今でもアクセサリーボックスの底に大切にしまわれているリボンは、タルトとミラの絆の証だ。

 ミラがタルトの奴隷ではないことの証なのだ。

 また、この一件を境にミラはグッと大人になった。

 タルトに対する態度が大人しくなり、自分の感情を抑えられるようになり始めたのに加えて、自分自身を見直し、身だしなみを整えたり行動を改められ足り出来るようになった。

 そして、ツイに対する態度や見方も変化した。

 自分を守る存在から好きな異性へと変化していたのだ。

 十歳を超えたというのにお漏らしをしてしまって、

「ツイ、どうしよう! ツイと別々で寝たら、おもらししちゃった! タルト様に叩かれる! お布団が汚いよぅ……」

 と、被害妄想を織り交ぜながらツイに泣きつくこともなくなったし、所用で彼が昼時に席を外しても、

「ツイがいないとご飯食べない! タルト様は嫌いです! タルト様しかいないなら、台所でご飯を食べません! 部屋に帰ります!」

 と、駄々をこねることも無くなった。

 自分を客観視して周りを冷静に見ることができるようになった彼女は、大暴れしていた自分を恥じたし、子供っぽくツイに纏わりついていた自分も嫌で仕方がなくなった。

 特に、ツイに甘えて好き放題にしていた自分なんかは消してしまいたいくらいだ。

『あーあ、何で私、あんなんだったんだろ。ツイにとって、私は女の子じゃないんだろうな。今からがんばったら巻き返せるかな』

 今日も一人、ため息を吐く。

 自力で手入れするようになったツヤツヤの茶髪を赤いリボンが彩っていて、今日も爽やかに揺れている。

 そこに、のんびりとツイがやって来た。

「おはよう、ミラ。今日も早起きだね。最近、お洒落してるの? 素敵だね」

「ツイ! そうだよ。最近ね、可愛くなろうと思って頑張ってるんだ。どうかな? 大人っぽい?」

「うん。良いと思うよ。そのリボン、タルト先生が選んでくれたんだっけ? 先生、センスいいよね」

 赤いリボンは一見すると子供っぽいが、ミラが身に着けている物は高貴なワインレッドである上に高級な生地や糸から作られているため、ずっしりと重厚な雰囲気を持っていて格式高い様子だ。

 少し大人っぽくなったが、まだまだ子供であるミラにぴったりと合う、不思議なリボンだった。

「。タルト先生ったら、私よりも張りきっちゃってさ、『これが一番ミラに似合います! 他に気に入る物がないならこれにしませんか? ふふ、とっても可愛いです』なんて言うんだもの。これにしてあげるしかないでしょ! タルト先生にとっては負けの証なのに、変な人よね!」

 ふふんとドヤ顔のミラはツイにリボンを見せつける。

 リボンを見せびらかすミラはご機嫌で終始、笑顔だ。

「そうだね。タルト先生は変な人だね。でも、素敵な人だよ。それにしてもミラ、大人っぽくなったね。タルト先生が喜んでたよ。物を壊さなくなったから無駄な出費が減ったし、ミラが一生懸命お手伝いをしてくれるから仕事や生活が楽になったって」

「そうよ! 私、成長してるんだから!」

 胸を張るミラに対し、ツイは寂しそうにため息を吐いていてなんだか切ない様子だ。

「ツイ、どうしたの?」

「ううん。あのさ、ミラは本当に平気? もう、僕がご飯を食べさせたり、泣いた時に抱っこしてあげたり、お漏らしの証拠隠滅を手伝わなくても平気? もう、僕と一緒に寝なくても、お漏らししない?」

 嫌味ではない。

 ツイにとってミラを構うことは楽しい事であり、諸事情で空になってしまった心臓を満たす大切な行為だった。

 それが、ミラが急に大人になったせいで出来なくなったことが寂しくて、つい、要らぬお節介を焼こうとしてしまったのだ。

 成長しないでくれ、必要としてくれと懇願する姿は子離れできぬ親のようだ。

 チクチクと胸を痛めながら出された問いに、ミラはプクッと頬を膨らませた。

「もう! いつまでおねしょのことを言ってるのよ! ずっと前から一人で寝れるようになったじゃない! 大体、男の子と女の子は一緒に寝ないの! 不純異性交遊になるんだよ!」

「だって、僕たちは……」

 ツイが言い淀んで目線を下げる。

 僕たちは兄妹でしょう?

 否定されるのが怖くて、問いかけたいのに問えなかった。

 すると、ツイの言葉の先をなんとなく察したミラがムキになってポコポコと怒る。

「僕たちは、何よ! フン! 私の事を子ども扱いするツイなんて知らないんだからね!」

 口を尖らせ、プイッとそっぽを向くミラにツイは沈んだまま「そっか」と呟いて去って行った。

 このやり取りも数回目だ。

 ツイにはツイの事情があってミラのことを妹扱いしたがっていたのだが、ミラは彼の事情など知らない。

 いつまでも自分を女性としてみてくれないツイに憤っていたし、そうなる原因を作った自分自身にも強い怒りを感じていた。

『私はツイの中で本当に妹なんだ! 全くもう! 私はもう十三歳になったのよ! いつまでも子ども扱いされちゃ困るのよ!! ただでさえツイは大人っぽいから、もっと大人な女性にならなくちゃいけないのに!』

 子供っぽくポコポコと怒るミラはブスっとしていて、窓の外を睨みつけた。

 そして、思いっきり頬を膨らませた後に一気に空気を抜く。

 寂しそうになって落ち込むツイがとうとうミラに拒絶され、衝動を抑えきれなくなるまであと数日。

 そして、ツイがミラを自身の妹ではないと認めるのも数日後だ。

『大体、ツイって草食系男子ってやつなのかしら。女の子に興味がなさそうなんだもの! 他の子を好きにならないのはいいんだけどさ! あーあ、ツイも私の事、好きになってくれないかなぁ』

 寂しそうにため息を吐くミラは、ここから約二年後にツイが自分への恋心を自覚してくれることをまだ知らない。

 実は彼がとんでもない肉食のケダモノで、激しくアプローチをされた後に押し倒されて鎖骨を噛まれたり、唇を貪られたりと大変な目に遭うことも、その挙句に告白させられることも、まだ知らない。

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