夕闇色の記憶 第二十八章 恋愛スタンダード

 年が明けて、1986年。


 『年末年始』……特に『年始』というものに、少しトラウマは残るものの、前年のような悪夢は起こるべくもなく、また普通にゆなさんとは逢えた。


 しかし、待ち受けるのは『別の』悪夢か……。


 因みに、今までも色んな呼び方で登場している『機関・組織・事務所』とは、決して怪しげな団体ではない。

 序章でお断りして以来だが『言論団体以上政治団体未満の出版機関』といったところだろうか。


 現在のように携帯電話もメールも無い時代……事務所は僕のバイト先の目と鼻の先であり、事務所へ行けばゆなさんは大概いるので、普段あまり頻繁には電話で連絡を取り合ったりしなかった。

 しかし、あとから思えば……『事務所に行けば会える』をあてにせず、それまで以上にもっと連絡を密にしておくべきだったのか……。




 出版部門の責任者、樋口さんから呼び出し。

 まだ新学期が始まっていない冬休み中……三が日が明けて直ぐの土曜日だった。

 その日……ゆなさんはまだ来ておらず、僕一人で面談。




「仙波女史の……ことなんだけど……」


 そう言って話し出す樋口さん。

 仙波女史……ゆなさんと同世代や機関の上層部から、彼女はそう呼ばれていた。


「ゆなさんが、どうかしたんですか?」

「いや……俺の口からは言いにくいんだけどね……」


 何となく……嫌な予感は的中するものだ。


「お父さん……ですか?」


 その通り……という面持ちで視線を下に落とし、頷く樋口さん。

 それ以上を詳しく聞くのが怖かった僕も、一緒に沈黙してしまった。


 それでも役割、とばかりに樋口さんは話し出す。


「知ってたのか……。仙波女史から、何か聞いたのか?」

「いえ、まだ何も。ただ……いつか何らかの沙汰はあるかと……」

「沙汰って……やっぱりお前ら、なんかあったんだな」

「なんかって……今更……」

「そうだな……すまん。今更だ。二人が深い仲なのは、みんな知ってるからな。細かい詮索をしても、仕方ない」

「その深い仲ってことを、妹さんに知られたんですよ」

「妹ってあの……監視役とか言ってた……いつ頃?」

「去年の暮れ近く……ちょうど先週の土曜です」

「そうか……」


 沈黙が、ため息だけを残して通り過ぎて行く……。


「仙波女史のお父さんが、機関に少なからず影響力を持つ立場なのは……お前も知ってるよな」

「はい……」


 確かに……娘さんであるゆなさんを、出版部門の編集委員等の役職で組織に配属させるような……詳しくは控えるが、そんな立場なのは、僕も承知の上だった。


「お父さんが……仙波さんがおっしゃるにはな……」


 本当に言いにくそうな……樋口さんが二人の味方であることはわかっていたから、逆に申し訳ない。


「娘が、高校生のような『子供』と男女の関係になることなど許した覚えは無いと……」

「すいませんね、子供で」

「いや、俺が言ったんじゃないよ」

「わかってます」


 樋口さんを責める意図など1ミリも無かったが、つい言ってしまった。


「でな……だからといって、それを解消せねば組織に対してどうこうするということを明言してしまうと、法律的に今度は仙波さん側に『脅迫罪』の容疑が成立してしまう可能性がある……という話なんだよ」

「僕にどうしろと……?」


 一旦、間を置く樋口さん。




「俺らのほとんどは二人の味方だよ。応援してるさ」

「ありがとうございます」

「お前と恋仲になったお蔭さまでと言うか、仙波女史は以前と比べると、その……壁みたいなのが無くなって、みんなにも優しくなったんだからさ」

「それは……お役に立てて良かったです」

「でも、機関の存続も……これまた大事なコトなのは、わかるよな」

「はい」


 今度はため息が……沈黙を連れて来たようだった。


 その沈黙を破り、続ける樋口さん。


「だが仙波氏は……『別れろ』……とも言わないそうだ」

「?……どういう……ことですか?」

「二人がそもそも付き合っていないのであれば、別れる必要も当然無い……いや、別れるも別れないも無いと」


 すぐには……わからなかった。

 お父さんの……仙波氏の本意が、その時すぐには理解できなかった。


「つまりこういうことなんだよ。あさっての月曜日に遣いの者を遣すから、その人に、今の機関内の状況を知らせよと。その時に……二人は最初から付き合ってもいないし、これからも男女として付き合うことは無い……のかどうかをきちんと報告せよと」


 そういう……ことか……。

 遣いの者……お父さんに秘書らしきお付きがいることはゆなさんから聞いてはいたが、その人が来るんだな、きっと。


「その報告が、仙波さんの納得できる内容であれば、特にどうという動きは取らないそうだ」

「そう……ですか……」


 自らは手を汚さず『何もなかった』という既成事実だけをでっち上げる……ずるい、オトナのやり方だと思った。

 しかも、ゆなさん自身が関わっている、機関の存続を盾にとって……。

 更に、もしも極端な話、駆け落ちでもするとなれば……『高校生』や『大学院生』という立場も含めて自分達のすべてを捨てるのみならず、機関までをも巻き込む結果になるから、それは絶対にできない。

『すべてを捨てる』選択肢を事前に封印したというわけか。頭いいな……さすがゆなさんのお父さん。


 そんな感心、している場合ではなかったが……前以て手を回すオトナには、やはり敵わないものなのか。

 前年の春、都子と最後に別れた……別れさせられた、日吉の駅前の光景が心を過ぎった。

 桜吹雪の中、走り去って行く車……。


 また……引き裂かれてしまうのか……。


 この頃既に、僕の『恋愛スタンダード』のようなスタンスは確立されていたのかもしれない。

 即ち……大切な人は、いつかいなくなってしまうか……順調に進んでいるように思えたとしても、抗い切れない力によって引き裂かれてしまうか……たとえ再会できたとしても、ハッピーエンドはあり得ない。

 にも拘らず、次の相手が現れれば、懲りもせずちゃんと本気になり……その繰り返し? どうせそんなものなんだ……と。


 但し、考えてみれば……そのようにニヒルになるのは勝手だが、そんな悲観的恋愛観で付き合うなんて、ゆなさんには失礼だったのかもしれない。

 それでも……ゆなさんを本気で、好きで好きで堪らないのは本当だし、ゆなさんと出逢ったことで、自分の中のそんな虚無感は溶けていったのも本当だった。

 夕闇色の空のすべてを味方につけ美しく煌めくような、ゆなさんを本気で愛していたんだ。




 樋口さんとの話がおおかた終ったのを見計らったかのようなタイミングで、ゆなさんが事務所へ入って来た。


 前回会った時とは比較にならないくらいの……哀しみを湛えた表情で……。

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