夕闇色の記憶 第二十一章 マナー教育

 初めてのお泊り……夜は、まだ長い。

 本当に永遠に、この夜が続いてくれたなら……。


「夜一緒……初めてね」

「二人きりのはね……」

「眠っちゃだめよ」

「うん……もったいないもん」


「終わってすぐ寝ちゃう男って、最低……」

「大丈夫。ちゃんと起きてるから」

「よかった……」


 ベッドでのマナーは、ほとんどゆなさんから教わったようなものだった。


「今までの彼氏って、すぐに寝ちゃう男だったの?」

「内緒」

「人の過去は根掘り葉掘り聞いたくせに」

「キミが勝手に喋ったんじゃない」

「ゆなさんの尋問が巧かったからですー」

「尋問て……してないでしょ、人聞きの悪い!」

「人聞きって……二人きりで、誰も聞いてないじゃん」

「またヘリクツ言う! 尋問じゃなくて、誘導でしょ?」

「ほら、やっぱり……似た様なもんですー」

「あ、しまった……キミもうまくなったわね……誘導」

「いえいえ、お代官さまほどでは」

「誰がお代官よ! アハハ!」


 こんな初歩的な誘導に、ゆなさんともあろう人が引っ掛かるはずは無いのだが……実はゆなさん、ベッドの上ではなぜか普段の鋭さがあまりなくなる。


 それにしても、少しだけ気になる……ゆなさんの過去。


「そのうち……機会があったら、話すわよ」

「この前もそう言って、それっきり……」

「あのねぇ……せっかくキミとこうしていられる時に、どうして他の……しかも過去の男の話、しなきゃいけないの?」

「あ……」

「思い出したくないこともある気持ち……キミならわかるでしょ?」


 ここまでで、また二つ……マナーを教わった。

 一つは、終わってすぐに眠ってはいけないこと。

 二つ目は、過去の恋愛を詮索しないこと。


「ゆなさん……ごめんなさい……」

「そんなに凹まなくてもいいよ~、わかってくれたら。そうだ、ケーキ食べようよ! ね?」


 僕の無礼な質問は、赦されたようだが……寧ろ、こうして教育してゆくのを、彼女は楽しんでいるようにも思えた。


「フォーク無いけど……お皿は、えっとぉ……」


 部屋に備え付けのコーヒーカップセットを、全裸のまま取りに行くゆなさん。

 細い腰から曲線を描く、引き締まった小さなヒップラインがとても綺麗……。

 ホテルでは、一度脱いでしまうといつも、二人とも全裸が習慣だった。


 僕も……入り口の扉付近に無造作に置かれた荷物達の中から、自由が丘で買ったモンデュランのケーキを取りに行く。

 『無造作』の仲間には、コートやジャケットも含まれる。

 脱いだ時の激しさを物語る衣類達を、各々ハンガーにかけ、壁のフックに吊して整えて……これでよしと……。


「あ、眼鏡も持って来て。カバンの上……」

「はーい」

「ごめ~ん……やっぱり、カバンごと持って来て」


 はいはい……。


 ついでに他の服や下着も、ベッドの近くに……簡単にだが畳んで置いた。


「紅茶のティーバッグ、買ったの入れたままだったはずよ。ほらあった! あとねぇ……」


 更にごそごそカバンの中を探すゆなさん。

 女の人のカバンというのは、どうしてあんなに大きいんだろう? 何がそんなに入っているのかな。


「見てなくていいから、ポット持って来なさい!」


 言われるまま、お湯の入ったポットを取って戻って来ると……ゆなさんが小さいボトルを片手にニコニコしている。


「あ、ケミュのベビーボトル!」

「せいかーい! V.S.O.P.だけどね。ブランディティー用に買って、カバンに入れっぱだったの。リプテンもセットで!」

「ラッキー!」


 リプテン……ケミュ……揃ったラッキーアイテムと、モンデュランのケーキ……いただきます。


 美味しいケーキにブランディティー。すぐ傍らには、美しいゆなさん。大切な……愛しい人。

 こんな幸せが、明日からもずっと続くのだと……何の根拠も無くとも、その夜は本気で信じたくて……抱きしめ合うことで、儚くも不確かな明日の姿を……二人の愛を……確信したかったんだ。


 しかし現実には、既に用意されていた『沙汰』……それは二人が恐れていた『予期不安』の通り……否、より『巧妙』なものだった。

 その内容を、二人はまだ……知らなかった。

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