夕闇色の記憶 第四十七章 明日に君がいればそれで…

 4月1日が引越し当日。予定通り、実行。


 あの日以来、まゆなと連絡が取れなかった。

 まゆなに……初めてアパートの部屋を見せた、まだ3月だったあの日以来。

 想定していた事態になっているのなら、連絡くらいしてくるはずだったが、何も無かった。


 予定通りに引越しが済んでからの数日間も、動きはない。


 携帯電話も無い時代。部屋に電話を引いていない僕へは、簡単に連絡のしようがないのはわかっていた。

 しかし……もしも最悪の事態になっていたのであれば……直接部屋に来れば済むことだったが、それもない。


 しかしそれは……当然の結果であった。

 それで……良かったんだ。




 それは……引越しを間近に控えたある日、事務所へ顔を出した時のこと。

 暫く事務所に行くことを避けていた僕だったが……このまま何の挨拶もせずにいなくなるのもさすがに気が引けて……その日に伺う件を、予め樋口さんへ電話で伝えてあった。



 

 久し振りに入る事務所。


 あ……ゆなさん? しかも……一人……?


 書類の棚の、上の段へ手を延ばし、何かを探している後ろ姿……真っ赤なスーツのミニスカートから伸びる、美しく長い脚……。

 久々に見た、スレンダーなシルエットが眩しかった。




「そのスーツ、見たことない」


 びっくりした表情で振り向いたゆなさん。

 僕が入って来たことに、気付いていなかった様子。


「似合うよ。綺麗だね」


 何も答えず、そのままびっくりした表情で固まっていたゆなさんだったが……小さく溜め息。そして……


「あ……ありがとう……。久しぶりじゃない。元気そうで、良かった」

「ありがとう。ゆなさんも元気? なんで誰もいないの? 今日来るって、樋口さんには電話しといたのに……」

「うん。それは聞いていたけど、編集会議……というか、外部の機関と緊急の打ち合わせだって、バタバタと出て行ったわ」

「ゆなさんは? 参加しなくてもよかったの?」

「私は……だって、これくらいの時間にキミが来るって樋口さんから……」


 え? それって……僕が来るのを待っててくれたの?




 何れにせよ、今は二人きり……。

 久しぶりのこの状況に……今まで自分自身でも気付いていなかった何かが、湧き上がるのを感じた。

 それは……知らず知らずのうちに、自ら抑えつけ、押し殺してきた何か。


 その整理がつかないまま、もう言葉にしてしまっていた。


「部屋を! アパートを……借りたんだ。4月から、実家を出る」

「それは……いきなりね。大学は?」

「行かない。お店……常勤にしてもらったから、そのうち社員」

「ふ~ん……思い切ったことするのね。目的は?」

「えっ? それは……」


 なぜ……なぜ「まゆなが万が一の場合迎えるため」と、即答しない……?


 整理できていない上に、新しい混乱を招き入れてしまったことを後悔した。

 それでも無理矢理言葉にする、元高校生。


「僕もう、高校生じゃないよ」

「それはわかっているわ。だから……?」

「だから、もう……」


 言葉が続かない僕……当然だ。未だ自分自身の深層心理へと、辿り着いてはいなかったのだから。



 助け舟を出すような、笑顔を浮かべるゆなさん。


「それ、いいねぇ!」

「えっ?」

「部屋を借りたんでしょ?」

「あ……うん……」

「じゃあさ、二人で逃げちゃっても、住むトコあるわね!」


 二人で? 何の、誰と誰の二人の話?

 まさかゆなさん、あの時の「二人で逃げる計画」をまだ……。


 答えられない僕……何故、即座に説明できない? あの部屋は、まゆなのためにと……。



 そんな風に戸惑う僕の姿を……例の「お見通し」の表情で見つめていたゆなさんからは……


「キミは……相変わらずわかりやすいね」


 ゆなさんこそ、相変わらず余裕な……笑顔?


「あのコ、知ってるよ」

「えっ?」

「お別れした日に……私、言ったでしょ? キミの気持ちの中では、ホントは私の勝ちだって」


 あ……あの時の……。

 ゆなさんの言った「あのコ」が、まゆなのことであった点は、訊くまでもなかったが……


「知ってるって……?」


 笑顔から一転……眼鏡の奥からの鋭い眼差しで僕を捉え……


「今のその、キミの姿よ」

「今の……?」









 暫く続いた沈黙を破り……


「わからない?」

「いや……その……」





「じゃ、もっとはっきり言う! 自分の本当の気持ちとは逆の方に、どんどん流されて……」

「逆……?」





「それを、自分の意思と力で成し遂げていると思い込んでる、キミの姿よ!」


「!!」

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