夕闇色の記憶 第三十章 激情の湧現
ゆなさんのお父さん、仙波氏からの通告に拠り……ゆなさんと僕の間には『何もなかった』……尚且つ『今後も何もない』ことにしなければならなくなった二人。
僕がその通告を樋口さんを通して伝えられた直後、事務所へ現れたゆなさんは……『名前も知らない』僕を『荷物持ちに借りて行く』との機転を効かし、事務所を二人で脱出した。
しかし、その時の勝ち誇ったような笑みは……駅へ着いた時には、悲哀に満ちたものに変わっていたことを、僕は見逃さなかった。
土曜日の渋谷……円山町の、年末近くのあの夜と同じホテルへ逃げ込んだ二人。
「さっきのゆなさん、カッコよかったぁ……惚れ直したよ!」
「ありがと……でも、そんなコト言ってる場合じゃないのよ」
「だって……脱出できたじゃん」
「あれはね……樋口さんの立場を守りつつ、キミと二人であの場を脱出する為の方便よ」
「これからも、その手で行くの?」
「同じ状況なら、ああするしかないけど……」
ゆなさん……いまひとつ心配そう……。
「その作戦、何か問題?」
あ……いつもの、叱られる時の目つき……。
「問題? おおありよ! れいくん、わからないの?」
「なんで……?」
「今後も事務所では……みんなの前では、もう別れたように振る舞わなきゃならないのよ!」
そうだった。しかも樋口さんの話に拠ると……
「もう別れたというより、始めから付き合ってもいない風に装えって樋口さんが……」
「思い出した? 脱出できただけじゃ、作戦は完遂されないの、わかるでしょ?」
「じゃあ、作戦には続きがあるの?」
「そうねぇ……」
「なら……どうするの?」
「秘書の松澤さん、やり手だし……きっと月曜日以降も何回も調べに来るはずよ」
ゆなさんの読みはこうだった。
まずは月曜日、初めて松澤さんが来て確認。彼が来ている時だけ二人は他人のフリをしていればよいわけではなく、その後も抜き打ち的に何回か来て、他のメンバーにも訊いて回るはず。
だから、機関の全員に……特に二人の関係を知っているメンバーには、二人がもう別れたと本気で思わせなければ……誰かから情報が漏れてしまうから。
ならば、当分は事務所へは行かず、二人は外で逢えば……?
それも頻繁になれば、すぐにバレる。出席すべき編集会議などで、普段いるはずの仙波女史の不在が突然多くなれば……その件もしっかり報告されてしまうだろう。
ましてや、僕が来たらほぼ必ず二人で消えるなんて、これまで通りはとんでもない。
万事休す……なのだろうか。
「今日ってここに泊まるんだよね?」
「そうよ。嬉しいでしょ?」
「うん。でも、今夜も部屋へ帰らなかったら、またそのことは妹さんからご両親へ……」
「確かにそうでしょうけど、もう、たいしたことじゃないわ」
「どうして?」
「暮れのあの件の時点で、私たちの関係はもうバレていたのよ。それを今になって……」
ゆなさんの悔しそうな表情が痛々しい。
「面と向かって別れろって言って来るでもなく、組織を盾にして……遣いに出される松澤さんだって、秘書の仕事じゃないと思っているはずだわ!」
普段は冷静で楽観的なのに……こんなに感情的なゆなさん、初めてかもしれない。
「私には遠回しに、大学院を辞めるようなことになってもいいのかって言ったくせに!」
お父さんからは……もう、そう言われていたのか……。
「別れろ、じゃなくて、始めから付き合っていないですって? やり方が汚い!」
一旦、事態がはっきりすると、激情が表に出て来る。相当、頭に来ているようだ。
「だったらこっちだって、月曜日までは好きにさせてもらうわ!」
もう感情を隠し切れないどころか……元ヤンな一面が、無意識に湧現している様子だった。
それにしても……作戦なんて、もう無いのかもしれない……とも思えた。
月曜日までは……か。それ以降は、どう考えているんだろう?
「月曜……それから先は、どうなるの?」
「わからない……少なくとも、これまで通りではいられないのは確かね」
「作戦……本当は、無いんだね」
と……思わず言ってしまったその言葉を、僕は後悔した。何故なら……
「私はそんなに……完璧じゃない。ごめんね……」
自分自身の無力さを責めるのはやめろと、これまでもゆなさんには散々叱られてきたから、その時は割と客観的に考えていたが……ゆなさんが……そのゆなさんが……僕の目の前で泣いている。
その時に過ぎったのは、前年の5月……「キミの今後の為に」と、めぐみさんから最後の一夜の……しかも本当に最後の辺りで言われた言葉……
「年上だからって、そんなに……あんまり期待しちゃダメよ」
あれは……こうした状況のことを言っていたのだと、今更ながらに実感した。
その実感の通り……
『泣きたい時は泣けばいい。これからは私も、クールな女ぶらずにそうする』
そんな、ゆなさんのあの日の言葉が今、目の前でその通りになっていた。
初めて目の当たりにした、ゆなさんの泣いている姿。
いつもは甘えてばかりの僕だったが、その時は……
「ゆなさん……謝らないで。ゆなさんは少しも悪くない……」
そう言って、そっと抱きしめた。
その夜の二人は……激情を更に隠さなくなったゆなさんと……どこか自覚もないまま、またも悲壮な覚悟を決めていたであろう僕……。
白色星雲に君臨する女王は更に激しさを増し……谷底の泉水から湧き出でる水は、更に大きな湖を作り出す。
それは愛の行為であると同時に……何かに挑み、戦うかのような二人だった。
その二人の心境通り……ゆなさんの『読み』もまた、悲しくもほとんどがその通りになってしまうどころか……その鋭い『読み』さえも、まだ甘かったことを痛感するほどの現実が控えていた。
そんな週明けまでの現実逃避をするかのように……今度こそゆなさんと二人きりで過ごす、最後の夜になるとも知らずに……儚い愛を……暖め合う二人だった。
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