軽蔑したのは……

 翌日の早朝、ジルはパチリと目を覚ましてベッドの中で寝返りを打った。

 ジルの身体全体を柔らかく受け止めるマットレスに良い匂いのする毛布、柔らかな太陽の温もり。

 それらに包み込まれたジルの身体はかつてないほどの幸福に浸ってリラックスしている。

 疲労も抜けきらず眠気もあったため二度寝してしまいたかったが、何故か妙に頭がさえて起床することができた。

 ムクリと起き上がり、ボリボリと腹を掻きながら辺りを見回す。

『昨日買われたの、夢とか幻覚じゃなかったんだな。変な感じだ。妙にソワソワする。つーか、改めて見てみると、やっぱり散らかってんな。服脱ぎ散らかし過ぎだろ。大体、冷静に考えたら自室に下着が転がるのっておかしくねーか? もしかしてあの女、裸族か? 貴族は裸族ってガチか? 本も積み過ぎだし、このコップには何が……カビてる! きったな!!』

 散らかった衣服類で足の踏み場がないし、本棚の中では雑に積み重ねられた本が崩れて雪崩を起こしている。

 椅子や小さな机、薬学の本や資料が詰め込まれた大きな機能机の上には一つずつコップが置かれているのだが、いずれも中身が腐っており、どれも飲めたものではない。

 生ごみを食わされていたジルですら、これは食べられないな、と判断するレベルである。

 また、バッグや文房具、風呂上がりに使ったと思われるハンドタオルなど、日用品の大部分が部屋に集結しているといった様子だ。

 タルト、やりたい放題である。

『隠滅ついでに部屋を片付けてやるか。多分、机以外の部分なら弄っても大丈夫だろ。どこに何を置いたか、なんてのは普通に覚えてられるしな。家に置く価値がある奴隷だって示してやるよ』

 ジルはフン! と、腕まくりをすると空のカゴを駆使して洗濯物をかき集め、テキパキと物を収納し直し、ゴミや洗い物を集め、部屋の掃除を進めていった。

 炭鉱では肉体労働が主であり、洗い物や洗濯を任されることはあっても家事などは一切したことがない。

 しかし、生き延びるために磨き上げた適応力と器用さ、賢さを駆使してジルは昼前にタルトの部屋を綺麗に掃除しきることができた。

 キチンと整理整頓がなされ、床が顔を出した部屋は先程までの荒れた部屋と比べるまでもなく美しい。

 達成感で心を満たしながらジルが額の汗を拭っていると、唐突にドアのノック音が聞こえてきた。

「ジル、まだ眠っているのですか? 失礼しますよ」

 あまり間を置かずに室内へ入って来たタルトは昨日と同様に髪を括り、エプロンを身に着けている。

 タルトには甘い野菜やパンのような食欲をそそる柔らかな匂いがまとわりついており、室内に入った瞬間、それがふわりと広がってジルの腹を鳴らした。

「起きていたのですね、ジル。てっきり昼まで眠っているかと思いました。あら? 室内がとても綺麗ですね。掃除をしてくださったのですか? ありがとうございます」

 定期的に片づけを行うタルトだが、彼女は掃除がヘタクソなのでいくら片付けようと碌な仕上がりにならない。

 おまけに掃除をすると必ずと言っていいほど、どこに仕舞ったのか分からなくなる物が発生し、室内で無くし物をする羽目になるため、最近では片づけという行為そのものを諦めていた。

 そんなタルトにとってジルの片づけは感動ものである。

 無表情ぎみの瞳もキラキラと輝いて、嬉しそうに室内を眺めていた。

「窓とか、床とか、拭いてないっすけど。あと、洗濯ものと洗い物も残ってますし。それに、机も弄ってないっす」

 できたことよりもできていないことを列挙し、白状する。

 炭鉱時代にこのような真似をすれば殺されかねないほど殴られていたため、ジルは己の成果を話す癖をつけていたのだが、何故かタルトには素直に話すことができた。

 まあ、ここには生まれて初めて素直な「ありがとう」を貰えたジルの照れ隠しも入っているので、純粋にできなかったことを白状するのとは少し意味合いが違うのだが。

 しかし、それでも、これまでのジルでは考えられない言動だった。

 きっとジルは自分で自覚するよりもずっと早くからタルトを信頼し始めていたのだろう。

「窓などに関しては追い追い掃除していただければ結構です。何も言わずともここまで仕上げてくれたのですから、他に言うことなどありませんよ。それに、あの机には重要な書類などが入っているので、下手に弄られては困るのです。ふふ、して良い事といけないことが理解できているなんて、ジルはとっても賢い子ですね。本当に、ありがとうございます」

 ふわりと零れた笑顔は直視できないし、鼓膜を揺らす「ありがとう」にはいてもたってもいられなくなる。

「奴隷に『ありがとう』なんて、タルト様は変わってるっすね」

 割れた唇が小さく開いて、あまり素直でない言葉が転がり出た。

 白い頬がほんのりと赤く染まっている。

「ジルは奴隷ではありませんよ。その件についてもお話があります。それに、先ほどからジルのお腹は鳴りっぱなしですから、食事がてらお喋りをしましょう。一階の台所にいらっしゃってください」

 何処か沈んだタルトに促され、スープの匂いが濃くなる台所へと向かう。

 テーブルに着いたジルに腹八分目までスープをとらせると、タルトは彼がスプーンを置いたタイミングで机の上に一枚の紙とペンを置き、差し出した。

 ザッと紙に目を通したジルだが、文字の読めない彼には恐らく何か小難しいことが描かれているのだろう、ということしか理解できなかった。

「えっと、これは何すか? タルト様。俺、字は読めないんすけど」

「こちらは使用人の契約書です。ジルは昨日、市役所へ行ったことを覚えていますか?」

「え? あ、まあ」

「実はジルは、あの時点で奴隷契約を解除されていますから、既に私の奴隷ではありません」

 ジルにとっては衝撃の事実である。

 奴隷ではないという事実と家を追い出だされて再び売られるという予想がガッチリと結びついて、ジルは青ざめ、慌ててテーブルに身を乗り出した。

「そんな! じゃあ、なんで俺を買ったんすか? 転売目的っすか!? そんなのあんまりっすよ! 俺、俺、掃除ができます。敬語も使えるようになりますし、洗濯物も! 料理だって覚えます。メシだって、もっと少なくても平気です。生ごみも食えます。家においてください。俺、俺、頑張りますから」

 信用しない、期待しない、安心など覚えない。

 そのように誓っていたはずのジルだが、それでも彼はタルトの奴隷として働くことを当然のように受け入れていたし、待遇が良い以上、それを望んでいた。

 出来上がりかけていた安全が崩れる恐怖は、とてもではないが一言では語り尽くせない。

 ジルは小刻みに体と声を震わせると必死で己の有用性を解いた。

 それを眺めるタルトの瞳は冷たく軽蔑に満ちている。

 侮蔑しているのは一生懸命に生き延びようとしているジルではなく、彼の依存を喜ぶ浅ましく穢れた自分自身だ。

 理由はどうであれ、ジルがタルトの元に残ろうと必死になる様子が愛しくて、嬉しくて、胸が満ちた。

 愛しい人が縋りついてくれることに、タルトは幸せを感じてしまった。

『くたばった方がマシですね、私のような屑は。ごめんなさい、ジル。ごめんなさい』

 胸にせり上がる自身への嫌悪と罪悪感が暴れ出す。

 けれど、それを出して土下座するわけにはいかない。

 タルトはジルに購入理由を明かすつもりが一切ないのだから。

 想いを伝えるつもりも、本当の意味で自分のものにするつもりも無いのだから。

 彼女は無表情に取り繕った。

「落ち着きなさい、ジル。貴方の有用性は分かっています。私だってバカではないのですから、高い金をかけて手に入れた貴方を追い出したり、売りに出したりは致しません。そういう苛めをする趣味はございませんから」

 冷静に言葉を重ね、売らないよと肩を叩かれてもジルは安心ができなかった。

 せめて納得できる理由が欲しい。

 家に置いてもらえると分かる何かが。

 ジルは酷く焦っていた。

「じゃあ、何で!」

 己の有用性を解いた時の勢いをそのままに問いかければ、再びタルトが彼の両肩に手を置いて椅子に座らせようと押し込んだ。

「落ち着きなさい。ジルも自分で自覚しているように、奴隷では無くなった貴方はどこへも行くことができません。契約があろうとなかろうと、貴方は私の奴隷です。ですので、あえて命令いたします。そこの書類にサインなさい。その書類は使用人の契約書類です。明日から貴方は契約に従い、私の使用人として家事等を行うのです」

 冷静なタルトの唇が改めて言葉を紡ぐと、ジルはようやく発言の内容を飲み込み、意図に気が付くことができて落ち着いた。

 タルトの少し力のこもった両手に従ってストンと座り、

「それ、俺をいったん奴隷じゃなくする意味ってあるんすか?」

 と、首を傾げる。

 キョトンとした彼の姿にタルトはニコリと微笑んだ。

 与えられたものを受け取るだけでなく、その度に思考して飲み込む姿が賢く感じられ、愛おしくて堪らなかった。

「ミラの時も思ったのですが、やはり貴方たちは賢いですね。私に縁のある奴隷は皆、賢くて助かります。そうですね、一見すると奴隷と同じように見えるでしょう。そう言った側面があることも事実ですが、使用人には奴隷と違ってお給料が出ますし、休みも与えられます。というか、与えねば私が法的に罰されます。むやみに傷つけたり、殺したりすることも勿論できなくなりますね」

 他にも細かな制約がタルトに課されることになる。

 奴隷を使用人に切り替えるという手法は、少なくとも町では彼女しかとっていない。

 わざわざ奴隷を買う旨味が一切存在しないからだ。

「普通に使用人を雇えばよくないっすか?」

 なおもジルはキョトンとして首を傾げている。

 全くもって彼の言う通りなのだ。

「そうですね」

 ジルの素朴な疑問にズキンと心を痛めてタルトは苦笑した。

 数年前にもミラに同じことを問われたのだが、その時に感じた痛みとはまた別のものだ。

 ツイとミラの購入理由は偽善である。

 タルトは偽善で二人を購入し、偽善で奴隷から市民に変えた。

 その手段がどうにも高飛車で、偉そうで、タルトは自分自身を嫌悪したが、それでも救えた温かさが胸の内にあった。

 しかし、ジル自体が欲しくて買ったタルトには、その偽善すらない。

 感謝されるいわれすらないのだ。

 タルトは服の上から胸を握り締めたまま、もう一枚、ごく短い単語が描かれた紙きれを差し出した。

 指が食い込む柔らかな胸をガン見していたジルの視線が慌てて紙面に移る。

「ともかく、こちらにサインをお願いします。これがジルの名前です。これを真似て、ここの部分に文字を書いてください」

 タルトは契約書の舌の方にある空欄と小さな紙きれを交互にコツコツと叩いた。

『本当に、訳分かんねー女だな。哀れな奴隷を救うのが趣味の偽善者ってところか? 反吐が出る。でも、まあ、意図が分からねえよりはマシか。それにしても、これ、奴隷よりももっとひでぇ契約なんてことはねぇよな……?』

 美味しい話には裏がある。

 すぐに飛びつきたくなるような事柄にこそ疑惑の目を向けるべきなのだが、あいにくジルには断るという選択肢が存在しない。

『まあ、奴隷以下の扱いなんて想像もできねーし、サインするしかねーか』

 ジルはペンを受け取ると渋々、空欄に名前を書いた。

「んで、俺は今日は何をすればいいんすか? 家事するんすよね?」

「いえ、先程申し上げた通り、仕事は明日からでよろしいですよ。体が疲れているでしょうから。ですが、そうですね。最初のお仕事は物置と空き部屋を片付けていただいて、ご自分の部屋を確保していただくことになりますね」

 部屋の準備が整うまでは私の部屋を使っていていいですよ、と呑気に話すタルトだが、ジルの方からすれば堪ったものではない。

 昨夜のような思いや行為をするのは真っ平ごめんである。

 大慌てで掃除を始めると言って聞かないジルを見て、タルトは、

『ジル、私がソファで寝ていたのを心配してくださったのでしょうか? 私はどこでも寝付けますし、研究や勉強中に眠るなどザラなのですから、心配は無用なのに。ジルはとっても優しい子ですね』

 とズレた感想を持ち、心を温めていた。

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