かわいい試し行動

 ジルが再び目を覚ました時、彼がいたのは冷たい路上でも牢屋の中でもなく二重、三重に毛布を掛けられた温かなベッドの上だった。

「おはようございます、ジル。体の調子はいかがですか?」

 パチリと瞳を開ければ、すぐに心配そうな表情を浮かべてタルトに声をかけられる。

 ジルはガサガサになった唇を小さく開いた。

「もう、だいぶ良いです。あの、もう、平気なんで」

 仕事をしなければ。

 散々、悪態を吐いて仕事をさぼってきた挙句に病気にまでなってしまったのだ。

 今すぐに名誉を挽回しなければ今度こそ追い出されてしまう。

 そんな危うい思考に陥ったジルがムクリと起き上がろうとすると、タルトに慌てて肩を押さえられて起床を阻止された。

「やめなさい、ジル。今、動いたら本当に死んでしまうかもしれません。大体、病人にできる仕事なんてありませんよ。あえて言うのならば、病人の仕事は休憩することです。起き上がるなんて、許しませんからね」

 ムッと口を尖らせ不機嫌になるタルトを見て、思わずジルは笑ってしまった。

 パンパンに腫れた喉がキシんで苦しいが、悪い気はしなかった。

「タルト様、怒ることあったんすね。なら、今日は休みます」

「ふむ、妙に素直ですね。ですが、助かりました。そうなさい。何かしてほしい事はありますか? お粥を用意していますし、毛布も足せますよ」

「毛布は、このままでいいです。でも、腹減ったな。お粥、もらってもいいっすか?」

 素直に要望を口にすれば、固形物をとらせることができるとタルトは喜び、パタパタと台所へ駆けて行った。

『走らなくてもいいのに。本当に変な人だな』

 風邪をひくと心細くて、誰かに甘えたくなる。

 身近なところに愛しい人がいるのならばなおさらだ。

 ジルは免疫力が高く、体力もあるので風邪はだいぶ良くなっていたが、それでもやはり体は弱っているし精神も参っていた。

 ジルの可愛い試し行動が始まった。

「ジル、こちらを持ってきました。冷ましてあるので簡単に食べられると思いますよ」

 パン粥の入ったお椀とスプーンを差し出すタルトを見て、ジルはフルフルと首を振った。

「俺、食えません。手、上がらないんで」

「そ、そんなに弱ってらっしゃったんですか!? 次に不調を感じたら、すぐに話すんですよ。ともかく、そう言った事情があるのならば食べさせて差し上げます。ほら、口を開けて」

 パカッと空いた口に粥を放り込む。

 ジルはモグモグと咀嚼をしたが、飲み込んだ後は口を開けず、粥を口元に近づけても何の反応も示さずに無視をした。

「どうしたのですか、ジル。お口に合わなかったのですか? 確かにお粥は美味しいものではありませんが」

 できるだけ食事をして欲しいと眉を下げれば、ジルはフルフルと首を振った。

「いや、一口目、熱かったんで。二口目からは覚ましてもらってもいいっすか?」

 熱で火照り、病気で弱ったジルが少し照れながら要求を口にしてくれる。

 タルトにとっては堪らないご褒美である。

『冷ますって、あれですよね!? ふーふーしていいってことですよね!? ああ、あ、ありがとうございます! ありがとうございます! ジル!!』

 あからさまに、役得! 役得! と、喜んでしまう心を表情に出さぬよう口をキュッと結んで顔を引き締めると、タルトはかなりぬるくなった粥に息を吹きかけ、ジルの口元へと運んだ。

 パクッパクッと頬張って咀嚼し、ジッとタルトの目を見つめて催促するのが愛らしくて堪らない。

 そして、すっかり食事を終えるとハチミツの入ったミルクが飲みたいだとか、薬を飲みきれたら頭を撫でてほしいだとか言い出して甘えた。

 後半からはすっかり敬語もとれており、

「タルト、俺、体ベタベタするの嫌だ。汗を拭いてくれ」

 と、両手を広げて要求する始末である。

 タルトはメロメロだ。

 口を動かせばニヤーッと歪んでしまうし、桃色の瞳には表面にも奥にもハートが散らばり散らかして仕方がない。

 タルトは萌えすぎて、まともにしゃべれなくなってしまった。

『タルト様が要求には答えてくれるけど無口になっちまったな。何でだ? 流石に甘え過ぎたのか? 嫌われたのか? 寂しい……』

 丁寧に背中を拭いていたタルトはジルの正面にやってくると俯いた。

 勿論、ニマニマと火照った表情をジルに見せぬためである。

『ああ! 傷がいたわしいですが、綺麗に筋肉のついた愛しすぎる背中! 堪りません! 堪りません!! 今すぐタオルになってジルの身体を這いたいですよ! ジル!! ちゅっちゅっちゅ!!』

 気持ちが悪い。

 気持ちが悪いが本気である。

 これから腹や胸を拭いてやるのだと思うと堪らなくなって、ホウッと甘い溜息をついた。

 しかし、この溜息がジルには呆れや嫌悪の冷たい溜息に映ってしまい、無性に寂しくなって情動的にタルトを抱き締めた。

「キャッ! ジ、ジル! 駄目ですよ、放してください」

 ガシッと背中に腕を回し、柔らかい胸に顔を埋めて鼻息を荒くしている者の言葉である。

 説得力もへったくれも無い。

 仕方がなく、とばかりにペシペシと優しく背中を叩く手が実に白々しい。

「嫌だ。俺、寒い」

 ジルは心と一緒に体まで冷やして震えていた。

 その姿を見ていると苦しくて、タルトがそっとジルの背中を撫でる。

「それなら部屋着を着ないと。着せて差し上げますから腕の拘束を解いてください」

 実際、いくら毛布が大量にあるとはいえ服を着なければ体温が下がり、風邪が悪化してしまう。

 少々スケベな役得感情が入ってしまったが、ジルの回復を願う気持ちも心配する気持ちも本物であり、彼が目を覚ますまでは一睡もできなかったほどなのだ。

 一夜を明かしたタルトの目元には薄っすらとクマが浮かんでいる。

 タルトが困ったように頼むとジルはコクリと頷いて彼女を離した。

 そして大人しく上着を着せてもらったジルなのだが、すぐさまガバッと彼女に抱き着いて寝転がり、毛布にくるまった。

「キャッ! もう、ジル。びっくりさせないでください」

 感情を隠せなくなった声はやけに弾んでいる。

 雑にかかった毛布の位置を直してジルの肩にかけてやり、モギュッと背中に回した腕の力を込めながら中途半端に文句を溢す姿は、やはり白々しい。

 確実に、もっと! と願っている。

「タルト、タルトには俺が必要か? トースト焦がして、睨んで、物を壊して、舌打ちをして、そんなことばかりの俺でも、必要か?」

 ジルは震えていた。

 声も、体も、瞳も。

 涙を見せないように、そして、タルトを放さないように。

 ジルはギュッとタルトを抱き締めると小さく問いかけた。

「ええ、必要ですよ。私には、必要です」

 ジルには私は必要ないでしょうが。

 心の中で付け足して答えるとジルはモゾモゾと毛布の中に潜っていき、タルトの胸の下に顔面を埋めた。

「褒めてくれ、タルト。褒めるところが見つからないかもしれないけど、褒めてくれ。頭を撫でてくれ」

 弱った声に態度でキュンと胸が疼く。

 タルト、あまりの愛らしさにいいなりである。

 デレデレと表情を崩すと片腕でジルの頭を抱き締め、もう片手で優しく頭を撫でた。

「ジルは頑張り屋さんですね。たった二週間しか経っていないのに仕事を覚えて、敬語も随分と上手になりましたね。家事も、失敗することや悪戯をすることはあっても完全に放棄することは無かったでしょう? 偉いと思いましたよ。私は、ほとんどの家事ができませんから、ジルのおかげで家が住みやすくなりました。本当ですよ。外食も減って貯金が増えましたし。物置も物置らしい姿になりましたし。私の部屋も綺麗になりましたからね。私の部屋と診療所だけは床も窓も何もかもピカピカで、何が大切なのか分かる賢い子なんだと感じましたよ」

 ジルは特に何かを言い返すことなく、泣きながらコクコクと頷いていた。

 言葉と手のひらから温かさが入り込んで体を内側から温めていく。

『タルトは思っていたよりも俺のことを見ていたんだな。中途半端に改善した敬語も、タルトの部屋と診療所だけはキチンと片づけてたことも、雑に荷物を押し込んだ物置を後から整えたことも』

 甘えを許されたからだろうか。

 ジルの心の中にあった、捨てられるという恐怖が消え始めていた。

 縋るのではなく、もっと温めてほしくなってジルはタルトを抱く腕に力を込めた。

 応えるように、タルトもゆっくりと頭を撫で続けている。

「偉いですよ、ジル。いい子です。家事ができなくても、ジルは家にいていいんですよ。でも……」

「でも?」

「でも、もしもジルが家を出たくなったら、出てもいいんですよ。私には止める権利がありませんから」

 消え入るような声はかすれていて、泣き出してしまいそうだった。

 しかし位置の関係上、タルトの顔を見ることはできない。

 そんなこと言わないでくれ、俺はずっとタルトの隣に居たい。

 そのように答えたかったのだが、すっかり安心して眠くなってしまったジルはタルトの名前を曖昧に呼ぶと眠りに落ちた。

 翌朝、ジルが再び目を覚ますまでタルトは彼の体を抱き締めていた。


 風邪の一件以来、ジルは変わった。

 タルトへの恋心を自覚し、受け入れた彼は縋って生き延びるためではなく、彼女の役に立って喜んでもらうために家事や勉強に励むようになった。

 また、ニコニコと挨拶をして世話焼きを楽しみ、自然とタルトのことを考えることが増えていった。

 そうしているとツイやミラに話しかけられることが増えて、彼らに勉強やタルトのことを教えてもらったり、反対に力仕事などを手伝ったりしている内に随分と三人は仲良しになったのだ。

 ツイとミラはジルにとって初めての友達だ。

 また、二人の前例があるため、タルトの診療所に訪れる者でジルに「奴隷ごときが!」ときつい言葉を投げかけたり、嫌な態度をとったりする者はほとんどいない。

 余りにも環境が温かくて、ジルに纏わりついていた「棄てられる」という恐怖もすっかり消えていた。

 だが、どうにもジルから悩み事が消える日はないようで、今度は別の件に頭を悩ませていた。

『タルト様、妙に冷たいんだよな。風邪ひくまでは優しかったのに。俺の媚びた態度が気に入らないのかな? でも、俺、別に媚びてるわけじゃないんだよな』

 初めはわざとタルトの前で笑顔を作り、気を使って生活していたジルだが、気が付けばひっそりと彼女に甘えるのも、彼女のために行動するのも馴染んで嫌な気はしなくなっていた。

 どちらかというと好きだから、つい柔らかい、甘えた態度をとってしまうといった調子になっていたのだ。

『素の俺はお気に召さないのかな? でも、タルト様に高圧的な態度はとりたくないし、タルト様、態度は冷たいけど優しいままな気もするし。なにより、ツイさんとミラさんが、俺の態度が柔らかくなってからタルト様が凄く嬉しそうにしてるって言ってたんだよな。タルト様、天邪鬼なのかな?』

 タルトがジルに冷たい理由は簡単で、引っ付いてくる彼に甘えて恋心をさらけ出さないように自制し続けた結果、不愛想になっているというだけの話だ。

 勿論、そんなことをジルは知る由も無いが。

 ジルは首をひねりながらもタルトに振り向いてもらうべく、一生懸命に努力を重ねた。

 生きるために得たものを捨てて支払った代償を取り戻そうと、ジルはこの一年間奮闘してきたのだ。

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