夕闇色の記憶 第二十九章 第二次逃避行

 二人がお互いに見え隠れさせていた予期不安が……ついに具体的な通告として、樋口さんを通して、僕に伝えられた。


 その直後、事務所に現れたゆなさんの表情は……限りない悲しみに満たされていた。







「聞いた……よね?」

「うん……」

「私たち、何も無かった……らしいわね」

「そうみたい……だね」


「それでいいんでしょ? 樋口さん!」

「あ……ああ……」


 仙波氏からの通告を僕へ伝える窓口にされてしまった樋口さんは、二人に対して本当に済まなさそうに……


「とにかく……二人の仲を知ってるメンバーには……とは言っても、ほとんどみんなだけど……二人はもう別れたと周知しておくから。遣いの方が来た時に、余計なことを言わない為にもね」

「月曜まで……松澤さんが来る日までは、自由にさせてもらえるのかしら?」


 松澤さん……お父さんの秘書の名前か?

 樋口さんも困り顔……返答できない様子だ。


「それは……俺の口から許可できる内容じゃないのは、仙波女史もわかっているだろう?」

「そうでした。わかってたわ。困らせて、ごめんなさいね」


 ゆなさんは、そう樋口さんに謝ると……キッと鋭くこちらを向いた。

 そしてニヤリと笑みを浮かべ……




「キミ……なんて名前だっけ?」




 そのひとことで、ゆなさんの作戦のすべてが理解できてしまった。


「貴女こそ……どちら様でしたっけ?」

「知らない方がいいわよ……私のことなんて」

「それは残念。是非ともお近づきになりたかったです」

「じゃあね……事務所で使う備品で足りない物があるの。お買い物、手伝ってくれると助かるんだけどな」

「はい! お供します!」


 勝ち誇ったような笑みでそのまま何も言わずに、先に外へ出ていろと、あごで指示するゆなさん。


 カッコいい……それでこそ僕のゆなさん。


「お……おい! お前ら! なに企んで……?」

「樋口さん!」


 狼狽えるような樋口さんの声を掻き消すように……


「この子、荷物持ちに借りるわよ。どこの子だか知らないけどね!」


 樋口さんはもう、何も言えない。




 エレベーターを降りて歩道に出る。右に行けば新宿……だが、その日は、いつものビル街へは向かわなかった。勿論、備品の買い物など最初から方便……左の、近い方の駅へ。


 二人共、いつもより足早で……まるで、何かに追われているかのように、何かから逃れるかのように……そして、何かから隠れるように駅に滑り込み……切符売場の前で一度視線を合わせ、見つめ合った。

 ほんの数分前の、事務所での勝ち誇ったような笑みは……悲哀に満ちた視線へと戻っていた。

 お互いに小さく頷き、何も言わなかったが……買った切符は渋谷まで。



 ついに、月曜日まで……あさってまでという『期限』が切られてしまった土曜日。

 本当は『期限』などではなく、仙波氏の秘書の松澤さんが儀式的に……その時点では『儀式的に』などと甘く見ていたが……確認しに来るのがたまたま月曜日なだけで……樋口さんから通達内容を聞いてしまった時点で既に、二人にとっては最後通告のようなものだった。


 せめてそれまで……でさえも、堂々と恋人同士ではいられないような状況から逃れ、ぎりぎりまで二人きりでいられる場所と言えば……もう……決まっていた。




 渋谷駅へ到着。


「この前と……同じトコでいい?」

「同じって……あの、丸いベッドの?」

「そう。あのお部屋、結構居心地よかったでしょ?」

「それは……ゆなさんと一緒だったからね」


 本当にゆなさんと一緒なら、どこでもよかったが……あの部屋なら、確かに僕も気に入っていた。


「今まで入ったお部屋の中で、一番良かったんだもん」


 どうしても同意を求めたい時の、縋るようなゆなさんの瞳はいつも、まるで少女のよう……とても……とても可愛い。


「うん。僕もあの部屋好きだよ」


 僕の同意をかみしめるように微笑むゆなさん。

 そして、実際には誰も追って来てはおらず、急ぐ理由もないのだが……可愛い微笑みを再度、鋭く逃亡モードへ戻す。


「急ご……」


 できればホテルへ入る前に、チャーリントンカフェでワインでも飲んで食事をしてから……あの夜のように……。

 僕もバイトはしていたし、ゆなさんも、なぜかお金は持っている人だったから……どこかで食事くらいはできたのだが……その時の二人は揃って、若干被害妄想的な心理を抱いてしまっていた。


 渋谷の街へ逃れてきても、常に誰かに見張られているのではないか……監視の目が光っているのではないかと、警戒心を尖らせてしまい……それこそ逃げ込むように、ホテルへと入った。

 こんな時に『必要以外のお金の余裕』なんて、なんの役にも立たないことを実感しながら。


 確かに……『監視・逃亡』のくだりは被害妄想的ではあったが……このあとの展開は、決して生易しいものではなかったことを……その夜はまだ、夕闇が隠してくれていた。



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