夕闇色の記憶 第四十五章 伽藍洞の愛

 親御さんとなにかと衝突しがちなまゆなが、万が一家を追い出されるような事態になった場合に備え……大学へは行かずに就職し社会人となり、アパートを借りると決心をした僕。

 しかし……そんな、まゆなのためであるかのような行動の根幹にあったのは……結局は『ゆなさんへの贖罪』であったという本心に、まったく気付いていない僕だった。



 本契約のために不動産屋へ行った際に、印鑑の一つも持ち合わせず……その近所の文房具屋さんで、三文判を買って間に合わせてしまう滑稽さ。

 『社会人』が、聞いて呆れる。

 

 それでも……「まゆなを安心させたい」という気持ち……それが本当の本心だと思い込んでいた僕は、借りた部屋をまずは彼女に見せることにした。


 学校は既に春休みに入っていたある日、まゆなを誘い出した。


「ちょっと一緒に来て。見せたい物があるんだ」

「なぁに?」

「まだ内緒」


 そう……まゆなには、まだ何も……なにひとつとして、話していなかった。


 池袋駅の東口を出て、明治通りの歩道を歩く二人。

 今はもう転居してしまった、角のクロザワ楽器。歩道橋の階段のたもとにあるオケベ楽器は、今も健在。


「楽器屋さんが多いな。ギタリストには便利かもね」

「便利って……何の話? ねぇ、どこまで行くのよ?」


 まゆなの質問には答えずに笑顔だけを返し……六ツ又陸橋の交差点を渡る。


「お米屋さんにスーパーも……通り道にあるのは便利だなぁ」


 察しの良いまゆなは、それまでの台詞に拠り何かに気付いた様子。


「安いお店とは限らないわよ。それにスーパーは野菜が高いから、八百屋さんもあるといいわね」

「へぇ、そうなんだ。よく知ってるね」

「私だって、家のお買い物くらい手伝うわよ」


 実際、このあとの探索で……明治通りを更に進んだ左側に、ちゃんと八百屋さんもあった。

 そこまでは行かずに路地を曲がり、住宅街へ入る。


「もしかして……この街で、暮らすの?」


 さすがまゆな……わかってしまったらしい。


「そう。着いたよ。ここの二階」

「引越ししたなんて、聞いてないよ」

「引越しはまだ。4月の1日の予定。まゆなが最悪の事態になっても、住む所はちゃんとあるから、これで安心して!」

「れい……私の……ために……?」

「実家には……母がああだから、呼んであげられないし……」


 また笑顔だけを返し、手を握り階段を上がった。


「二階! 部屋、見てよ。まだ何も置いてないけど」


 廊下を挟んで、左右に部屋があるアパート。左に四部屋、右に三部屋。僕の部屋は、左側の一番奥の六畳間。

 鍵は、南京錠等を自前で用意するので、空き部屋は開けっ放し。

 木の枠に磨りガラスを組んだだけの古めかしい玄関の戸を、横にスライドさせ開けると……玄関の土間と兼用のスペースの端に、小さなキッチン……というより流し台。シンクの素材は、ホーローでもステンレスでもない、何かの石材でできていた。

 その横には、一口の小さなガスコンロ。部屋には当然、何も置いていない。

 本当に……小さな、汚いアパートだった。


 しかし、そのガランとした空間の風景が、まゆなの何かに火を着けてしまったのだろうか。


 どこか泣きそうな顔になっていた彼女が、やっと口を開いたと思ったら……


「ありがとう……れい……ありがとう! 私達、ここで一緒に暮らすのね!」


 え⁉ 何か話が変わってないか? それは最悪の事態になった場合ってさっき言った……


「ありがとう! 嬉しい……ありがとう!」


 そう言いながら、抱き着いて来るまゆなの勢いに圧倒され押し倒されるように……否、実際に押し倒されて畳へ……倒れ込んでしまった二人。


 しばらく抱きしめ合い、重ね合う唇……二人きりになれたのも、久しぶりだった。


 ホテルでもない……部屋のベッドでもない、初めての『空間』が醸し出す空気に……二人とも、すっかりその気になっていた。

 しかし、玄関には鍵をかけていない。


「内側の戸も……閉めようね」


 まゆなにそう言われて、足を伸ばしスライドして閉める。


 鍵がかかったわけではないのはわかっていたから、儀式に『必要な部分』だけを脱いだそれは……初めてのケース。だからこそ、なおのこと盛り上がってしまった、ティーンの二人……。


 しかし……こんな時に必要な物を財布に入れて持ち歩く習慣はなく……この日も当然、持参していなかった。

 それでも、我慢できなかった二人。


 きちんと対策を取っていた『いつも』のように……まゆなの中で、彼女と同じ痙攣を共有したかったものの……やはり安全の為に、波打ち際には外へ……但し、溢れる熱さからは決して離れずに……解き放たれた自分自身の一部は、再びまゆなへと舞い降りた。

 大量に発生した愛が染み込まないように、優しく捲り上げ作られた着弾エリアは……未だ痙攣を続ける小さな窪みを中心に……白く、美しく彩られる。


 そのまま……息を切らしていた二人だった。


 今更だが……まゆなは4月から高2になるとは言え、妙に色っぽく、大人っぽい。

 危なげな台詞も、平気で言う。


「中でも……よかったのに」

「あ……うん……ごめんね」

「ううん……こんなにたくさん……お腹いっぱい」


 嬉しそうに微笑むまゆなの……お腹いっぱいに振りまかれた愛の残骸は、丁寧に除去してあげて……そして二人が服を着けた、その直後あたりだった。


 玄関の戸を叩く音。


「おい! 誰かいるな! 何やってんだ!」


 隣の部屋のおじさんだった。


「ここは空き部屋のはずだぞ!」


 確かに……契約は4月1日からなので、まだ『自分の部屋』ではなかった。


 いずれにしても、全部……聞こえていた……?


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