夕闇色の記憶 第三十九章 折れた翼…もとに戻せるなら

 蓋を開けてみれば、実はなんら変わりなかったお互いの想い。

 そして改めて気付かされた……ゆなさんという存在の大きさ。


 それでも、二人を元に戻そうとしなかったのは……僕の幼い規範意識?

 決めたはずの覚悟を……揺り動かすのは貴女の優しさ?


 ゆなさんの意思は、確かに僕へと伝わったものの……それを素直に受け入れることができなかった理由は……


 ゆなさんが、どれだけ僕を赦して下さっていたとしても……僕自身が……自分の犯した過ちを、赦すことができなかったから。


 ただ……そのことをゆなさんへ、どう伝えれば良いのかが判らず……否、判らないフリをしてしまった僕は……なんて卑怯者だったのだろう。

 自らの犯した罪が……次なる罪を呼び込み、更に罪を深めて行くというスパイラルの中で……ここまでの流れを……ゆなさんの、せっかくの御赦しを踏みにじるような、頓珍漢な言葉を投げかけてしまった。



「もう……最後なんだよね?」

「それは……キミ次第ね。……なんて言うのは、卑怯かしら?」


 いいえ……貴女は少しも卑怯などではありません。卑怯で、そして最低なのは……この僕の方なのですから。


 その時に、そうした自覚があったのかどうかは定かではないが……僕はその、卑怯な言葉を放ってしまった。


「状況に合わせたように都合よく、ゆなさんに戻れないのと同じ理由で……」


 ゆなさんが、切れ長の目を大きく見開いたのがわかったが、続けた。


「まゆなのことも、最終的には選ばないんじゃないかって……勝手に思ってる」


 何も答えてくれないゆなさん。

 吸い込まれてしまいそうな、瞳の奥からの真っ直ぐな哀しみが……しばらく僕を捉えていた。




「あの子に何か……約束させられたのね?」

「あ、その……約束というのかどうか……」

「いくつか言質を取られた……そんなトコかな」


 本当にゆなさんには……行動も、なにもかもがお見通し……それとも……?


「まゆなからなにか……聞いたの?」

「ううん。聞いてないけど……キミんち行きたいとかって、言ってなかった?」


 ああ、その件は……ゆなさんからもまゆなに話したからか……。


「あの子、お母さまに……どうかな……?」

「……?」


 まさかこの状況で、ゆなさんが『まゆなと母の相性を心配して』などの理由でこの発言をしたとは考えにくかった。

 しかし……この「どうかな……?」は、後に的中する。


 当然そんな先の状況にまで考えは及ぶはずもなく……


「連れて行くかどうかも……今はそこまで考えて……ない」


 と、答えただけ。


「でも……キミの考えていることは、だいたい予想つくよ」

「きっとゆなさんの予想で……当たってるよ。いつもみたいにね」

「それでいいの? 本当に……」

「いいも悪いも……今は……」

「無理に答えなくてもいいのよ……ね?」


 そんなゆなさんの優しい笑顔を無視するかのように……


「その約束を果たし終えた頃には、今よりもっと……」


 途端に視線を鋭くするゆなさん……


「いいって! だいたい予想つくって言ってるでしょ!」


 また……叱られた。


 本当は、このまま叱られ続けていたかった。


 それでも……終わらせるための『別れ話』は、いつか終わるものなのだろう。




「やっぱりこれが……最後よ」


 そう言って、かけていた眼鏡をそっと外すゆなさん。


 「最後」の意味が……それまで通りの『お誘い』の合図なのか……それとも、もうお別れだから、預けていた眼鏡を返してもらい、架け替える……という意味だったのか……。


 もしかしたらゆなさんの深意は、前者だったのかもしれない。

 もう一度抱き合えば、二人の気持ちも元に戻せるかもしれない……と……。


 でも、ゆなさん……元に戻すまでもありません。僕のゆなさんへの気持ちは……一貫して変わっていないのだから。

 それは……貴女もよくご存知なはず。


 僕の方から前者を選べるはずもなく……預かっていた眼鏡の入ったケースを、テーブルへ置いた。

 ケースを見つめて数秒間、その瞳がこちらへ向かう。


 少し睨むような視線の奥に揺らめくのは……悲しみ? 怒り? 憎しみ?

 否……最後にはあくまでも優しい瞳が、僕の心を揺さぶった。


 すぐには架け替えずに、ケースに手を置くゆなさんから伝わる哀しみに、胸が痛んだ。

 だがしかし、僕から伝えたのは……


「自己チューになれって……言ったよね?」

「ええ……」

「このあと事務所へ……一緒には戻れないから……」


 二人に何かが許されたわけではまったくなく……こうして一緒に二人きりでいるところを、誰かに見られるわけにもいかない。アールグレイを一緒に出ることすらできない。


「だからゆなさん……先に行ってて」

「キミが先に出なよ。ここ、払っておくからさ」


 ゆなさん……お願いだから、僕の気持ちをわかって下さい……いつもみたいに……。


「これで最後……なんでしょ?」

「え? さ……さぁ……?」

「さっき、やっぱり最後だって言われた」

「あ……それはね……」

「フラれたのはゆなさんだって……言った」

「そ……そうね。言ったわ」



 やめろ……やめるんだ!

 ゆなさんを……そんな風にゆなさんを問い詰めて、どうしようというんだ!



 それでも……次に伝えた言葉に、偽りは一つもなかった。


「だったらこれ以上、できない。ゆなさんを置いて立ち去るなんて……僕にはできない!」

「れいくん……」


 どうにもならない哀しみが込み上げ、伝票を握りしめて、言ってしまった。


「行ってよ……早く……」

「バカ! 私だって……」


 ゆなさんが一瞬だけ、激情が込み上げた時の面持ちになったのがわかった。

 その続きは言わずそのまま、吸った息をとめ……一旦、目を閉じるゆなさん。

 そして吐息で開いたような瞳から放たれたそれは……18歳の少年を、再度深い後悔の念に突き落とすには充分な……憂いに満ちていた。


 見つめ合うまま……握った僕の指を、一本ずつ開き……伝票はゆなさんの手へ……。

 一旦ケースへと視線を落としたゆなさんは……中の眼鏡へとかけ替え、再度僕へと視線を向ける。


 そのままゆっくりと立ち上がり……踵を返すその瞬間まで、目を逸らさずに……。


 そして……背を向けて……歩き出したゆなさん。





 ゆなさんが……ゆなさんが、行ってしまう……去ってしまう……。

 絶望の底から救ってくれたゆなさんが……行って……しまう……。


 深い藍色に染まった千鳥が淵の底に沈んだまま数ヶ月……虚無と絶望に支配され……誰かを愛することも忘れていた僕の……そんな頑なな心を開いてくれたゆなさん。


 夕闇に暮れ行くビル街の向こう……西の空の奥深く潜む希望のように輝いていたゆなさん。

 煌めく白色星雲へと僕の手を引き、ベッドでの大人のマナーを教えてくれたゆなさん。

 否、ベッドのみならず……大人を振りかざすこと無く、押し付けること無く……大人の恋を教えてくれた……一緒に歩んでくれた……愛を……育んでくれた……。



 そんなゆなさんと……これで……







 終わったんだ……。


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