夕闇色の記憶 第十七章 ハモンド坂へ

 土曜の夜……寄り添う二人を乗せた東横線は、終点のホームへと吸い込まれ……年末へ向けて、目まぐるしく移り変わる渋谷の街に……二人もまた放り込まれて行く。




 ゆなさんが何も言わないので、何となく普段通りの改札を抜けた。

 『普段通り』というのは、バンドでよく入っていたヤナハ・エピクロス・スタジオ側の階段を降り……出来てからまだ5年目のモヤイ像の前へと出た。




「ゆなさん……ねぇ、ゆなさん!」

「え? あ……ごめん……」


 雑踏の騒音に掻き消されて聞こえなかったわけではなかった様子……何か、考え事をしていたのは明らかだった。


「ゆなさんの知ってるお店って、こっちでいいの?」


 我に帰って周りを見回し……小さく溜め息。軽く首を振り……どこか、力無く答える彼女。


「あ……ごめんね。反対よ。ハンズのお迎いだから、こっちじゃない。ちょっと……ボーっとしちゃった」

「ゆなさん……」


 僕でさえも意外だった。それこそ「あの仙波女史」が……自分がどこを歩いているかさえ意識せぬまま、物思いに耽っていたなんて。

 それでも、少し嬉しい気持ちもあった。いつも頼りない僕だったとしても、一緒に寄り添って歩く男として、それなりに信頼してくれていればこそ、考え事にも耽っていられたのだろう。

 ただ、それはそれとして……ゆなさん……もう、不安が隠せなくなっているんだね、きっと。


 これ以上何も言わずとも、今夜は初めての『お泊り』なのが、もう決まっていた。二人とも、もうウチには帰らない……少なくともこの夜は。

 本来なら、嬉しい展開のはずなのだが、そこに至るまでの経緯……場当たり的な行動が、あまりにも続いた一日だった。


 妹さんがあんなに早く帰宅して来たのも、勿論想定外だったが……それをきっかけに、ゆなさんは家出。

 その勢いで、初めて僕の家に彼女を連れて来たのも予定外。

 そこに帰宅した、ウチの両親にも予定外の紹介……今夜だけでも彼女を泊めてあげるよう、母に頼むも……「家出人を泊めるわけにはいかない」と。

 ならば出掛けようと、彼女の希望に拠り自由が丘へ……チャールズブラウンへお連れするはずが、またも彼女の提案で変更となり渋谷行き。


 その日一日の、ゆなさんの印象的な姿を思い起こした。

 初めてお邪魔したゆなさんの部屋で……隣に座れるだけで満足だった僕を、眼鏡を外そうとして誘惑してくるゆなさん……妹さんに向かってタンカを切るゆなさん……僕の唇の周りに着いてしまったルージュを親指で拭きとってくれて、妹さんがいきなりあんなにも怒った謎が解けたゆなさん。

 そのまま僕の家へ……現役ベテラン中学校教師の母に初めて会わせ、一目で元ヤンだと見抜かれるも……きちんと大人の対応をし、最後には「息子をよろしく」的なことまで言わせてしまう、やっぱり大人のゆなさん…。

 今川焼きやモンデュランのケーキが食べたいと言うとっても女の子な、可愛いゆなさん。

 そして……渋谷の雑踏の中だというのに、無防備にも歩きながら考え事に耽ってしまい……自分がどこを歩いているかも忘れていたゆなさん。



「ゆなさん、もしかして疲れちゃったの?」

「かもねぇ……。でも今日は色々あって、結構エキサイティングで楽しかったね」


 根が楽観的だからなのか、それとも無理に明るく振る舞っているのか……この時点で、僕にはわからなかった。

 この頃にはもう、彼女が隠している『憂い』を……全部ではないにせよ、見抜けるようになっていた僕だったが……この日一日の流れを整理して考えていたつもりでも、もうわからなくなっていたんだ。

 そんな僕の困惑は、すぐに顔に出てしまう。


「れいくん……私は大丈夫よ。少し飲んで……落ち着こうよ」


 そう言いながらゆなさんは、手を握り直してくれた。


 ハチ公を通り過ぎ……スクランブルの人込みの中へと、僕をぐいぐい引っ張って行くゆなさん。


 ハンズのお迎いの店か……。


 スクランブルを渡り切ったところで、今度は僕が……一瞬グイっと腕を引き戻し、彼女を止め……首を右へ振り、進路変更を伝える。

 目を見開き、口を「あ……」の形に半開きにし、わかったと頷くゆなさん。変なところで無口な二人だった。


 センター街は避けた。土曜の夜……ほぼ必ず学校の連中に会ってしまうから。

 公園通りまでも行かず、南武渋谷店の間を左へ……暫く先の路地を右へ入り、階段を上がって行く。オランダ坂は、割と好きなコースだった。

 階段の中程にあるDJボックスを横目に坂を上り切り、左へ。

 SONG通りに沿ってハモンド坂へ出たところに大きく掲げられた、緒崎豊の12インチシングル【ドライヴ・オール・ナイト】のビルボード広告を見上げて一旦立ち止まり、つぶやくゆなさん。


「この人も……危なっかしいよね。長生きしないんじゃない?」


 彼女のその言葉は……その後十年も経たずに現実となる。


「アハハ! 私に言われたくないか!」


 自らを笑い飛ばす彼女のその言葉に、正体のわからない不安が湧き上がった。


 この日、ほぼ成り行きでここまで来た二人。そして保証された『明日まで二人きり』……。

 その保証と引き換えに、なんて儚く、見えない明日以降……。


 見えない明日……儚い明日……実は見えている明日……。

 またも……またもそのパターンで過ごす、二人きりの『今夜』は……まだ始まったばかりだった。


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