夕闇色の記憶 第十四章 暗号のピアノ

 僕のリップライン周りにゆなさんが咲かせたローズガーデン……諜報員はその件を、女王陛下へどう報告するのか。

 あの手のお堅いエージェントに限って、目にしたことをきちんと報告できずに……「ふしだらなことをしていた」などと、どうとでもとれる曖昧な表現で尾鰭を着けるに違いない。


 さて、こちらのボンドガールとは、渋谷からどうだったのか。

 都立大学の駅にチャリを停めてあるので東横線……の、はずだが……東横バスで都立病院前まで……だったような記憶も? はっきり覚えていない。


 ゆなさんを家に連れて来るのは初めてだったが、まさかこんなきっかけで突然とは……短絡的だったのかもしれない。

 妹さんに、勢いで「もう戻らない!」と『家出』を告げ出て来たゆなさん。だから……ウチに連れて来た? 『帰る家の無いゆなさん』を、ウチに住まわせるつもりでもあったのか?

 母への紹介さえも臆していた僕に、そんな覚悟があろうはずが無かった。短絡的……あまりにも考え無しだった。

 しかし、ウチへ向かっている以上は覚悟を決めるしかなかった。




 家へ到着……車が無い。買い物にでも行ったか?

 ガレージサイドのスロープから伯母が運営している華道教室の横へと上がり、庭を抜け……その伯母と、当時存命だった祖母が住む離れを右目に見ながら……母屋へと到着するも、玄関には鍵。


 鍵を開け入るが当然、両親ともにいない。会わせる覚悟くらいはして来たのに、拍子抜けしたというか……でも、すぐに帰っては来るだろう。

 二階の自分の部屋へ。隣の部屋に妹……も、いない様子だ。


「まぁ、入ってよ」

「うん……お邪魔……します……」


 さすがのゆなさんも、緊張を隠せない様子。それ以上は何も話さず、堅い表情。


 こんな時は音楽♪ シンセとアンプの電源を入れ、音を出す。

 生ピアノの音がリアルなYANAHA CX7。今でこそ当たり前の技術だが、当時では先駆者的シンセサイザーだった。


 その当時までに僕が愛した女性にしては珍しく、ゆなさんは楽器を演奏したり唄ったりはせず、聴く側の専門。

 キーボード演奏をゆなさんに聴いてもらうのは初めてだったが……僕の奏でるピアノの旋律は、彼女の緊張を解している様子だった。



 しばらくして……そんな空気を引き裂くような、遠くからの金属音。それはガレージのゲートが開く音。両親が買い物から戻って来たらしい。

 敷地の門が、ガレージのゲートを兼ねており、重たい鉄製の横スライド式。そのゲートから母屋の玄関まで、庭を経由し30メートル弱あったが……スライド式と言っても、開閉の時の音がとてもうるさい。庭を突き抜けガラス越しに部屋まで届くほど。


 二人で一階の玄関へ降りて、両親を迎える。

 僕の「おかえり」に続いてゆなさんが頭を下げる。


「初めまして。仙波と申します。お邪魔しています」


 父はどこか嬉しそうな笑顔。「鼻の下を長くする」……とでも表現するのだろうか。

 父さん、気に入った? 僕が連れて来る女の人は、いつも美人だろう? と、心の中で思ったが……問題は母。明らかにびっくりしている。

 ゆなさんは、ちゃんと挨拶しているのに……


「あ、ああ、どうも、いらっしゃい」


 とだけ言いキッチンへ……碑文谷のダイトーで買ったと思しき荷物達の搬入を始めてしまった。


 やっぱり……明らかに『気に入らない』時の態度だ。


 今度は搬入したのとは反対側の、ダイニングの入口から顔だけ出した母が手招きしている。


 はいはい……ゆなさんについて、でしょうか。


 ゆなさんには、先に上の部屋で待ってもらうように伝え、僕は母の呼んでいるダイニングへ。

 母もまた矢継ぎ早に聞いてくる人で……


「仙波さんていうことは、めぐみさんじゃないわよね。どこの人? ずいぶんとおねえさんみたいだけど、いくつの人?」

「25歳……大学院生。母さんの大好きな、優等生だよ」

「へぇ~。それにしても、何となくヤンキーっぽいねぇ!」


 うわ……今は全然雰囲気違うのに……ゆなさんが元ヤンだと、一目で判ってしまうのか。さすが現役ベテラン中学教師。

 などと感心している場合ではなく、問題はその先だった。


「仙波さん……ゆなさんていうんだけど、妹さんと住んでて……さっき、わけあって家出して来ちゃったんだ。今夜だけでも、ウチに泊めてあげていい?」

「あんたねぇ……突然連れて来て泊めていいか? さっき家出してきましたって、そんな事情で泊められるわけないでしょう!」

「たしかに……突然だけど……」

「とにかく、今日は帰ってもらいなさい!」




 二階の部屋に戻り、ドアを閉める。

 部屋の中央に正座したままこちらを見上げるゆなさんの瞳は、すべてを把握するレーダーのよう。

 静かに優しく微笑むと、まるで一階での会話がすべて聞こえていたかのように……


「私のことは……心配ないよ。大丈夫だから」


 もう……何も言わずにゆなさんを抱きしめた。

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