物騒なバレンタイン
そうこうする内に英国の年は明ける。壁の問題も仕事の問題も何一つ解決しないのに、二月になった。時節は甘いバレンタイン。
他の国はどうか知らないけども、我が国のバレンタインは別に恋人たちだけのものじゃない。
立ち並ぶ店のショーウィンドーにロマンティックなデザインの箱が並び始めると、皆自分の財布事情に応じてあちこちにチョコレートをばらまく。家族や友人、親戚、隣人、同僚、生徒、恩師たちへ。愛とカカオを結びつける一日なんてお菓子会社の陰謀に違いないけども、まあ悪くはないね。
後は高級ディナーを予約したり、ぐるぐる回る
もっとミステリアスに、「○○さんへ 貴方を愛する者より」――そんな風にわざと自分の名をぼかしたラブレターを贈る人もいる。贈られた方は「誰が私を好いているのかしら? 駅で会うあの人? それとも取引先のあの人?」なんてあれこれ想像して楽しいだろう。
ま、今年は『御社のチョコレートに毒を混ぜた。止めて欲しければ三百万ドル払え』だのなんだのと企業を脅迫するアホ集団もいたりして浮かれ騒ぎに水を差すようだけども、僕の見たところでは警察とシャーロックが忙しくなっただけだ。
僕が朝起きると大抵奴は下宿を出た後で、ディナーの時間まで帰らなかった。そしてその時にはもう髪も服もそぼ濡れて、かなり酷い有様だった。このところ雪続きだからね、ご苦労なこった。
それでも、僕はシャーロックが羨ましかった。
僕にも何か心乱すものがあればいいのにな――MI6の仕事以外で。あれはもう、彼らが僕の目の前にやって来るんでもない限り放っておくことにした。特に期限も切られてないし。
何かこう、踊り出したくなるような楽しい刺激ってないかな。水着を着たユウミさんとか水着を脱いだユウミさんとか……。恋人どころか家族も友人も良き隣人もいない独り者に、バレンタインなんてイベントは酷だと思う。
――そりゃユウミさんは「今日は三世紀のローマで殉教した聖バレンタインの記念日ですね」と言って、ディナーの後に美味しいココアムースやチョコレートクリームたっぷりのオレンジケーキを振る舞ってくれたんだけどね。それは僕にしてみたら虚しいんだよ。食べたのは僕だけじゃないからさ。マフィン君とかシャーロックとかも彼女の下宿の住人としてその場にいたわけで。
そして僕はマフィン君やシャーロックを友人(または良き隣人)として認めていないからね。
僕はユウミさんに小さなダイヤがついたネックレスをプレゼントしたけど、未だにこの気持ちを分かってもらえてない。それどころかユウミさんは、顔を合わせる度に「こんな高価な物は頂けません…」と返そうとして来る。
彼女は元が
しかも彼女には、シャーロックやマフィン君までもがそれぞれブレスレットやブローチを贈っていたらしい。
特にマフィン君には腹が立った。彼女にブローチを贈ることの意味は「貴方の一番側にいたい、貴方のハートにぶら下がらせてください」だからね。図々しいな。
あーあ、ユウミさん……。おかげで僕の心は告白する前から玉砕している。
おかしいなあ、僕はそこそこ背も高い。シンプルな紺のコートをふわりと羽織り、さらさらのプラチナブロンドを東の風に靡かせれば「とっても素敵な青い瞳のロビンさま」と、裏社会の蛮族やどうでもいい女の子たちからは映画スターと同じくらいもてはやされる男なのに。
僕は溜め息をついて、昼に外へ画材を買うのに着て行ったコートのポケットをひっくり返した。
ちょっと道を歩いていただけなのに信じられないけど、隣にいた男を突き飛ばして、彼にあげるはずだったらしいチョコを「まあ、画家のロビンさん!私、貴方のファンですの」とくれた老婦人もいたっけ。
それはもう数えるのも面倒なくらい沢山の箱や封筒が、ボロボロとテーブルにこぼれ落ちる。
さあ、これはどうしたもんか。
僕を慕う女性は激しい性格であることが多い。僕とあの世で結ばれようってのか、手紙ならカミソリが、お菓子なら青酸カリが、時計やアクセサリーなら盗聴器やGPSが、約六十%の割合で混入している。
酷い時には、亜熱帯地方の猛毒蜘蛛が何気ない感じでビスケットにサンドされていた。僕は二枚重ねのビスケットは必ず剥がして食べる質なので助かったけれども、レモンクリームの中でもがく蜘蛛は結構トラウマものだった。今回もらったお菓子も正直怖くて食べられない。
僕はすっかりお馴染みの弾痕を見上げた。三秒後にはそこに、手紙やお菓子や時計やらを箱ごと全部押し込んだ。
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