第五話

呪詛の祓え(1)

 その日は天気が良く、釣り日和だった。

 鴨川の流れが緩やかなところで釣り糸を垂らした安倍晴明は、水面をぼうっとした顔で見つめていた。


 朝廷に所属する陰陽師に休暇などはなかった。これも職務の一つなのだ。そう晴明は同僚たちに説明をしていたが、陰陽師の正装である水干を脱いで直垂ひたたれ小袴こばかまといった庶民の服装に着替え、烏帽子を編み笠に変えた姿の晴明の言葉など誰ひとり信じる者はいなかった。


 ただ、晴明には陰陽師としての様々な実績があり、公卿や上級貴族といった朝廷の人々からの信頼も厚かった。そのため、陰陽寮の中で晴明のことを大っぴらに悪く言うこともできないというのが現状であった。

 それは大っぴらにというだけであり、晴明の上司で陰陽頭を務める賀茂保憲のところには、晴明のことを悪くいった書状が毎日のように届いていた。

 保憲は書状を少しだけ読んでみて、これは晴明への悪口であると判断すると、その書状を読むことなく箱の中へとしまっていた。すべては妬みである。言葉には魂が宿ることもあり、それを言霊という。恨み、辛み、妬み。そういった人の悪い感情が込められた書は時に呪詛となりうる。だから、保憲はそういった書状を箱の中に閉じ込めることにしていた。箱の中に閉じ込められた呪詛は、世に出ることなく封印される。これを年に一度祓い、そして流すのが晴明の仕事のひとつでもあった。


「相変わらずの人気ですな、晴明殿は」


 執務室で保憲が書状を開くことなく箱の中に入れているのを見た息子の光栄が言った。賀茂光栄は、賀茂保憲の長子であり、陰陽寮に所属する陰陽師でもあった。光栄も最初の頃は、晴明のことを目の敵にしていたが、最近はどういうわけか晴明のことをとやかく言わなくなっており、どこか認めるような発言すらもするようになっていた。


「その当人の姿が見当たらぬが、どこへ行ったのだ」

「川へ行くと言われておりました」

「川だと?」

「はい。河臨祓かりんのはらえがどうとか言っておりました」

「そうか。一応、仕事であるな」


 保憲は呟くように言うと、そっとため息を吐いた。

 そんな父のため息に気づいたのか、光栄はそそくさと執務室を出ていってしまった。


「河臨祓とはよく言うわ。どうせ釣りだろう」


 保憲は独り言を呟き、笑ってみせる。


 河臨祓とは、陰陽道の呪詛祓いの方法のひとつとされているものであった。呪詛が掛けられた人物の御衣みぞや、呪詛を移し替えた身代わりの人形ひとがたなどを箱に入れ、清らかな川の水を使って呪詛を洗い流すといった儀式であった。


 その頃、晴明は河原にあった大きな石の上に寝そべり、雲ひとつ無い青空を眺めていた。もちろん、ただ寝そべっているというわけではない。頭の中では様々なことを考えているのだが、はたから見ればただ昼寝をしている男としか見えないのは確かであった。


 垂らしていた釣り糸が引いていた。そのことに気付いた晴明は慌てて起き上がると、竿を手に取る。確かな手応えがそこにはあった。ゆっくり慎重になりながら、竿を上げてみると、そこには銀色に輝く魚の姿があった。

 晴明は取った魚を魚籠に入れると、再び釣り針に蚯蚓みみずをつけて放り投げる。今夜は焼き魚で一杯やるか。そんなことを思いながら、釣り糸の様子を眺めていた。


 日が暮れる頃、奇妙な集団が対岸にいることに晴明は気がついた。

 やっとお出ましか。晴明は心のなかで呟き、被っていた編笠を目深に下ろした。


 時おり、鴨川に奇妙な集団がやってきて、何かを流したりしていることがある。そんな噂を聞きつけてきたのは、晴明の耳でもある式人だった。晴明は多くの式人を雇っており、ある者は京中で様々な噂を聞き集めてきたり、ある者は路の影に潜んで特定の人物の様子を見張ったりと、晴明の目や耳として活動させていた。


 その奇妙な集団は、全員が被り物をしていた。ある者は布作面を付け、ある者は狐の面を付けている。これを見た人々が、河原に鬼が出たなどと騒ぎ立てるのは目に見えていた。


 それにしても、奴らはなにをしているのだろうか。晴明は釣り糸を垂らしながら、じっと対岸にいる連中の行動を見つめていた。


 対岸にいる者たちは大きな葛籠つづらを運んできており、その葛籠の中から数人がかりで何かを取り出すと、布作面の人物が太刀を抜いて構えた。

 嫌な予感がした。その葛籠から取り出した物体の大きさと形に何やら見覚えがあるものを連想したためだ。

 咄嗟に晴明は河原の小石を掴み、対岸へと投げていた。

 一つ、二つと投げても届かず、川の中に石は落ちていく。それでも諦めず、晴明はいくつもの石を投げ続けた。


「あなやっ!」


 晴明の投げた石のひとつが、見事に太刀を振り上げていた布作面の人物に当たった。

 石をぶつけられた布作面の人物は、対岸にいる晴明の方を見る。


「何をするのじゃ。危ないであろう」

「そちらこそ、何をしておる」


 晴明はそう言うと釣り竿を捨てて、持っていた自分の太刀を抜いて、対岸へと向かって歩き始めた。もちろん、刀で人を斬ったことなどはなかった。それどころか、太刀を抜いたのもひさしぶりのことである。太刀は陰陽道の儀式の際に使う程度にしか触ったこともないのだ。


 しかし、水しぶきをあげながら川の浅瀬を歩いてくる晴明の鬼気迫る動きに気圧されたのか、対岸にいた怪しい人物たちは、蜘蛛の子を散らすかのように慌てて逃げていった。


「なんなんじゃ、あやつらは」


 誰もいなくなった対岸にたどり着いた晴明は太刀を鞘に収めると、濡れた小袴の裾を絞りながら呟く。

 そして、怪しい連中が忘れていった葛籠と、そこから取り出した大きな物体へと近づいていった。

 その物体は布で包まれており、晴明はゆっくりとその布を剥ぎ取った。

 布に包まれていたもの。それは童子であった。鼻と口の前に手をかざすと、かすかながらに呼吸を感じることが出来た。


「やれやれ、これはとんでもない拾い物をしてしまったぞ」


 晴明はそう呟くと、その子を抱きかかえて対岸ヘと戻った。

 おそらく、先ほど逃げた連中はどこかに隠れて、こちらの様子を見ているだろう。そして、どこへ帰っていくのかを見届けるはずだ。自分ならばそうする。晴明はそう思いながら、対岸で釣具を片付けると、羅城門の方へと歩きはじめた。

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