ツイとミラ ツイ編
ツイがいた孤児院は、少し名のある貴族が「慈善活動に励んでいる」という姿を世間に見せるためだけに作ったハリボテのゴミ箱だ。
屋敷から派遣されてきた院長は飲んだくれの屑で、普段は酔いつぶれているか悪戯に子供に暴力を振るい、怒鳴り声をあげているかのどちらかである。
他に数人いる職員も貴族からの安月給を握り締めて町へ繰り出すばかりだ。
院長も職員も当然のように運営費に手をつける。
おかげで十数人いる子供たちは自力で生活費を稼がねばならない。
女の子や小さな子供は孤児院に残って針仕事を、男の子は外に出てお小遣い程度にもならない金を稼ぐために必死で働いた。
だが、その金ですら目の届く場所においておけば勝手にむしられるのだ。
貴族から仕送りされる腐りかけの野菜と少ない労働費で購入した食材、そしてゴミ箱を漁って手に入れたかびたパンで生活する日々は地獄だった。
破れた垢まみれのボロをまとって町を徘徊し、時折パンやリンゴを盗むのだ。
孤児院の子供たちは町で話題が出れば誰もが眉を顰めるほど悪評が立っている。
「あそこは人間の住む場所じゃない」
綺麗な服を着た婦人や紳士が子供に目をやって嘲笑う。
そうだというのに貧しい両親に連れられて何人もの子供が孤児院にやって来た。
ツイもその一人だ。
「ごめんね、孤児院で元気に暮らしてね。どうか、お母さんとお父さんを許してね」
背中に乳飲み子を抱えた母親が涙ながらにツイへと語りかけた時、ツイは涙を流さないどころかピクリとも眉の形を変えず、コクリと頷いた。
母親は聞き分けの良いツイの姿にホッとし、
「ありがとう」
と醜く笑ったのだが、彼は別に母親のために頷いたわけではない。
ただ、悪評が立つ孤児院に自分を置き去りにしようとする両親を見て酷く失望したのだ。
例の孤児院は貧しい者たちですら眉を被染める有名なゴミ箱なのだ。
そんな場所へ子供を捨てておいて町で生活することなどできない。
ツイの両親は彼の弟だけは育てる気があるからなおさらだ。
両親はこれから遠い場所へと旅に出て新生活を始めるつもりなのだろう。
ツイを育てることさえ考えなければ、資金はあるのだから。
自分のことをゴミ箱へ捨てておいて、さも愛情深い母親の顔をしてなく彼女を見て、ツイの心は絶対零度にまで冷めたのだ。
「父さんは、一生お前のことを忘れないからな」
穏やかな父親面で頭を撫でる醜い男に対しても同様だ。
『こいつ等は僕と離れるのが苦しいんじゃない。捨てたものに対して罪悪感を覚えないために泣いて、優しく振舞っているだけだ』
ギリッと噛み締めた奥歯が軋む。
『こんな奴らのために泣いて、僕も二人を一生愛しているよ、父さん、母さん、だなんて言葉を返すのはごめんだ。こいつ等の望む家族ごっこに何手つきやってやるものか!』
心臓に口が生えてガルガルと唸る。
はらわたが煮えくり返るほどの怒りと脳が真っ白になるほどの失望を覚えたからこそ、ツイは無表情に従った。
この日からしばらくの間、ツイは泣かなかった。
子どもは生きてさえいれば問題は無い。
金を払って養子にしてくれるのならば、どんな屑だろうと問題は無い。
孤児院は粗悪なブリーダーのような側面を持っていて、劣悪な環境で粗雑に子供たちを生かし続けた。
そんな中、ツイは腐った食べ物で腹を壊して嘔吐と下痢に苦しむ羽目になっても、仲間のためにと肉体労働で得た金を全て奪われてしまっても、子供たちと身を寄せ合って必死に日々を生きてきた。
そして、持ち前の賢さを使って子供たちのリーダーになった。
院長の機嫌を取って殴られる子供を減らしたし、効率よい盗みの方法や町民の同情を引き、金や食べ物を貰う方法を考えた。
作戦はおおむね成功して、ツイが来てからの孤児院は少しだけマシになった。
そうやって子供たちを守り、自分の居場所を、引いては自分を大切にし、自分自身も大切だと思える家族を作ろうとしたのだ。
ツイは毎日、一生懸命に働いて仲間のために思考を続けた。
だが、その果てに待っていたのも苦痛だった。
小さな子供のために自分の食事を削り、寝ずに働いていたツイは流行病にかかってしまったのだ。
流行病は幸い死に直結するような危険性のあるものではない。
熱は出るし体は思うように動かせなくなるが、それなりに栄養のあるものを食べて眠っていれば一日か二日で治るようなものだ。
風邪を引けば通常は他の孤児よりも良い物を食べて療養することができる。
これはツイが作ったルールだ。
孤児たちは長年、これに従って生活してきた。
当然、ツイも看病して流行病になった間だけは少しマシな物を食べられると信じていた。
『……野菜の、皮? それに、かびたパン?』
ツイは与えられた食料を手に取って愕然とした。
隔離された部屋の向こうでは、ツイがやってくるまでは孤児院内で幅を利かせていた自称、孤児院のボスがいる。
彼は薄汚い顔で子分を引き連れてせせら笑っていた。
『そっか、復讐するつもりなのか。あんなに大切にしたのに、誰も僕を助けてくれないや』
自称、孤児院のボスは酷い乱暴者で、孤児院内でヒエラルキーを作り、一番弱いものを上層部の者たちで苛め抜くことで全体の統率を計っていた。
それをツイが、
「そのやり方は効率が悪い」
「仮に統率できたとしても、いつかは壊れる危険なものだ」
「もし、正しいやり方だったとしても、してはいけないことだ」
と、噛みついてボスから覇権を奪い、助け合うような優しいものに変えていた。
ツイが賢く力の強い少年だからできたことだった。
だが、ひとたび弱ってしまえば今のような有様になる。
泣いてツイに感謝していた子供たちだって、自称ボスを恐れて彼を助けたりはしない。
それどころかツイは死んでしまう、あるいは病を癒しても以前のように覇権を握ることは無い、と決めつけてボスに手のひらを返したものだって多かった。
『家族だと思っていたのは僕だけだったんだ。僕だけ、どうして僕は、いつも惨めなんだろう。捨てられる前だって、あんなに働いたのに。父さんと母さんと弟のために、僕は……』
現在と捨てられる前の過去を思い出してツイは酷く苦しんだ。
ツイは家族のために家事を行って、妊婦だった母を気遣って生きてきた。
肉体労働で疲れた父の身体をマッサージした後は、軋んだ体を引きずってベッドに横たわり、眠っていた。
ツイは家族を愛していた。
だが、捨てられてしまった。
理由は金だ。
何度も家族だと思っていた存在から捨てられる惨めさに胸が痛んで、悔しさに脳が焼ききれそうになる。
だが、それでもツイは涙を流さず、何度も咳をして寝返りを打っていた。
翌朝、珍しく職員がやって来た。
貴族へ報告するためなのだろう。
時折、職員が思い出したように孤児院に帰って来ては子どもたちの人数を数え、怪我と病気の有無、そして死者が出ていないかを確認する。
通常は適当に子供たちの様子を見て報告書らしきものにチェックと人数を記入していくばかりなのだが、今回は流行病に侵されたツイがいる。
職員は垢と埃で汚れた病床に寝かされたツイを見つけると怒鳴り声を上げた。
「病気に、それも流行病になるとはどういうつもりだ! お前を治すのにいくらかかっているのか分かっているのか! とっととくたばれ、この屑が! 死ね! 死ね!」
病に侵され軋む体に蹴りを入れ、唾を吐き捨てた。
運営費から払う薬代惜しさに暴言を吐いた職員だが、貴族側の体面的に病に侵された子供がいれば治さなければいけない。
死なせることだけは許されないのだから。
そのため、職員たちはすぐに腕のいい医者を呼びよせてツイを診させた。
やってきたのは、十代でありながら深い専門知識を持っている女医、タルトだ。
「ここは患者にとって最悪な環境が詰まっているようですね。私の家へ連れて行きます。異論は認めませんよ」
タルトは職員に向かって冷たい声色で話しかけるとツイを背負った。
「ふむ、私の細腕でも持ち上げられるとは、痩せすぎですよ。流行病もこじらせれば死んでしまいますからね。こんな栄養状態に環境で、よくもまあ『運悪く』だなんて言えたものです」
ツララのような言葉が貫こうとしたのはツイではなく職員と飲んだくれの院長だ。
だが、瞳の濁りきった屑に真っ当な言葉は通じない。
生温かいヘドロにツララが刺さった所で何のダメージも与えられない。
むしろジワリと溶けた水がヘドロに混ざって小汚さを増すばかりだ。
彼らは汚い薄笑いを浮かべて、
「すみません」
と、ヘラヘラと頭を掻いた。
舌打ち代わりに冷たくそっぽを向いたタルトは、振り返らずにツイを抱えて自宅へと向かう。
そしてツイを献身的に看病し、病を癒すと、すっかり元気になった彼に泣きつかれた。
「僕、二度とあんなところに帰りたくありません。誰も僕を待っていない。あそこに家族なんていないんです。僕、ここで一生懸命に働きます。だから、どうか僕をタルトさんの所で雇ってください」
己を殺して家族のために身を捧げたのにもかかわらず、家族から捨てられてしまった哀れなツイ。
ツイは己の事情を多くは語らなかったが、それでも何か感じるところがあったのだろう。
自分の同類に見えたかわいそうな子供をタルトは見捨てられなかった。
「私、片付けの類が苦手なんです。それに、今は見習いですが、いずれ一人前になったら弟子をとりたいと思っていました。なにせ、弟子は師匠の面倒を見ながら勉強を教わってくれるそうですから。ツイ、少し早いですが私の弟子になりますか?」
淡々としたタルトの優しい言葉にツイはコクコクと頷いた。
こうしてツイはタルトに引き取られ、彼女の弟子となった。
ツイが懐くまでにかかった時間は約三か月。
試し行動のようなものは勿論あったが、ミラのように大暴れして家の中の物や仕事道具を壊すわけでもなければ、ジルのように焦げた料理を食べさせ年中睨んでくるわけでもない。
ツイの反抗は不機嫌になって口数を減らし、三日に一回程の割合で勉強をサボるだけだった。
そのため、タルトはツイのことを手元に来た奴隷の中で最も手のかからなかった人間だと思っているのだが、実際は大きく異なる。
何故ならツイは半年以上の時間をかけて貯め込んだ小遣いを使って家出をしようと計画していたからだ。
タルトのツイへの扱いが酷かったわけではない。
ツイがタルトを嫌っていたという訳でもない。
むしろ慕っていた。
しかし、それでもツイは家出をしようとしていた。
というよりも家出をしなければ気が済まぬ精神状態になっていた。
当時のツイは自分の有用性を上げ、タルトにとって必要不可欠な存在になったうえで家出をし、追いかけてもらおうと思っていたのだ。
逃げ出した後に一生懸命自分を探すタルトに見つけてもらい、抱きしめてもらって、
「貴方は大切な私の弟ですよ。どこにも行かないでください」
と、優しい言葉をかけてもらえたら、ツイはタルトを自分の家族として認めようと思っていた。
そうすることで、初めて家族と自分だけの居場所を手に入れられると思っていたのだ。
だが、家出の計画はアッサリと消え失せてしまう。
原因はミラだ。
ツイが家出をしようとしていた丁度その日にタルトがミラを連れて帰って来たのだ。
『今、僕が家出をしたらタルト先生は本当に困ってしまう。計画は延期しようかな。それにしても、タルト先生が連れてきたってことは、この子もうちの子になるんだよな』
俯く小汚い少女が母親に抱えられていた乳飲み子、すなわち彼自身の弟と重なる。
一瞬、ツイの心がざわついた。
『悪い事を考えちゃ駄目だ。この子だって上手くすれば僕の妹になるんだから。大切にしてあげなくちゃ』
ミラはツイの妹どころか恋人になってしまう訳なのだが、当時の彼には知る由もない。
ともかく、多少わだかまりがあろうと、ツイは今までやってきたことを繰り返すだけである。
ツイは右も左もわからぬミラの面倒を見て、世話を焼いた。
同じ年齢である上に、知的で優しいツイはミラにとって親しみやすい存在だったのだろう。
タルトに対してはいつまでも懐かなかったミラだが、ツイには異様なまでに懐いてベッタリになった。
懐くまでの期間もタルトに対しては一年以上かかったが、ツイに対しては一週間ほどだった。
いつも目尻と眉を吊り上げていたミラはツイの前だけでは泣いたし、
「タルト様には内緒だよ」
と、己のこれまでの経験を語って聞かせ、タルトには打ち明けられない悩みを相談した。
家事に失敗したり勉強が嫌になったりすればツイの元へ逃げて、タルトからはひったくるようにして貰ったお菓子を彼に分け与える。
ミラはツイの事情をお構いなしに甘えてくるものだから、随分とわがままを言われたし勉強の邪魔もされてしまったが、頼られるのも必要とされるのも嬉しくて邪険に扱おうとは思えなかった。
『僕に妹がいたら、こんな感じかな? 弟はアレだけど、妹はすてきだな』
ツイはミラが大好きで、胸に苦みを残す弟と混同することも無くなっていた。
しつこいくらいに纏わりつくミラを構ったり、落ち込むタルトを励ましたりするのが忙しくて、だが、それでいて妙に満たされて、ツイはいつの間にか家出のことをあまり考えないようになっていた。
だが、消えていたはずの家出衝動がぶり返したのはミラが安定して随分と経った頃の事だった。
この頃二人は十三歳になっていた。
女の子は成長が早い。
背丈もグッと伸びて二年前とは比べるべくもなく大人びている。
また、ツイにベッタリとしていたのはミラが彼を気に入っていて頼りたかったというのもあるが、タルトを嫌い、遠ざけていたことの反動という側面も大きかった。
心がバランスをとろうとして、過剰にタルトを嫌う分、過剰にツイに甘えていたのだ。
だが、タルトを家族として受け入れたことや彼女自身が精神的に成長したこともあって、この頃のミラはツイにベッタリと甘えることは無くなっていた。
「ねえ、僕もついて行ってあげようか? 一人じゃ心細くない?」
アクセサリーを買いに行くのだと笑うミラに優しく話しかけても、
「全く、ツイったら! 私はもう、小さな子供じゃないのよ。ツイに甘えなくたって平気なんだから! それに、お店にはお友達と行くの。ツイが来たら『またお兄ちゃんを連れてきて』って笑われちゃう。ツイは私のお兄ちゃんじゃないのに」
少し前までツイにベッタリだったミラだ。
思春期特有の背伸びする時期というか、大人になろうと走り出すような心があって、ある種の親離れや兄弟離れを始めようとしているのだろう。
加えて、おませさんなミラはツイへの恋心もあって彼の前で大人ぶろうとしていた。
ツイの好きな色に合わせて買ったリボンも、友達に教えてもらった恋のおまじないも、心細い夜にツイに抱き着きたくなるのも彼には全部内緒だ。
『ツイは大人っぽいから、私も大人っぽくなって振り向いてもらうのよ』
そんな可愛い恋心でミラはツイを遠ざけ、大人になろうと可視化できないハイヒールを履いていた。
これに対して、ツイは元から賢く理性的な分、成長の速度と波が緩やかだ。
急に自分を追い越そうと背を伸ばすミラについて行けそうになかった。
ツイには、どうしてミラが成長を始めて自分に頼ったり甘えたりしなくなってしまったのか理解できていなかった。
それに、ミラにとっては外したい「妹」というカテゴリーも、ツイにとっては重要なものだ。
家族らしきものに対して尽くし、居所を手に入れること。
これがツイにとって重要なのだから。
妹のように思っていた存在に、
「お前は兄ではない」
と、拒絶されてしまったツイは、脳内でプチパニックを起こしていた。
心に大きく空いた空洞を自覚した。
『家出したい』
小さくなっていたはずの願いが大きくなって、ツイを動かした。
幸い、ツイは金銭を貯める性格をしている。
サバイバル知識を持っているし、いつか家出しようと決心した時に買っておいた道具も非常食も部屋にある。
ツイは今日中にでも家を出ていける状態にあった。
衝動を落ち着かせるため、昼の内に荷物をまとめてベッドの下に押し込む。
夕食中はソワソワして仕方がなかった。
そして深夜、ツイはリュックサックを背負って家を出ようとしていた。
玄関のカギを開けようとした時、真っ暗闇なろうかの向こうから、
「コラ!!」
と少女の声に叱られた。
「……ミラ?」
クルリと振り返れば腹にタックルされる。
ツイの腹に顔を埋めるミラは泣きじゃくっていて、言語化不可能な言葉をモニャモニャと話していた。
かろうじて伝わる感情は怒りと不安だ。
抱き着くミラは全身で、
「家出なんか許さない!」
とツイを叱っていて、
「行かないで!」
と泣いていた。
腹を濡らす水が温い。
冷えた体が温まって、空洞に水が溜まるような錯覚を覚えた。
「ミラ、何を言ってるのか分かんないよ」
困ったように話すツイの言葉も嗚咽交じりで聞こえにくい。
気が付けばツイもしゃくりあげて泣いていた。
しばらく、二人きりで声を上げ、吐きだしそうになりながら泣いていた。
「ツイ、それ置いて! ツイが何処かに行っちゃうなんてヤダ!」
呂律が回復したミラがグイグイとリュックサックを引っ張って叱る。
まだ、彼に家出願望が強く根付いていたのを心で察していて、止められないことにも気がついていたのだろう。
ツイがリュックサックを床においてもミラは嗚咽を溢し続け、泣き止む様子を見せない。
「ねえ、ミラ、少し、僕の話を聞いて」
気が付けばツイは自分の人生と家出衝動があるという話をミラに聞かせていた。
「僕は多分、誰かに必要とされたかったんだ。お前が大事だって。僕を捨てない家族が欲しかった。大事にした分、僕のことも大事にしてくれる人が欲しかったんだ」
とっくに分かっていたはずのツイの心。
しかし、ツイ自身は気がついていない彼の欲求だった。
ツイは、それを自分の口から出すことによって初めて知った。
「私、家族になってあげよっか? ツイ、妹が欲しかったんでしょ」
ポツリとミラが言う。
しかし、ツイはフルリと首を横に振った。
「ごめん。何でか分からないけど、ミラは僕の妹じゃなかったみたいだ。ミラは、僕の……なんだろう? 何かではあってほしいな。大事なんだ、凄く」
タルトと同じように大切なツイにとって守りたい存在。
しかし、タルトとミラでは差し向ける愛情や感情の種類があまりにも大きく異なるような気がして、ツイは首を傾げていた。
『ミラが僕のためを思って行ってくれたのに、酷いこと言っちゃった。僕、ミラに兄じゃないって言われて苦しかったのに。でも、あれ? 今はそんなに苦しくないや。何で?』
コテン、コテンと首を傾げてもよく分からない感情の正体をハッキリと知るのは随分と先になる。
さて、自分のための言葉を、しかも長い間望んでいた願望をアッサリ拒否してしまったのだ。
ミラは怒っているだろうな、と彼女に気まずい視線を向ければ、意外にも彼女はご満悦だった。
「ふーん、私は妹じゃないんだ。ふふふ、本当にそう思うなら、それでいいのよ。ねえ、ツイ、ツイはまだ家出したいと思うの?」
嘘を吐いても仕方がない。
ツイはコクリと頷いた。
そうするとミラの目線が下がって、しょぼんと落ち込む。
「そっか。ねえ、それならさ、タルト先生がツイのことを家族だって認めたら、ツイはお家を出て行かないの?」
懇願するような視線にもう一度頷いたら、ミラがパッと咲くような笑顔を見せた。
それからツイの手をギュッと握って、
「なら簡単だわ。私に任せて」
と、胸を叩く。
ミラの導きに従って歩けば、数分もしない内にタルトの部屋の前まで辿り着いた。
「よし、入るわよ」
「うん。あ、でも、先生、先生が寝てる時は部屋に入っちゃ駄目って言ってた」
眠る時だけ何も身につけぬタルトだ。
ツイを連れてきたばかりの頃は服を着て眠っていたのだが、どうにも眠る時の違和感が拭いきれなくて寝不足になってしまった。
そして、ツイが家に慣れてからは、彼に夜間の自室立ち入りを禁じることで元のスタイルに戻っていた。
ツイが照れるとミラの方は呆れた表情になる。
「ああ、先生、裸族だもんね。全く、ああいうのをハレンチって言うんだって! 先生はスケベさんなんだよ! でも、今日は平気よ。ちゃんと先生は起きてるもん」
夜更かしでもしているの? と首を傾げるツイにミラは悪戯っぽく笑った。
「先生、ちゃんとツイの様子がおかしい事には気が付いていたのよ。家出しようとしてたことにも。でも、どうしてか自分じゃ止められない気がするから、私に止めに行って欲しいってお願いしたの。でも、私だってツイが家出しようとしてるって知らなかっただけで、ツイの様子が変な事は知ってたんだからね!」
本当だよ! と鼻息を荒くするミラにツイはクスクスと笑った。
「分かってるよ、ありがとう。ねえ、それなら部屋に入ろうか。タルト先生、僕のことを待っているんでしょう?」
コンコンと二回ノックをして、返事が聞こえるとドアノブを回した。
タルトの不安そうな瞳がツイとミラを見つめる。
それから、ツイの背中にリュックサックが無いのを確認して少しだけホッとした表情を浮かべた。
タルトが何事かを言おうと口を開きかける。
何か言葉を出す前にミラが、
「ねえ、先生。タルト先生はツイのことをどう思っているの?」
と、タルトに質問を投げかけた。
ミラとツイの真剣な眼差しに対して、タルトは非常にキョトンとしている。
そして、キョトンとしたまま、
「え? 弟、でしょうか。子供と言うには私はまだ若いですし。家族ですけど」
と不思議そうに、返事をした。
「だって、ツイ! 良かったね! タルト先生、これでツイは出て行かないって!」
「え!? そうなのですか!? 私はてっきり、勉強が負担になったり、掃除ができない私に嫌気が差したのかと。あとは、弟子という立場が重かったとか。とにかく、ツイ、貴方には我慢癖がありますが、何でも溜め込まなくてもよろしいのですよ。嫌なことは嫌だと言いましょう。別に叱りませんから」
嬉しそうなミラがモギュッとツイを抱き締める。
すると、椅子に座っていたタルトも慌てて飛び降りてツイの元へと駆け寄った。
タルトはツイの事情が分からずキョトンとしているが、それでも彼が出て行かないと知ると安心したように表情を崩している。
体全体はミラに抱きしめられていて温かいし、頭はタルトに撫でられていてふわふわとする。
先生には僕が必要ですか?
お金が無くなっても僕を側においてくれますか?
仮に奇病にかかっても、看病してくれますか?
いくつもの聞きたかったことが嗚咽と涙になって溢れ出す。
それでも言葉にしなくていいと思えたのはタルトの優しい手が頭を撫でていて、ミラが労わるように背を擦っているからだろう。
ミラにすべてを吐き出した時に似たようなことを彼女に聞いて、
「私はツイのことを要らないなんて思わないよ。私もタルト先生も、ツイのことが大好きだよ」
と、嗚咽交じりに力強く肯定してもらえたからだろう。
「ずっと我慢して、頑張って、偉かったですね。ですが、先ほども言いましたが、聞きたいことは何でも聞いていいんですよ。全部我慢されて出ていかれてしまう方が嫌ですから」
ポン、ポンとタルトが優しく頭を撫でている。
それを真似したミラが背中をポンポンと叩くのを感じて、ツイは笑ってしまった。
「あ、それなら、聞きたいことがあったんだ。ミラに」
「え? 私?」
キョトンと首を傾げるミラにツイはコクリと頷いた。
「あのさ、タルト先生は僕の事、弟って思ってるんでしょ。僕もタルト先生の事お母さんだと思ってる。それで、僕はミラのこと大切なんだけど、どういう存在なのか、よく分かってないんだ。ミラは僕の事、どういうのだと思ってる?」
首を傾げながら問いかければ、ミラはポンッと顔を赤く染め上げた。
そして、急にモジモジとしながら後ろに両手を組む。
「えっと優しくて、す、あ、ええと、頼りたくなる人、とか……?」
「それは兄ではないのですか?」
「タルト先生! おバカ! ぜんっぜん違うでしょ! 好きな人だよ!」
真っ赤になるタルトにガウッと吠えると、彼女はキョトンとして首を傾げた後に、「ああ」と納得したような声を出した。
「なるほど、そういうアレですか。なるほど、なるほど。甘酸っぱい青春など過ごしたことがなかったので、すっかり頭から抜けていました。それにしても可愛いおませさんですね、ミラは」
タルトは、「兄弟じゃ結婚できませんものね~」とニヤけている。
態度は完全に悪い年長者のソレであり、案の定ミラはポコポコと怒っていた。
ところで、ミラが自分の妹ではないと自覚したのが十三の頃。
体が大人に近づくミラを見て、ようやく彼女の成長にツイの思考が追い付き、ドギマギとし始めたのが十四の頃。
そして、ミラへの感情が恋であることを自覚したのが十五の頃だ。
ツイは非常に成長がのんびりだ。
だが、成長が早い代わりに超が付く奥手であるミラに比べて、ツイは手が早いし積極的だ。
恋心に気が付いてからはミラを押して、押して、とにかくアタックをした。
そして、そう時間が経たない内に二人は付き合い始めた。
穏やかな身に鮮烈な愛情を宿すツイと気の強い外見に繊細な愛情を持つミラの恋愛は真直ぐで、三年間タップリ愛をはぐくんでから十八歳で同棲を始めた。
ケンカをすることもあるが、概ね仲良く暮らしており、のんびりと幸せを積み重ねている。
年齢は二十歳。
タルトとジルがくっついたのをきっかけにケダモノに戻って診療所でもせっせとミラを襲っているツイは、自宅でも彼女にくっついて甘えたままだ。
自分の胸に顔を埋めるツイに、ミラはふと湧いた疑問を口にした。
「ねえ、ツイは今でも出ていきたいって思う時があるの? 私、ツイがいなくなったら一生懸命探すよ。でも、でも、やっぱり嫌だよ。ツイが側に居てくれないのが嫌だ。宝物を失うのが怖いよ」
頭を撫で、どこにもいかないでね、と頭にキスをすれば、ゆっくり顔を上げたツイがニコッと笑った。
「もう大丈夫だよ。家出、本当は今でもしたいと思う時があるんだ。あんまりにもミラがつれない時とかさ。でも、抑えられるくらい小さくなったから。あ! でも、その代わりに」
「その代わりに?」
「すっごく甘えたい日がくる! 今とか」
無邪気な言葉と同時に押し倒せば、ミラがキャッと声を上げてベッドに寝転がる。
そして、無防備になったミラを間髪入れずにパクッと襲い、じゃれるように抵抗して可愛い声を上げる彼女に甘えまくった。
タルトに認めてもらって少し落ち着いたが、実は、ミラと一緒になる前のツイは、それでも衝動的にリュックサックに荷物を詰めることがあった。
しかし、今のツイは酷く甘えん坊になって衝動的にミラを襲う代わりに、リュックサックに物を詰めることは無くなった。
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