藤原三兄弟(2)

 藤原伊尹が病に倒れたのは、八月の蒸し暑い日のことだった。


「見舞いに行くから、お前も来い」


 そんな乱暴な呼び出され方をした晴明は、藤原兼家と共に牛車で伊尹の屋敷へと向かった。

 なぜ実兄の見舞いに自分を連れて行こうとするのだろうか。晴明は兼家の心の内が読めずにいた。


 実は数日前から、伊尹の星には異変が起きていることに晴明は気づいていた。正確にいえば、伊尹の星というよりも、摂政の星といった方が正しいかもしれない。ただ、確信が持てなかった。星を詠むというのは、夜空を見上げて実際の星を見るだけではなかった。その星に該当する人物を見る場合は、その人物の生年月日と筮竹の組み合わせで占ったり、実際に人相を見て、様々な事柄を結びつけて見るのだ。


 御簾の向こう側で横たわる伊尹の周りでは、香が焚かれていた。その香の炊き方は異様でもあり、何かを隠そうとしていることがすぐにわかった。


「兄上、安倍晴明を連れてまいりましたぞ」

「そうか……」


 兼家の言葉に対して、伊尹は弱々しく返事をする。

 その声を聞いた晴明は、伊尹はもう長くないと見た。これは星を詠む必要もないことだった。死期が近づいているということは、その声を聞けばわかるほどにまでなっていたのだ。

 飲水病だった。当時の上級貴族たちの多くがかかった病である。この病に罹ると、非常に喉が渇き水を求めるようになるため、その名が付けられた病だった。この病は、現代では糖尿病という名で知られている。


「晴明よ……これは、誰かの、しゅなのか」


 床に伏せたまま、伊尹は晴明に問いかけてきた。

 晴明は伊尹のことをじっと見つめながら、考える素振りを見せた。

 呪ではない。それは明言できた。しかし、伊尹が気にしているということは、何か心当たりがあるということなのだろう。そう晴明は思いながら、ゆっくりと口を開いた。


「伊尹様は、どなたからか恨みを買うような覚えがあられるのでしょうか」

「私は摂政にまで上り詰めたのだ。そんな覚えは、無くはない」


 伊尹は笑ってみせたが、その笑顔に力はなかった。


「兄上、それは誰でございましょう。この兼家がその者を捕らえてみせましょう」

「誰であるかはわからぬ。わかってしまえば、呪の意味もなくなろう」


 再び伊尹は力なく笑って見せる。

 しかし、晴明は伊尹に対する憎悪を抱いている人物のことを知っていた。


 藤原朝成あさひら。かつて伊尹の出世競争の相手だった人物である。右大臣であった藤原定方の六男であり、伊尹と同時期に蔵人頭に任じられ、そこからふたりの出世争いは始まった。参議となったのは、朝成の方が先だった。そこから従三位となるまでは順調に出世街道を歩んでいたのだが、朝成は参議以上に出世することは叶わなかった。あとから参議になった伊尹、さらには兼家にまで先を越されて中納言の座を取られ、十年以上かかって、ようやく中納言の座に就けたのだった。

 その朝成が自分の出世の妨げをしたのは伊尹である。そう朝成が恨みをつのらせているという噂が、女房たちの間には流れていた。火のないところに煙は立たないという言葉があるように、多少なりとも、朝成が伊尹の出世を好ましく思っていないことは確かなのだろう。

 そういった心の隙に、呪というものは入り込んでくるのだ。

 誰が朝成を誑かして呪を掛けさせたのかはわからないが、呪を掛けたという噂が広まれば、伊尹の病状も思わしくない方へ進んでいってしまう可能性があった。

 伊尹のことを兼家はどう考えているのだろうか。晴明には、それが気になっていた。

 晴明は朝廷の陰陽師であると同時に、兼家に肩入れをする陰陽師でもあった。兼家の家来というわけではないが、兼家のために何かをするということが多くなっていることは確かだった。


「兄上、ここは晴明に呪詛の祓えをさせた方がよろしいのではないでしょうか」

「私には、呪がかけられているのか、晴明」


 伊尹の言葉に晴明は口を噤んだままだった。

 ここで呪詛の祓えをしたところで、伊尹の命を救うことは出来ないだろう。もし、呪詛の祓えをおこなって伊尹が亡くなった場合、呪詛の祓えを行った晴明の力が及ばなかったと世間に思われる可能性も考えられた。それを考えると、いま呪詛の祓えを行うのは貧乏くじを引くようなものだと晴明は思っていたのだ。


「どうなのじゃ、晴明」


 兼家は問いただすかのように晴明に言う。

 一体、どういうつもりなのだ。晴明には兼家の考えていることがわからず、思わずじっと兼家の顔を見てしまった。


「……わしは疲れた。少し眠る」


 伊尹がそう弱々しく言ったため、兼家と晴明はその場を辞すことにした。

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