奴隷青年ジル

 ジルと同じ黒だが、彼よりも艶やかでコシのある長い髪が細い腰の上でチラチラと揺れている。


 手足も細く、一部以外はスラリとした目の前の女性はジルならば簡単に捻り潰せそうに思えるが、実際には彼よりもずっと強い。


 実は彼女が格闘技界の女王、というわけではない、


 当たり前だが腕力ではジルよりもずっと劣る。


 ジルよりも実質的に強い理由は簡単で、彼女は奴隷であるジルの「ご主人様」だからだ。


 タルトは一枚の紙きれによってジルの身体を弄び、生命を脅かすことさえ許されている。


 仮にジルがタルトを嬲れば法の下に処刑されてしまうし、何らかの方法を使って殺害や暴行を上手に隠ぺいしたとしても、主人を失うことによって住処や食料なども失ってしまうことになる。


 ジルは奴隷で学も無く、文字を読むことも書くこともできないが、代わりに地頭がよかった。


 そのため、タルトに逆らうデメリットをよく理解しており、反抗しようなどとは考えず、黙々と彼女の後ろをついて歩く。


『飼い主が変わった。それだけと言えばそうだが、この女、一体何者なんだ? 普通、炭鉱上がりの使えねー奴隷を家にあげようとはしねーだろ。しかも、バカみてぇな大金まで出して。まあ、散々、俺を見下して脅してた商人がヘコヘコし出したのは面白かったけどよ。性奴隷かペット……はねえな。俺はあいにく可愛い女の子でも、変態女が愛玩したくなるような愛らしい男でもねーし。ハハ、なるなら、あの女の方だろ。逆にヤってやろうか? まあ、殺されたくねーからしねーけど。舐めやがって、クソが』


 心の中でガルガルと悪態を吐き、タルトに憎悪の視線を送った。


 人を人とも思わず酷使し、あっさりと殺してしまう屑からの購入を免れたジルだが、決してタルトに感謝などしていなかった。


 また、タルトに購入されることで安心安全な暮らしを送れるようになるとも考えていなかった。


 性別や年齢、姿に関係なく、屑は屑だ。


 悪党すら慄くような犯罪を平然と行う聖人面の屑もいれば、姿だけで逮捕不可避な不審者面をした聖人君子も存在する。


 特に前者の存在をジルはよく知っていた。


『別に道具を使えば、人間なんていくらでも痛めつけられるからな。なんなら、それ用か? そういうペットか? じゃなきゃ、この女、薬が専門の医者なんだっけ? モルモットにでもされるのか? 俺は頑丈だが、流石に中身は他の奴らと一緒だぞ。それなら屑屋敷の方がまだましだったな』


 奴隷以外には逆らわないこと。


 従順に振舞って最もダメージの少ない方法を選ぶこと。


 この二つこそが、ジルが生存する上で最重要な事柄だったのだが、経験則に従って大人しく渡された正体不明の試薬を飲んだら死んでしまうだろうか。


 薬の材料にされそうになったら流石のジルも逃げ出すかもしれない。


 まあ、奴隷の逃亡は死に直結するが。


「ジル」


「はい、何っすか? タルト様」


 冷たい響きを持ったタルトの綺麗な声に神経を逆なでされながら、ジルはニコッと笑って返事をした。


 ジルは観察が得意だ。


 炭鉱では奴隷の他に一般の労働者も働いており、他にジルの様な奴隷を管理している事業者側の人間も現場に訪れていたのだが、ジルは一般の労働者が事業者と話している時の口調を密かに聞いて、敬語を覚えていた。


 奴隷同士では敬語を使う必要もない。


 むしろ相手に舐められては終わりなので苛烈に牽制し合い、時には暴力も辞さずに争っていたのだが、自分よりも上の立場にある一般労働者や事業者が相手の場合には事情が異なってくる。


 丁寧すぎたり卑屈すぎたりする敬語を使うと相手の機嫌によってはボロボロになるまで殴られるが、多少使えるくらいであると受けが良く、一定の確立で面倒ごとを回避できる。


 あるいは面倒ごとの程度が軽くなる。


 持ち前の観察力と学習力で習得した敬語をジルは気に入っていた。


『金持ち相手に使うには品のねえ、クソみてぇな敬語だけど、使えねーよりはマシだろ。とことんまで諂ってやるよ。とりあえず様づけしときゃいいんだろ。つーか、この女、さっきから敬語だな。やけに丁寧だし、コイツを真似ときゃいいのか?』


 凛とした美しい姿勢で歩くタルトを眺め、奴隷商人や自分との会話に使っていた彼女の言葉を思い出す。


 生きることに貪欲なジルは、タルトを見て無意識のうちに学習を始めていた。


 ジトリと人の裏側まで観察しようとするかのような、疑心暗鬼に近い窺いの目に気が付いているのか、あるいはまったく気が付かず、ジルの笑顔にキュンと心臓を鳴らしているだけなのか、その点については定かではないが、タルトは無表情に口を開く。


「奴隷契約の関係でこれから役所に向かいますが、その前に貴方に服を与えます。服屋では混雑することもあり、監視の目も薄くなるかもしれませんが、決して逃亡しないように」


 ジルは思わず舌打ちをしそうになった。


 逃げようとしていたからではない。


 逃げない覚悟を持って行動し、今日まで生きてきたからだ。


『コイツ、俺のこと馬鹿だと思ってるだろ。しねーよ。こんな小汚い奴隷風情が逃げ出したとて、どこに行けるってんだよ。待っているのはえぐい折檻だけだ。毎日棒でぶん殴られようが、爆弾持たされてヤベェ仕事させられようが、悪戯にナイフぶん投げられようが、俺は一度も逃げようと思ったことは無かったよ。死ぬってわかってたからな。傷一つねぇ綺麗な顔で、偉そうに逃げるな、だなんてほざいてんじゃねーよ』


 一瞬、灰色の瞳がどんよりと曇り、ハイライトが消え失せそうになる。


 しかし、ジルは何とか取り繕って「分かりました」と微笑んだ。


 奴隷が汚れた身体のままで着るには合わぬほどの綺麗な衣服と部屋着類を数着買うとタルトはジルに荷物を持たせ、市役所に寄ってから帰宅した。


 市役所でタルトが何をしていたのか、ジルには皆目見当もついていなかったが、実はこの時、彼女は彼との奴隷契約を解除していた。


 そのことをジルが知るのは翌日の昼になる。




 ジルを連れて無事に帰宅したタルトは彼を室内に招き入れ、早速浴室の近くまで連れて行った。


 商品として市場に並べられる前に商人によって一度、川で体を洗わされており、髭や髪も短く切り揃えられていたため、体全体の汚れ具合は薄汚い程度で済んでいたが、それでも室内をうろつかせるのに適した清潔さではない。


「ジル、ここが私たちの家です。ジルには、ここで使用人として働いてもらうことになります。細かい業務内容は明日お話します。今日の所はお風呂に入って体を休めておきなさい。お風呂の使い方が分からなかったら私が、いえ、何でもありません。入浴後、部屋に案内します。よく体を洗ってくださいね。あ、変な意味ではありませんよ」


 流石に、汚い格好をしたジルに対して直ちにスケベな事をしようなどと考えているタルトではなかったが、代わりに愛しい男性を丁寧に洗ってあげて綺麗に姿を整え、


「髪がモフモフに戻りましたね。それにしても綺麗なお肌、ちょっと痩せてますが筋肉の片鱗を感じるお体、大変イケメンなご尊顔! 最高です! 最高です!」


 と、はしゃぐ楽しみはある。


 結構、世話焼きな性格をしているので、髪を洗ってあげたいとか、背中を流してあげたいと思ったのだが、そこには確実に邪な思考や感情が入り込むため、タルトはうっかり口走りそうになった「私がお風呂に入れて差し上げます」の一言を大慌てで飲み込んだ。


 ジルが初恋で、ただでさえ感情が変に爆発している上に、結構スケベなタルトはジルと共に浴室近くにいると碌なことを考えられない。


 本当に風呂を覗いたり、強制的に体を洗ったりしかねないので、赤い顔でモゴモゴと早口に話すと素早く撤退し、二階に逃げ帰った。


 不思議そうに首をひねっていたジルだが、タルトの言葉に従ってひとまず風呂に入ることにしたようで、脱衣所で雑に服を脱ぐと浴室に入り、勘で蛇口をひねってお湯を出す。


 慎重派なジルはよく分からない物には近寄らない。


 浴槽に湯を溜めて入ることは何となく想像ができたが、少なくとも今回は諦め、風呂桶に湯を溜めながら丁寧に体を洗っていった。


 いっそ、ふてぶてしいまでに適応力の高いジルは、

「奴隷風情がお風呂なんていただけません! 冷たい水で我慢します!」

 なんてことは言わないし、しない。


 主が風呂に入れ、丁寧に体を洗えと命令した以上、逆らう方が面倒なことになってしまうし、過剰な謙遜や卑屈さは相手を不快にしてしまう。


 第一、「奴隷風情が風呂なんて生意気だ!」と暴力を振るうタイプの人間は、ただのバカか、本気で奴隷にお風呂が贅沢だと思っているのではなく、殴る理由を探している者だけだ。


 どんな態度をとろうが理不尽な目に遭う時は遭ってしまう。


 ならばいっそ、許された範囲で風呂を堪能する方がマシだった。


『お湯っていいな。あったけぇ。なんで同じ水なのに川の水とじゃ、こうも差が出てくるんだ? 川は最悪だぞ。つめてぇし、場所に寄っちゃゴミが浮いてるし、生臭ぇし、前の奴が体洗った垢とか流れてくるし』


 衛生環境の悪い場所に身を投じてきたジルだ。


 仕方がないと受け入れてきたが、衛生環境の良い場所で川での身支度を思い出せばゾワッと鳥肌が立つ。


 タルトに言われずとも丁寧に体を洗いたくなった。


『湯だけ使いすぎないようにすりゃ、そんなに文句も言われねーだろ。あの女は多分、無駄な加虐性とかはあんまりねぇだろうし。ヒステリーを起こす可能性はあるだろうが、そこは様子を見ねーと分かんねーな。つーか、なんか似たようなボトル? が、めっちゃあるんだが? どれが正解だ?』


 液体せっけんそのものが初めてなジルにとって、複数並んだボトルたちは未知の存在だ。


 文字を読めればいいのだが、読めたところでシャンプー、トリートメント、ボディソープの意味を知らない彼ではどうしようもない。


 結局、困惑に困惑を重ねたジルは髪から足先までの全身をシャンプーで洗った。


 自分の垢で汚れた浴室を湯で流して申し訳程度に洗浄し、風呂を上がる。


 タルトの「自身のたるんだ体を自覚してダイエットに励む」という目的で設置された脱衣所の姿見に映る自分を見て、ジルは思わず「おお……」と感嘆の声を漏らした。


 垢で黒ずんでいた肌は白くなり、ベタベタだった髪にも清潔な艶がほんのりと戻ってきていたのだ。


 おまけに体全体からは花のような柔らかい匂いが漂っていた。


 この場にタルトがいたら土下座をして崇めるだろう姿をしており、ジルは久々に自分を見て嬉しそうに笑った。


『俺、過去一で綺麗じゃね!? 結構イケメンな気がする。なんてな、それは流石に自意識過剰か。でも気分いいわ。風呂かー、いいな。どおりで炭鉱のカス共が毎日、風呂風呂うるせーわけだ。さて、女の気分を下げねー内に、さっさと着替えて戻るか。うわっ、布って柔いんだな。良い匂いしかしない空間って落ち着かねーわ』


 水分吸収力の高い柔らかなタオルや購入してもらった新品の下着、部屋着にジルは非常にソワソワとしていた。


 清潔な衣服に身を包んだ正直な感想は喜びであり、ふんわりと心が安らいだのだが、それを認めるのは何だか癪であったし、この後に期待を裏切られたらと思うと恐ろしくて、タルトに感謝することも、待遇を素直に喜ぶこともできなかった。


 脱衣所を出て階段を上がっていると、不意に「キャッ」という女性の小さな悲鳴と物が崩れ落ちる騒音が聞こえてくる。


『なんだ!? 何事だ!?』


 慌てて音の方へと駆け付けると、そこにはドアから雪崩のように物が溢れて廊下に飛び出しているのと、その前で立ち尽くしているタルトの姿があった。


 タルト自身は特に怪我等は負っていない。

「何があったんすか?」

 ジルが問いかけると、タルトはバツが悪そうにフイッと目線を逸らした。


「いえ、ジルの部屋を用意しようかと思い、物置からベッドを取り出そうと思ったのですが、物置に物を詰め込み過ぎていたのを忘れていました。一応、ジル用の空き部屋そのものは用意できているのですが……」


 二階の廊下には三つ部屋が並んでいる。

 物が溢れているのは一番奥の部屋だ。


『片付けできるできねーの話じゃねーぞ。物置はゴミ箱じゃねえ』


 不用品が収納されているのではなく、雑多に物が詰め込まれた部屋は確かにゴミ箱と表現するのにふさわしい。


 どうすれば、このような惨状が出来上がるのか。


 逆に問いかけてみたいくらいである。


 また、仮にベッドまで到達できたとしても、彼女の細腕でジルの部屋へと運ぼうとしたのかということや、埃まみれのシーツや毛布を本気で使用できると思っていたのかなど、いくつも疑問が浮かび上がる。


『コイツ、本当に俺よりも頭いいんだよな?』


 ジルは思わず苦笑いを浮かべた。


「俺のために、あざっす。でも、俺は普段から雨晒しの所で寝てたし、床の上でも寝れるんで、ベッドは今度でいいっすよ」


「そうですか。ですが、流石に床の上で眠っていては体がカチコチになるでしょう。仮の寝床を用意します。いらっしゃい」


 物置の失態など無かったかのように冷静に振舞い、クルリと踵を返して廊下を歩く。


 ジルを連れて入ったのは廊下の一番手前側にある部屋だった。


 室内は基本的に無臭だが、ほんのりと花のような甘い香りがする。


 また、床や机、ベッドの上には衣服類や書類、文房具、書籍がパラパラと散っており、ゴチャゴチャとした雰囲気だが、一応、掃除はされているようでほこりなどは舞っておらず、不衛生ではない。


 何とも言えない残念な部屋はタルトの自室で内心、彼女は、


『うう……ちゃんと、お片付けしておけばよかったです。特にジルが寝泊まりするなら、なおさら。昔っから片付けって苦手なんですよね。ハァ……後日、ジルが使った後の毛布にくるまって間接的にジルを堪能しながら心の傷を癒すとしますか』


 と、気持ちの悪い事を考えながら落ち込んでいた。


「ジルの部屋の準備ができるまでは、ここのベッドを使ってください。一時的に貴方の部屋とします。また、今日の所は仕事もありませんから、残りの時間は自由とします。後は好きに過ごしてください。また、夕食を用意しますので、しばらくしたら台所にいらっしゃってください」


 自室を貸してしまうのだから、もちろん自分の分のベッドやプライベートな空間が少しの間、失われることになる。


 タルトの家にはリビングにソファベッドが置かれていたし、あまり自室や寝床に頓着しない性格なので、それ自体は構わないのだが、私物を持ち出しにくくなると困るので彼女は本などの必要な所有物を持って退室した。


 彼女がいなくなった後、ジルはぐるりと部屋を眺めて観察し、早速ベッドに腰かけた。


『ここは、もしかしてあの女の部屋か? いや、流石に奴隷に部屋明け渡すもの好きはいねーだろ。使ってねー書斎ってとこか? つーか、好きに過ごせが一番面倒くせーんだよ。うっかりで逆鱗に触れるなんざザラだしな。メシだけいただいて、さっさと寝るか』


 十分から二十分ほどベッドの上で待機し、ボーッとした時を過ごすと部屋を出て台所へと向かった。


 コトコトと鍋の動く音が心地良い台所では、エプロンを身に着けたタルトが料理をしていた。


 一つに括られた髪がうなじの上をチラチラと揺れており、茹った鍋の前に立っている影響か、頬がほんのりと赤く染まっている。


 うっすらと額に流れる汗が綺麗で、ジルは不覚にもタルトに目を奪われた。


 見蕩れて声すらかけられないままでいると、不意に視線に気が付いたタルトがふわりと髪を揺らしてジルの方を振り返った。


「あら、ジル。食事に来たのですか。そちらの席に座りなさい。ジルは栄養状態が悪かったようですから、今日の所は安全をとって重湯ですよ」


 促されるままに椅子に腰かけると、ジルの目の前に温かな重湯の入った器とスプーンが置かれた。


 量は少なく美味しそうな見た目もしていないがホコホコと柔らかな湯気が立っている。


 自分の食事が来た。


 そう思うとジルは、いただきます、も無いままに両手で器を掴み、ゴクゴクと中身を飲み下した。


 重湯は決して美味しい物でも、食べた実感を得られるようなものでもない。


 だがそれでも、ジルにとっては胃に入りさえすれば何でもよかった。


 水でもよかったし、食べられるのならば泥でもよかったのだ。


 ジルの奴隷時代は過酷だ。


 食事の時間には炭鉱でも、再び売りに出された奴隷商の元でも、家畜が餌を与えられるように、奴隷が混在する牢に腐敗が進みカビまみれになったパンや生ごみに近い野菜のような何かをぶち込まれるだけだった。


 食べることで健康に害がでそうな食事でも、とらなければ死んでしまう。


 生きることを諦めている者以外、その場にいる全員が必死だ。


 誰かを殴って食料を奪うことは当たり前で、ジルだって殴られたし彼も誰かを殴った。


 前日に殴って食事を奪った相手が、案の定、次の日には飢餓と衰弱と怪我が複合して死んだ。


 しかし、不思議と罪悪感はなく、弱肉強食なのだと自己暗示をかけて己の感情や悲惨な現実などを全て誤魔化した。


 とにかく生きなければ、同じ目に遭わないようにしなければと思うばかりだった。


 ジルは人間ですら食らいかねない勢いで争い続けた。


 満腹に近くても常に植えていた。


 この経験が刷り込まれたジルは、「タルトの前で卑しい行動をとることは得策でない」と理解していても、食事時には理性が吹き飛んでしまう。


 そのため、自分の分の少ない重湯を必死で飲み込むと、タルトが自分用にとよそってテーブルに運んでいた重湯まで取り上げ、飲み込んでしまった。


 ほんの少しの満腹感と少なくとも今日は生き延びられるという実感がわき、安心を覚えた時、ようやくジルは正気を取り戻してタルトの姿を確認した。


 タルトは冬眠前の野生動物が必死に食料を詰め込むかの如く重湯を飲み干すジルの姿に圧倒され、目を丸くしていた。


 食事でのマナー違反や卑しさが最も飼い主の不興を買う。


 ジルの顔からサァッと血の気が引いた。


『ヤベッ! つい、いつもの癖で女の分も食っちまった。クソ! 変に落ち着いちまったから油断したな』


 殴っていないだけ、まだマシだろうか。


 視界の端にフォークが入り込む。


 テーブルに乗せられたフォークとタルトの距離はそう遠くない。


 衝動的にヒステリーを起こした時、武器として扱える範囲内に存在していた。


『刺される!』


 タルトが姿勢を変えた瞬間、せめて眼だけは守ろうとジルは両腕で顔を覆った。


 しかし、数秒待っても痛みはやってこない。


 代わりに、


「よく食べますね。まあ、当たり前と言われれば当たり前なのですが。ですが、ジル、できるだけゆっくりと食べてください。別にお代わりもありますし、明日も、明後日も、ジルのご飯はありますから。まあ栄養の関係で、すぐには美味しいものをお渡しできないのですが……ジルは、パンとお野菜だけは食べていたんですよね?」


 と、独り言交じりに問いかけられた。


「そうっすね。腹いっぱいってほどじゃないっすけど、ほぼ毎日食ってました。一応、皆で分けろよって餌は貰ってたんで。俺は、まあ、見ての通り奴隷の中じゃガタイが良い方なんで、他に比べると、けっこう食ってたっすね」


 恐る恐る腕を下ろして頷けば、タルトはふむと頷いて食糧庫を漁り、パンといくつかの野菜をもって調理場に向かった。


 それから簡単に調理をすると、今度は野菜とふやけたパンの浮いたスープを持ってテーブルに帰って来た。


 器に入っている量は少ないが、まともな人間の料理というだけで心が惹きつけられる。


「重湯は流石に慎重になりすぎたかもしれません。貴方には苛めのように映ったかもしれませんね。申し訳ありませんでした。消化に良い野菜とパンでスープを作ってみましたから、食べてみてください。ただし、できるだけよく噛んで食べてくださいね」

 コトン、コトンと自分とジルの前に一つずつスープを置くと、タルトはのんびり対

面の席に着いた。


 咎められないどころか追加でスープを用意してもらえることが信じられなくて、目の前に自分用の食事が用意されているのにもかかわらず、ジルは茫然として動けなくなった。


 すると、置物のように停止したジルを見て、タルトが困ったように首を傾げた。


「もしかして、重湯でお腹がいっぱいになっちゃいましたか? 別にスープは明日でも食べられますし、無理に食べなくてもいいですよ?」


 重湯じゃなくてスープを先に用意してあげればよかったな、と、ちょっぴり後悔を浮かべながらジルのスープ皿を掴む。


 ジルが大慌てで首を横に振り、持って行かないでくれ! と、スープ皿に覆い被さった。


「あ、いや、違う。食うんで、大丈夫っす」


 早く食べなきゃ、という強迫観念じみた衝動は消えないが、それでも彼は出来る範囲でゆっくりと具材を噛み、スープを飲み込んだ。


 それでも早食いのジルの前からは、あっという間にスープが消え去る。


 呑気に食事をするタルトの皿にはタップリとスープが注ぎ込まれており、殴り飛ばしてでも奪いたくなったが、気持ちをグッと堪えて、


「お代わり、いいっすか?」


 と、問いかけてみた。


 そして、あっさりと頷き、空になった皿にスープを注ぐタルトの姿を目の当たりにして、ようやく強奪したい気持ちが落ち着いた。


 スープを食べ進めながらポツリと溢したタルトの、


「今まで、あまりお肉をとっていなかったことを考えると、急にたくさんお肉類を与えるわけにはいきません。体を壊しかねませんから。ゆっくり正常な食事に戻していくことになります。つまらない食事に感じるかもしれませんが、一、二週間もすればハムなどのお肉をたくさん食べさせてあげられるようになります。だから、それまでは我慢なさい」


 という言葉を聞いて、


『俺、いつかは肉を食えるようになるんだ』


 という感想が、心にふわりと浮かんで温かく留まった。


 本人は決して認めないだろうが、ジルは食事を通して少しだけタルトに心を許した。




 満腹ではないが、


「明日も食事を与えますから、今日は腹八分目になさい。胃が驚いてしまいます」


 という、冷静なタルトの言葉には何故か従えてしまって、ジルは大人しく部屋に戻り、ベッドに寝転がっていた。


『妙な女だったな。マジで、何のつもりで俺を? やっぱり、あれか? 俺が屑に買われかけたから偽善で買ったのか? ただ、その割には態度が優しくねーんだよな。ボランティア精神に溢れてんなら、そういうツラしとけよ、紛らわしい』


 ジルが今までに使用していたのは穴だらけのカビの生えたゴザのみだ。


 日によってはゴザすらないこともあり、冷たい石や土の上で寒さに歯を震わせながら眠ったことが何度もあった。


 そんな彼にとって、体を柔らかく受け止めるベッドという存在は未知そのものだ。


 膨らみのある枕など珍しさの極みで、ジルは寝転がったままモフモフと揉んで柔らかさを確かめた。


 猫を彷彿とさせる好奇心の滲んだジルの姿を見れば、脳内でタルトが、


『ジルに揉まれる枕になりたい! 揉み揉みしてください、ジル!! ああー! 毛布になってジルをモギュッと抱っこしたいです! 一緒に眠って、その後は……へへへ……』


 と、鼻息荒く気色の悪い発言を連発して転げまわることは目に見えている。


 変態なタルトはさておいて、ジルは居心地が良すぎてかえって落ち着けないベッドの上でゴロゴロと寝返りを打っていた。


 その度に、枕やシーツ、毛布からふわっと花のような香りが漂ってくる。


 ジルが先ほど使用したシャンプーと同じ匂いであり、タルトの髪から香ってきた柔らかな匂いだ。


『この匂い……やっぱり、あの女が普段使いしてるベッドだよな? なんで俺に? つーか、あの女は一体どこで寝てるんだ? 流石に奴隷にベッドを預けて自分は床でってことはねーよな』


 タルトのことを考えていると、同時に部屋着姿で食事をとっていた彼女の姿が頭をよぎる。


 ジルも清潔にさえすれば結構な美男子なのだが、タルトもかなりの美形だ。


 真っ白な肌にツヤツヤとした黒髪には、どうしても惹かれてしまうし、知的な桃色の瞳には吸い込まれそうな魅力を感じる。


 細い腰に対してモッチリと大きな太股やお尻を見れば、目線がそこで固定されて動かせなくなった。


 また、肉感的で魅力の多いタルトの容姿だが、何よりもジルの心を惹きつけるのはボインと張り出たおっぱいだ。


 おっぱいである。


 部屋着に柔らかく包み込まれた暴力的な大きさを誇る、癒しとスケベの化身、爆乳おっぱい。


 彼女の胸は女性ですらガン見してしまうほどのボリュームがある。


 タルトも大きい雄っぱいは好きだが、ジルも女性の大きなおっぱいは大好物だ。


 となれば、まあ、つい見てしまうだろう。


 しかし、ここで一つ問題が発生する。


 炭鉱でも小間使いとして女性の奴隷が使われたり、細かい作業に子供の奴隷が使われたりしていたのだが、強姦を防止するために女性と男性の奴隷はハッキリと分けて管理されていた。


 商品時代も似たようなものだ。


 そのため、ジルはこれまでの人生で女性にほとんど触れてこなかった。


 また、ジルとて一人で性欲の処理をしたことはあるが、倫理や体力温存の問題で周りのゲスな奴隷たちのように比較的、可愛らしくて軟弱な男性の奴隷を犯すということも無かったため、童貞である。


 前も後ろも童貞、しかも拗らせ童貞である。


 少し前まで明日の命さえもしれない極限の状況にいたジルは、自覚の無いうちにパンパンに性欲を溜めていた。


 それが、三大欲求の内の一つである食欲が満たされ、睡眠欲も清潔で安全な寝床を用意されることで満たされることが決定されたため、ついでとばかりに性欲までせり上がって来ていたのだ。


 今のジルにとってはタルトの存在、いや、タルトに関連するもの全てが暴力だ。


 妙にムラムラとする熱が体内で疼いていることをジルはハッキリと自覚していた。


『マジで何なんだよ、あの女! なんで、あれ、中になんも着てねーだろ! 金持ちは下着きねーってホラ話、ガチだったのかよ!? 挑発しやがって! クソが! いい加減にしねーと犯すぞ! 奴隷だからって舐めてんのか? どうして、今この家の中にいる人間で一番弱っちくて襲われかねないのが自分だって分からねーんだよ!』


 性欲の熱を怒りとして発散すれば、まだマシになるだろうか。


 イライラとするままにボスンと枕を殴る。


 すると、ズレた枕の下からタルトの下着がチラリと顔を覗かせてジルを嘲笑った。


 諸事情で、ジルは思春期の子供よりも女性に対してこじらせているのだ。


 そんな中、これはキツイ。


 そして、事情があるとはいえ、成人男性がパンツ単体に興奮してしまったというのもなんだか悲しい。


 ジルは、もう、無意味に泣いてしまいたかった。


『もう嫌だ。何でこんな、訳分かんねー、生殺しみてーな状態にならなきゃいけねーんだ。耐性ねーよ、この状況に。そろそろ本当に息子もヤベェし。でも、汚してもヤバイよな。食の違反もそうだけど、性の違反はマジで不興を買うって他の奴隷どもが口をそろえて言ってたんだよな。金持ちの上品な女ほどそうだって。出すだけでも殺されかねねーし、追い出されかねねーって、流石に厳しくねーか? 男を何だと思ってやがる。でも、ここは耐えるしか……いや、無理だろ。流石に無理だろ』


 下手に我慢し続けると変に性欲が爆発して、リビングで呑気にジルのことを考えているタルトを襲いかねない。


 タルトを犯すのが一番まずいという事はジル自身よく分かっていた。


 ヤるか、出すか。


 多少のリスクがあるとはいえ、耐えきれなかった時のリスクには代えられない。


 隠ぺい方法がある以上、出す方が何倍もマシである。


 ジルは息を殺しながら、使えそうな布を探すべくガサゴソと部屋を物色し始めた。

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