トゲトゲ風邪っぴき

 ジルが買われてから約二週間後、彼はタルトが嫌で、嫌で堪らなくなっていた。

 彼女の顔を見るとムシャクシャとして、怒鳴り散らしたり殴ったりしてしまいたくなる。

 タルトへの悪感情を覚えてからのジルは、乱暴な言葉を使ったり、暴力を振るったりといったことさえしなかったものの、睨んだり、舌打ちをしたり、雑に家事をこなしたりしていた。

 澄ました態度が気に入らない。

 偽善者の思い上がった思考が気に入らない。

 見下されている気がする。

 なんだか妙に憎い。

 理由はいくつか存在したが、どれも曖昧で微妙に根拠がない。

 当時のジルは、その理由をタルトに嫉妬しているか、あるいは彼女から憎悪されている分、やり返しているだけだと思っていた。

 というより、それくらいしか思い浮かばなかった。

 それらの感情も嘘ではないだろう。

 これまでのジルとタルトでは水と油だ。

 しかし、今回のジルの場合は試し行動的な部分が大きかった。

 タルトに買われてから始まった温かな生活に保障された安全。

 前払いで渡された給料には違和感を覚えたが同時に喜びも覚えたし、毎日風呂に入れるのも、肉を食べることができるのも、柔らかい布団で眠ることができるのも嬉しかった。

 タルトから静かに贈られた幸せを受け入れられれば、ジルは幸せだったのだろう。

 だが、ジルは幸せを受け取って浸ること自体が恐ろしくなっていた。

 タルトとの暮らしが普通になってしまえば、気まぐれで彼女から捨てられた時に酷い苦しみと引き裂かれるような辛さを背負うことになる。

 万が一、奴隷商にでも売られてしまえば地獄のような日々が始まることになる。

 もう二度と、あんな暮らしはしたくない。

 ずっとタルトの下で働いていたい。

 ジルはタルトに優しくされたあの日から、ほんの少しずつ彼女を好きになっていた。

 だが、淡い願いや感情を自覚すれば苦しくなってしまう。

 恐怖が脳と心臓に染みついて離れなくなってしまうだろう。

 無意識にそれらを自覚したジルの心が、自分自身を守るためにタルトに対して反発と反感を覚えさせていたのだ。

 そして、タルトが自分を捨てることは無いのだと知るために、ジルはわざと彼女に捨てられそうなことをしてしまっていた。

 今日も、わざと焦がしたエッグトーストを彼女に渡し、自分は普通に作り上げたトーストを食べている。

 彼女が眉根も動かさずに黙々とエッグトーストを食べている姿を見ると無性にイライラして舌打ちをし、彼女を思い切り睨みつけた。

 ところで、ツイやミラを拾った時にも試し行動のようなものは存在した。

 ツイは一時期、常にイライラしていて無口ぎみになり、静かにそっぽを向け続けていたし、ミラは「偽善者! 屑!」と暴言を吐いて暴れ回っていた。

 実はタルトの家の窓ガラスは合計で五回以上われている。

 ミラを拾ってからしばらくは、ガラス屋さんに顔を見せる度に店員が、

「またミラちゃんが?」

 と、呆れ笑いを浮かべながら問いかけてくるほどだったのだ。

 だが、それでも試し行動を受け入れ、ケンカしながら二人を見守っていたのがタルトだ。

 あからさまに態度が悪いジルを見たツイとミラなんかは、自分たちの時のようにタルトが温かく冷静に彼を見守っているのだろうと考えていた。

 しかし、やはりタルトにとってジルは何よりも特別なのだ。

 試し行動なんて考えはスッポリ頭から抜け落ちている。

 そのため、ジルに冷たい態度をとられた彼女は素直にへこんでいた。

『うう、今日も焦げ焦げトーストです。ジルのは普通のトーストですから、わざと私の分だけ焦がしているのですよね? そんなに私のことが嫌いですか? ジル。私は、私はジルのことが大好きですよ。伝えられませんが。それでも、愛していますよ。せめてジルが私を嫌う理由が知りたい。好かれなくてもいいから、普通の態度をとってほしい、いや、やっぱり好かれたいですよ、ジルー!!』

 焦げていたとてジルの作ったトースト。

 これも、やはりジル! とタルトは気持ち悪い思考のままにトーストを噛み締め、限界がきてはミルクで胃に押し込んでいる。

 似たような事が様々な場面で何度も続いた。

 アイロンで燃やされた白衣に、うっかりミスと称して割られた食器。

 埃の目立つ床に、すれ違うたびに鳴らされた舌打ちと絡みつく悪意の視線。

 いつ叱られるのだろうか。

 いつ追い出されるのだろうか。

 いつになったら安心できるのだろうか、

 ジルの脳はそればかりに囚われて、追い出されたくなどないのに正反対の行動しかとれなくなっていた。

 そして、タルトがジルの悪意を受け入れる度に己では認められぬ安心感を覚えていた。

 そんな矢先、ジルは高熱を出して倒れた。

 奴隷時代、病気になった者から死んでいった。

 ジルの中で病気と死が固く結びついている。

 頭の中でよぎるのは、他の奴隷にうつったら面倒だからと生きながらに焼かれた哀れな病気の奴隷たちだ。

『俺は、棄てられるんだ』

 喉は鈍く痛むし鼻も詰まって息苦しい。

 寒さと暑さが入り混じってひたすらに苦しく、ろくに考え事もできないのに、それだけはハッキリと分かった。

 そして、熱で潤んだ瞳からポロリと涙が溢れだした。

 ジルは多分、生まれて初めて寂しくて泣いた。

『棄てられる。棄てられちまうんだ。本当に。でも、当然だよな』

 タルトにしてきた嫌がらせの数々が頭によぎる。

 碌に仕事もしない生意気な奴隷では捨てられて当然だと、頭では分かっていた。

 しかし、それでも捨てないタルトが好きで安心を覚えていた。

『タルトが部屋に入ってくる前に、死にてーな。あの女に捨てられて惨めな奴隷に成り下がってから死ぬなんざ、真っ平ごめんだ。あの女が俺を捨てるところなんて、見たくねーよ』

 舌を噛み切れば今すぐにでも死ぬことができる。

 しかし、それを実行する気にはなれなかった。

 ジルは幸せに生きていたかったのだから。

 今まで一度も本気で死のうと思った事など無く、体が生存する事ばかりを考えていたのだから。

 本当は、病気になった自分でさえも大切にしてくれるタルトが見たい。

 ジルは希望を捨てきれなかった。

 ふと、ドアをノックする音が鈍く鼓膜に届いた。

 なかなか起きてこないジルを心配したタルトが、彼の部屋を訪ねてきたのだ。

 部屋に鍵はかかっていない。

「ジル、もしかして寝坊なのですか? 入りますよ。セクシーな姿を見られても、今回ばかりは私のせいじゃありませんからね」

 以前、うっかりジルの下着姿を見てしまった時のことを言っているのだろう。

 今回も役得でスケベな寝起きを見られるだろうか。

 タルトは期待半分、罪悪感半分でゆっくりとドアを開いた。

 そして、ベッドの上で汗だくになってうなされているジルを見つけて、

「ジル!!」

 と絶叫し、慌てて彼に駆け寄った。

『何言ってんだ、タルト。よく聞こえねーよ。ああ、クソ。棄てられたくねぇ。棄てられたくねぇな。もっと、一緒に……家事、ちゃんとやってやればよかったな。そしたら、もしかしたら』

 額に優しく添えられるタルトの手のひらが冷たくて気持ちが良い。

『すぐに棄てるクセに、そんな顔すんなよ、タルト……』

 タルトの心配そうな表情だけを覚えたまま死んでしまいたい。

 このまま目が冷めなければいいのにな、と淡く願いながらジルは意識を手放した。

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