夕闇色の記憶 第五章 熟想期間

 ゆなさんと……お互いの想いを言葉にする前に、唇で確かめ合ってしまったあの夜。


 その後事務所へ顔を出した時、ゆなさんには逢えなかった。その次も、更にその次も……。

 それまで、こんなにも顔を合わせないのは珍しかったが……こちらから電話してみるのもどこか遠慮してしまい、何も行動に移せずにいた。


 遠慮……僕の悪い癖なのだろうか。

 11月で25歳になったゆなさん。学年では7つ年上。またもそんなことを……『遠慮』の言い訳にしていたのかもしれない。



 次に事務所へ行った時……え?……なんだ、この人数は?

 その中にはゆなさんも……居るには居たが……え⁉ あれは……ヒロトさん?

 なんで……なぜ、ブルースハーツの甲友ヒロトさんが事務所に居るの?


「お疲れ様でした!」

「こちらこそ、どうもありがとうございました!」


 と……どうやらインタビューが終わったところらしい。


「あ、れい! いいとこに来たな。俺らこれから早速編集会議だから、ヒロトさんを駅までお送りして!」

「え? 僕がですか?」

「ああ。万が一ヒロトさんになにかあったら、ウチらも責任問題だから、護衛だ護衛」


 機関の……代表ではないが、出版部門の責任者、樋口さんからそう頼まれている途中も、僕はゆなさんを目で追っていた。

 ゆなさんも僕が来ていることには当然気付いており、何回も目が合ったが………彼女もその編集会議とやらの出席者らしい。

 言われたまま、ヒロトさんを駅までお送りして……その日はそのまま帰ったのだった。


 そんな、何故かきちんと逢えない十日間前後が……逆に、慕わしい気持ちを掻き立て……愛しさを……想いを熟成させるには充分な期間だった。


 そして遂に、ある日……居た。人も少ない。会議もない。

 しかし、どこか気まずい。いつものように、気軽に接して行けない。

 ゆなさんもこちらを向いて、少しだけ笑顔を見せてくれたが……またすぐに、活字へと視線を落としてしまった。

 きちんと逢えたという状況が、逆に二人を照れさせていたのかも知れない。

 仕方ないので……彼女の座っている椅子の、斜め後ろの床に腰を降ろした。その日はまだ、ひとことも言葉を交わしていない。


 周りの数人が、訝しげに二人を観察しているのはわかった。

 普段は周囲に『隔離オーラ』を張っているゆなさんが、僕とはなぜか仲良しなことは……否、この時点では……あくまでも僕は彼女の『舎弟』的存在なことは、みんな知っていたが……それ以上の関係になってしまった件は、まだ誰も知らないはずだった。

 まさか、あの仙波女史があんなガキんちょと……なんて想定外なのだろう。……と、そんな推察は、正にガキんちょな僕の思い込みであり、周りの大人達は実によく見ていた……という点は、後に判明する。


 ほんの一瞬、周りに人がいなくなったのを見計らったように、囁くゆなさん。


「ちょっと……抜けるわよ」

「はい……」


 下のカフェへ行くのかな?


「キミが先に、下に降りてて……荷物全部持って」

「わかった」


 荷物全部って……「ちょっと」じゃないな、これは。


 ゆなさんも降りて来たが、このままエスケープか?


 案の定、一階のカフェには入らず……駅とは反対へ歩き出した。

 新宿へ? 約十日間のブランクを埋めるには、ちょうど良い散歩コースだった。

 しばらく黙ったまま歩く二人。

 少し行くと、小田急線の踏み切り。時々、いわゆる『開かず』になる……正にその時間帯にぶつかってしまった。


 最初に口を開いたのは、ゆなさんだった。


「あのね……この前の……こと……」

「うん……」

「二人ともお酒、飲んでたけど……酔ってたからじゃ、ないからね……私は」

「あ……うん……」


 またしばらく沈黙……。


「うん……て……『ぼくも酔ってたからじゃありません』とか、即こたえるでしょ、そこは?」

「ああ……その……僕も……そうです」


 そんなマヌケなリアクションに、噴き出すゆなさん……笑われてしまった。


「もぉ……なんか、遠慮してない? 私に」

「してるかも……しれない……」

「ねぇ……私こんなだけど、いざ心が決まれば、それほど不粋じゃないわ」


 何のことを言われているのか、まだはっきりわからないまま……一度上がり、また下りてしまった踏み切りが、二人をその場に足止めする。


 このあとゆなさんからは……事務所の他のメンバーから、二人の関係がどう見られてるのかが、明かされることとなる。


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