It's time you went to bed, my good boy

 テレビの音がうるさかったのです。どれだけ音量を下げようが耳をふさごうが、それは矢のように僕の鼓膜を貫いて、うるさかったのです。それならば、もっと静かな番組にしよう。例えば川のせせらぎ、例えば動物の戯れ、そんな、そんな穏やかで暖かな番組にしよう。僕の手の中に入り切れないほど大きなリモコンは、ボタンを押すことさえ一苦労。


 だけどもチャンネルは変わりませんでした。画面にぴしりと光の筋が走ることもありません。僕の苦労なんてしったものかと、相変わらずうるさい番組を垂れ場がしています。

 僕の親指は痛いくらいに「5」を連打していて、何十年何百年とそんなことをしていたものですから、指紋はすっかり消えてしまいました。僕は動転して、横でアンパンマンを見ていた弟に「どうすればいいのだろう」と問いかけました。

 弟は笑いました。

「指紋が消えたのなら、人を殺せばいい。指紋がないってことはつまり、犯人に繋がる最も重要な証拠がないってことだからねえ」


 ゴキブリの赤ちゃんのような、虫酸の走る笑い方でした。ああ、アンパンマン程度で倫理や道徳は救えないのだ。

 僕が思わず頭の上に置いていたキンチョールを手に取ると、やっと事の重大性を理解したのでしょう、弟は言いました。

「兄さんは馬鹿だね。今や解決策のほとんどはインターネットに転がっている。スマートフォンを使って検索すればいいじゃないか」


 弟に言われた通り、僕はスマートフォンの電源をつけようとしました。ホームボタンに親指を軽く載せる。いつもならこれで簡単につくはずの画面は、しかし真っ黒なままで何度試してみてもエラーを吐き出すばかり。ああそうか、僕の指紋は消えてしまったから、もう開かないのか。だけどもそんな時のために暗証番号というものが世の中にはあるのです。僕のように不幸にも個体識別の術を失ってしまった、幾千人もの悲しみが暗証番号を作り出したのでしょう。そう考えると、たった数ケタの数字なのに、僕にとっては愛おしくて愛おしくて、しかたがない。

 僕の隣の弟は、今度はポカンと口を開けて阿呆のようなうつろな表情で「1258」と繰り返しています。これが暗証番号なのでしょう


 はたして、スマートフォンは無事に開きました。僕は弟の鼻先を優しく愛撫しながら「あれは何を意味する数字だったんだい」と問いかけます。普通、暗証番号というものには起源がある。それは誰かの誕生日だったり何かの記念日だったり、たいていはやさしい気持ちになれるものなのです。弟はくふくふと嬉しそうな含み笑いを浮かべると「日付だよ」と答えました。

「12月58日。日付だってば、兄さん」

 その時の僕は、きっと地球が丸ごと1つ入るくらいには大きく目を見開いていたことでしょう。実際に木星は目玉に入り込んできて、くるりくるりと一回転。僕の頭の上では取り残されて仲間外れになってしまった輪っかがくるくると回っていました。

「日付? 何の?」

「世界が滅亡した日の、だよ、兄さん。覚えていないの?」


 「バカなんだなあ、兄さんは」と歌うように繰り返す弟は、アンパンマンのような心優しいヒーローにはなれないのでしょう。やっぱりアンパンマン程度で弟は救えない。そんなことも知らずに嬉しそうにはやし立てる弟こそ、無知蒙昧そのもので、バカ。

 

 とにもかくにも、これでうるさいテレビとはおさらばというわけです。僕ははやる気持ちを抑えながら、googleの検索画面を開きました。「テレビ うるさい リモコン 反応しない」。

 すると心優しいgoogle先生は「一度テレビのコンセントを抜きましょう」と教えてくれました。僕は良い子なので、言われた通りにコンセントを抜きます。


 プツン、という軽い音と共に、何もかもが静かになりました。先ほどまでギャーギャーうるさく叫んでは、のたうち回っていた弟もいません。全て、消えてしまいました。

 

 やれやれ、これで僕はようやく眠ることができる。僕はこれ以上ない程の幸福を感じながら、棺桶の蓋を開けました。僕の頭の上の輪っかは時折にぶく光りながら、棺桶の底をぬらぬらと照らしていたのでした。

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