夕闇色の記憶 第三十五章 愛に似た何か
事務所からの帰りがたまたま一緒になったまゆなは……降りのエレベーターの中で僕にキスを迫り……結果的に僕は、狩られてしまった。
しかしそれは……ゆなさんと僕が『完全に別れた』とのまゆなの認識が、前提のはずだった。
その真相は、のちに明かされることとなる。
エレベーターから降り、マンションの玄関の外へ出た二人。
口説くつもりなど端からない。しかし、拒否するつもりもない。
ゆなさんの為に、この状況を利用できるか否か……それだけが判断基準なんだ。
そう、自分に言い聞かせた。
ゆなさんの……為に?
その時は本気でそう思っていた。いや、思い込んでいたんだ。
あとから思えば、自己中心的な、子供じみた……単なる逃避だったのだろう。
この一ヶ月以上……ゆなさんと、顔は合わせても、言葉も交わせない。事務所に行って、会っても……その瞳は哀しく逸らされ、触れ合うことすらできない……そんな日々が続いていた。
その辛さにもう……耐えられなかったんだ。そんな自分自身の弱さが……きっと、最も根底にあったはずだ。
その辛さがピークに達していたであろう時期、帰りのエレベーター内で迫って来たまゆな。
ゆなさんとの別れを決定着けることができる、そんな目の前の状況に……甘えていた。それは即ち、目の前のまゆなにも……甘えていたのと同じこと。
まゆなが僕に好意を……否、そんなレベルではなく……強引にキスをしてくるほどの想いがある。そんな、彼女の気持ちに付け込んだ、最低の行動だった。
それでもその時は、ゆなさんの……将来の安泰のための精一杯の判断だと思い込み……一度狂い始めた歯車はもう……止まらなかった。
しかし、まゆなちゃん……16歳。
扱い慣れていないと言おうか……年下は初めてだったから、だから……?
だからわからない……などと言うのも情けないが……だからこそ、真っ直ぐぶつかろうとした僕よりも、2つ年下の彼女の方が……ある意味、オトナだったのかもしれない。
キスをしたからと言って、即恋人になるわけではない。そんな気持ちがあるからこそ、キスもすれば、それ以上の行為もする。
その『以上』へとコトを運んで行ってしまう彼女の方が……一枚も二枚も上手だったんだ。
「キスと宣言以外に……必要なコトが……」
「……?」
「あるって言うなら……知っているなら……教えてよ!」
「……!!」
しばらくゆなさんを『見上げて』生活していたからか……こんな風に『上目づかい』で見つめて来るまゆなの視線に『何か』を感じた。
教えてもらってばかりだった僕に……「教えてよ」……? 『利用する』とは無関係の『なにか』を感じてしまった……?
おそらくここで、僕は落ちたのだろう。自分が利用しているつもりが、既に彼女の術中。
そこから先は……言葉にはしなくても、二人とも、もうわかっていた。
事務所の入っているマンションから出て、帰るなら……まゆなは右、僕は左。
しかし、二人は揃って……遠い方の新宿駅へ向かい歩き出した。
帰宅するのとは反対の方向へ、何も言わずに一緒に来た僕に……彼女もどこか、嬉しそうだった。
ただ、道すがら何を話したのかを覚えていない。
話だけではない。新宿駅に着き、また反対方向の渋谷への電車に乗り、そして渋谷駅から円山町のホテルへ入ったのは間違いなかったが……途中の道程の記憶がはっきりしない。
はっきりしているのは、チェックインしてからの……部屋の有線から珍しく流れていた、第一期ヴァイオレット・ムーンの……“エレーニャ”……。
そしてその夜……“エレーニャ”の哀愁的旋律に酔わされたが如く……二人は……まゆなと僕は、結ばれてしまったこと。
そう……これでもう、僕は……ゆなさんの許へ戻る資格を……失ってしまったんだ。
もう二度と、ゆなさんの隣には……戻れないんだ。
この事実を、ゆなさんは……まだ知らない。
朝……モーニングコール? 受話器を取るが、まゆなが……いない……?
受け付けの女性の声が電話越しに……
「女の子、帰っちゃったわよ!」
え……? 帰った……?
「はい、すみません。もう出ます」
と、受話器を置いた。
軽くため息をつきながら、ベッドへと目を落とし発見したのは……
シーツに残された、まゆなの痕跡。
否……自己申告があったにも関わらず、躊躇なく奪ってしまった……
傷痕。
そう……僕を『落とす』までは、一枚上手のはずだった彼女は……
バージンだったんだ。
複雑な気持ちが込み上げる。
ゆなさんとの別れを決定づける為に……まゆなからすれば『他の女』の事由で……僕如きに、処女を捧げさせてしまったんだ。
『他の女』……?
違う。ゆなさんには何の責任もない。
僕が勝手に、尤もらしい理由を付けて……辛さに耐え兼ねて、逃避しただけじゃないか。
一生に一度しかない、初めての大切な儀式を……こんな……こんな最低の男なんかに……『そんなこと』を理由に……
奪って……しまったんだ。
それでも、その夜以来二人は……
『愛に似た何か』を、共有し始めたのだった。
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