夕闇色の記憶 第四十三章 依存症

 その土曜日……まだ、まゆなとベッドにいたタイミングで早めに帰宅して来た母。

 庭を飛び越えて部屋まで届くほどにけたたましい、ガレージゲートが開くスライド音のお蔭で時間を稼げた。

 急いで服を着けて、髪や服を整えてから、初めて会う母へときちんと挨拶をしたまゆな。

 しかし……普通の挨拶を交わされることも無いまま……「高校生なら、もうウチに来ないでちょうだい!」と……いきなり言われてしまった彼女。


 僕自身も……常識的な挨拶も無くそんなことを言う母にカチンと来て……その日は財布の中身も確認せずに、そのまま二人で家を出て来てしまった。


 そんな感情だったが故に、当然「送るのは駅まで」などでは無く……都立大学の駅から渋谷への東横線に乗ってしまったのが、悲劇の始まり。

 なぜなら僕は定期を持っていたので、駅では財布をのぞかない。

 更に、渋谷から新宿への切符を買う際にはまゆなが……


「一緒に買っとくから、後で清算ね」


 故に、持ち合わせがほとんど無いことに気付いたのは、新宿に着いてから。

 持ち合わせがあまり無かったのは、実はまゆなも同じだったが……それをいちいち言わなかったのは、今度はまゆなが、新宿から家へ帰る小田急線の定期を持っていたから。


 そして……まゆなは親からバイト禁止令だったが……僕はバイトをしていたので、金銭的にもそれなりに僕を信頼してくれていた件を……後から知ったところで、どうにもならない。


 ゆなさんが当たり前のように、いつもほとんどすべてを支払ってくれていた有り難さを……後追いで実感してしまう。


 そんな日に限って……もう3月だというのに、やたらと寒い日だった。夜になると、寒さは一段と厳しさを増した。


 この状況なのであれば……先ずはお互いに帰宅すれば良かったのかもしれなかったが……母から言われたひと言に、二人は深く傷付いていた。

 まゆなを受け入れない家になど、もう帰りたくない。そんな……『逃避行』に近い気持ちを、二人は共有していたに違いない。




 寒くて……本当に寒くて、西口の喫茶店へ入ってしまった。そこの支払いで、所持金はほぼゼロ近く。

 つまり……帰りの電車賃も無くなって、帰れない状態で夜中を迎える。


 それでも……


「今夜、冷え込むよ。定期あるんだから、帰りなよ」

「やだ。あんな家、帰りたくない」

「僕だって、まゆなを否定するような家、帰りたくない」

「じゃ……決まりじゃん」


 泊まる所も、帰るお金も無いまま……二人で一夜を過ごすことが、決まった。


 携帯も無い時代。新宿に都庁ができる前。マンガ喫茶も、ネットカフェも無い。仮にあったとしても、それらに入れるだけの持ち合わせがあったとしたら……電車で帰宅していたのだろうか?


 あちこち街をうろついたが、とにかく寒さに耐えられず……最終的にはバイト先のお店が入っているビルの、階段の踊り場で、寒さを凌いだ。

 バイト先とは、事務所の近くのパチンコ屋さん。凌いだと言っても所詮は階段、暖をとれる訳ではない。

 外と変わらない寒さ。風を直接受けないくらいの違いしかない。


 所持金が無い。ホテルに泊まれないどころか、電車にも乗れずにこのザマ。いったい自分は何をしているのか。しかも、まゆなまで連れて……。


 なのにまた、ゆなさんのことを思い浮かべる……。


 それは以前……仮に僕と駆け落ちしたとしても、しばらく暮らしてゆけるくらいの、何らかの資金・資産は持っている風なことを言っていたゆなさんだったが……それでも貫けなかった愛に……


「お金なんか、何の役にも立たないな……」


 と……お金に対して、否定的な印象が植え付けられてしまっていた。


 ところがその『お金』……たかだか数百円の手持ちが無いだけで、電車に乗れない、家に帰れないどころか、こんなに寒い思いをする羽目になる。

 なにより情けないのは……定期を持っていて、帰れば帰れたまゆなを同じ目に遭わせてしまったこと。

 それもまた、終電時刻が過ぎてしまっては、もう……どうにもできず、夜明けを待つしかなかった。


 残念ながら現実は厳しいもので、そこまで躰が冷え切ってしまうともう……『寄り添い、温め合う二人』……なんてロマンチックな世界などはどこにもなかった。

 しかしどうやら、まゆなの方が寒さには強いらしく……着ていたセーターを脱いで、僕に掛けてくれた。


「なんで……? 寒いだろ」

「寒くなくはないけど、セーターなくてもたいしたことない。私、寒いの結構平気なんだ!」


 しばらくお言葉に甘えてはいたが……さすがに自分が情けなくなり、セーターは返し、着てもらった。


 そして心の中では、またも……



 ゆなさん……僕、まゆなを守ってあげられないかも……どうしよう……。



 この状況で、目の前にいるのはまゆななのに……何故にゆなさんへ訴えかける気持ちが湧くのか……。

 実は、このパターンはこの時が初めてではなかった。


 意識の上では……


「ゆなさんとは、もうキッパリと別れたんだ。今、自分が付き合っているのは、まゆななんだ。今も、そしてこれからも、愛しているのはまゆなだけだ」


 と……本気でそう、思っていた……否、思おうとしていたのか……。


 一方では……毎度毎度、何かにつけてゆなさんが浮かんでしまうことにも……気付いていた。


 そう……僕は既にこの時点で……否、かなり前からだったのだろう。重篤な……


『ゆなさん依存症』


 だったんだ。

 そのことが特に浮き彫りになった夜ではあったが、僕には未だそれを……自分が『ゆなさん依存症』であるとの、自覚が無かった。




 結局、お店の開店時刻近くまで凍えていた。

 そのビルの二階から上は住居になっていて、そのうちの数部屋は、従業員寮としてお店で借りていた。


 やっと……早番で開店準備に降りて来た社員の人に事情を話し、電車賃を借り……前夜はお互いに「あんな家、帰りたくない」と言っていた、各々の家へ……その朝は、戻るしかなかった。


 日曜日なのだから、また夜まで一緒にいてもよかったのだが……二人に更なる規制がかけられるのを防ぐ為にも、一旦家に戻り、親を安心させよう……。


 そんな目論みは、ある意味手遅れだったことに……まだ気付いていない二人だった。

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