夕闇色の記憶 第三十二章 逃亡資金の謎

 このまま……逃げちゃおうかって……?




 僕が驚く反応はわかっていたかのように覗き込み……寧ろ、どんな答が返って来るかが楽しみなような……そんな静かな笑顔を浮かべるゆなさんだった。


 しかし……半分冗談とも本気とも思える無茶を言うゆなさんに、男として少しでも、彼女の為になるようなことを言いたくなった生意気な僕だった。


「今、手元にあるお金なんて……たかが知れてるんでしょ? きっとすぐに無くなっちゃう」


 ところがゆなさん……


「そうかしら? 今、手元には無い……資金の話なんだけどな」


 多分……『銀行などの口座にまとまった金額の預金がある』という意味だろう……と、その時は勝手に解釈した。

 そして……『その資金に頼った逃亡生活』という選択肢が今、目の前に置かれていることは、理解できていたつもりだった。

 返答次第で、その道を選べるということも。

 しかしそれらに、どこかリアリティが持てず、何も言えずにいると……


「大学院……父も、いきなり退学にしたりはしないはず。せいぜい、休学届け止まりよ」


 どこからどこまで本気なんだろう?


「まずは私たちの心意気を示して、後は……向こうの出方を見る。そんなトコかな」


 つまり、後先考えない『駆け落ち』ではなく……こちらから討って出る『駆け引き』か。

 ただ、それまでは……隠れて暮らすという点は変わらないのだろうが……。


「組織にも、ちょっと迷惑かけるけど……そんなに極端な圧力は逆に……かけられないはずよ、父でも」



 次々と説明してゆくゆなさんに、思い切って訊いてみた。


「今、手元には無い……その資金って、どれくらい?」

「内緒。聞いたらびっくりしちゃうから。それに……」

「それに……?」

「そんなことないとは思うけど……キミが、その金額を聞いて決心したと……思いたくないから」


 その気持ちはわかるけど……生活資金がいくらなのかって、結構大事だろ……とも思ったが……僕がそれを知ったところで、たいした役には立たない。

 決めるのはいつも、ゆなさんだから。


 そんな現実的なところまで、考えを巡らしている反面……やはり、あまりにも突拍子もない話に、リアリティが持てなかった。


 そして……応えて……あげられなかった。


 そのまま、しばらく俯いていると……








「うそだよ」

「えっ⁉」

「う・そ!」

「預金があるって話が?」

「その資金が銀行預金だなんて……私、言ったかしら?」

「え……じゃあ、どんな……?」

「世の中にはね……キミが思っているような『実体経済』以外に……『金融経済』という世界もあるの」

「金融……経済って?」

「ごめんね。全部説明している時間もないし、もし説明しても、れいくん多分……パンクしちゃうから、終わり!」


 逃亡資金については、それ以上答えないつもりか?


「とにかくさぁ……高校だって、もうすぐ卒業なんだから……キミをそんなことに巻き込んじゃうわけに、いかないでしょ?」


 それまでの、何かに期待しているかのような笑顔が……何かを諦めたかのような、痛々しい笑顔へと変わっていた。


「私なんかに惑わされてないで、ちゃんと卒業しなさいよ!」

「あ……はい……」


 その時、力なく返事だけをした、僕にでもわかったんだ。


 返答次第では、一緒に逃げる計画が、決して嘘や冗談ではなかったことと、もう一つは……いつもはゆなさんが仕切る決定権を、僕に委ねたのだということが。

 そして、それに……応えてあげられなかったということにも。

 自分自身の無力さを責めるなと、何度も叱られてきたが……これが、無力さを実感せずにいられるものか。


「ゆなさん……」

「もういいから、気にしないで。忘れてね。それよりさ、明日まで……」

「うん……」

「眼鏡、預かってもらえる?」

「え? 眼鏡……なんで?」

「いいから! 預かってもらえるの、もらえないの?」

「あ……いいけど……」

「良かった。じゃ……あ、外すけど、今夜はもう帰るんだからね」

「うん……わかってる」


 ゆなさんが眼鏡を外すのは、二人だけの秘密の合図だったが……実はわかって……いなかった。

 ゆなさんが眼鏡を預けた意味が、この時点では……まったくわかっていなかったんだ。


 外した眼鏡を入れたケースを渡される。


「はい。今夜一晩、キミの部屋にお泊りだね」

「うん」


 そんな言葉を交わしつつ、お別れのキス。


 『お別れのキス』が出来たのは、人気が疎らな代々木公園だったから。


 そしてこのキスが……二人の最後の……最後のキスになるだなんて……この時は、想像もしていなかったんだ。



 それから……実際に『お別れ』したのは、原宿の駅。


「じゃあね!」

「うん……また明日」




 ゆなさんが眼鏡を預けた深い意味は、知る由もなかったが……自分の部屋に、ゆなさんがお泊りしているような……そんな、少し幸せな錯覚の中……その夜は眠りについた。

 翌日に待ち受けている更なる試練についてもまた……知る由もなく。


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