第九話
藤原三兄弟(1)
その夜、安倍晴明は自宅の縁側に出て、漆黒の夜空にちりばめられた星を眺めながら、筆を執っていた。
闇の中、晴明の手元には灯りはなかった。それは手元の灯りが星を詠む妨げになると考えているためであり、星の輝きひとつ見逃すまいとする晴明の天文道に対する心構えでもあった。
この年、晴明は天文博士に任命されていた。元の天文博士である加茂憲保は、所属が陰陽寮のある中務省から民部省へと異動となり、主計寮を取り仕切る
「父上、こちらにおられたのですか」
背後に気配があり、次男の
父が夜空を見上げている時は邪魔をしてはならない。それは吉昌も重々承知していることだった。そのため、晴明から少し離れた場所に腰を下ろし、晴明の仕事が終わるのを待った。
星を眺めるのは、この親子にとっての日常であると同時に、仕事でもあった。吉昌も晴明と同じ道を歩みはじめていた。現在は陰陽寮で天文得業生として、天文道を学んでいるのだ。
しばらくして筆を置いた晴明は、振り返ると吉昌のことを見た。吉昌は、まだ十五歳。元服をしたばかりだった。顔には幼さをだいぶ残しており、晴明から見るとまだまだ子どもにしか見えなかった。
「どうかしたのか、吉昌」
「兄上が、まだ戻っておられません」
「
「はい。いつもでしたら、すでに戻っておられるはずなのですが」
「ふむ……」
安倍吉平は晴明の長男であり、吉昌より1つ年上だった。吉平も吉昌と同様に陰陽寮の
まだ帰らないといっても、普段より二刻ほど遅いだけであった。だが、妻が心配しているのだろう。それを聞いた吉昌がわざわざ言いにきたに違いなかった。
吉平と吉昌には、式人が一名ずつついていた。しかし、本人たちには言っておらず、知っているのは晴明と式人たちだけである。だからというわけではないが、晴明は少しくらい帰りが遅くても気にはしていないのだった。
ただ、道摩の動きが気になるところでもあった。以前、道摩に捕らえられた式人が晴明の家族についての情報を漏らしてしまっている。あれ以来、道摩の目立った動きはなくなったが、却ってそれが不気味に感じられていた。
「では、私が見てこよう。吉昌は待っておれ」
「私も連れて行ってはもらえませぬか」
どういう風の吹き回しだろうか。晴明はそう思ったが、たまにはいいかと思い、吉昌の同行を許可した。
月明かりがあるとはいえ、松明でも持っていなければ洛中であっても真っ暗であった。
道を歩くのは晴明と吉昌のふたりだけに思えるが、その周りには数人の式人がいる。式人たちは闇に紛れながらも晴明の警護をしているのだ。
松明の灯りを頼りに歩いていると、どこからか笛の澄んだ音色が聞こえてきた。そういえば、この辺りは笛の名手といわれる源博雅の屋敷が近いはずだ。きっとこれは博雅の龍笛であろう。博雅は中将の職を降り、いまは皇太后宮権大夫という皇后宮職の長となっており、内裏務めであることから、あまり晴明と顔を合わすことはなくなっていた。
「父上は、あの星をどう見ますか」
不意に吉昌が話しかけてきた。
吉昌の指した方へ目を向けると、そこにはひと際輝く星が存在していた。
その星の輝きは、晴明も数日前より気になっていた星でもあった。以前、晴明はあの星を藤原兼家であると見立てたことがあった。今回も同じように見るとするのであれば、なにやら不穏な空気を感じざる得なかった。
現在の朝廷は、兼家の長兄である
また次兄である兼通は讃岐守、兼美濃守といった地方長官に就き、冷や飯を食う状態が続いているが、いずれは中央の職に戻るのではないかという見方が強かった。
ただ、妙な噂も聞いたことがあった。それは帝が兼家のことを嫌っているのではないかという噂であった。なにかの折に、兼家が帝の機嫌を伺ったところ、帝は兼家のことを無視したという噂が女房たちの間で一時期話題となっていたのだ。所詮そのようなものは噂に過ぎない。その噂を耳にした時は晴明も笑って聞き流していたが、星の様子などを見ていると、噂も馬鹿にすることはできないのではないかと思わされていた。
「父上、吉昌。どうされたのですか、こんな時間に」
声が聞こえたため晴明が視線を向けると、そこには吉平の姿があった。
「兄上を迎えに来たのです」
「そうか。きょうは書を読んだりしていて、少し遅くなってしまったのだ。許せ、吉昌」
「では、共に帰りましょう」
ふたりの会話を聞いて、晴明は思考を中断させた。
吉平と吉昌は仲の良い兄弟だった。かつて、藤原兼通と兼家も仲の良い兄弟だったとは聞いているが、いまでは犬猿の仲である。藤原兄弟の仲がこじれたのは、お互いの出世に絡んだ争いからだったそうだ。いまは長兄である伊尹がいるから何とかまとまってはいるが、伊尹が没した後はどうなってしまうのだろうか。
晴明は星空を見上げながら、顎に伸びた髭を撫でた。
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