彼にとっては愛の化身
最初の弾痕壁穴合戦はそれで終わった。あんまり派手に殺り合うと、警察に通報されかねないということも学んだ。
だから一週間くらいは、『何事もなかった』と自分で自分を騙すように過ごしてみた。僕には珍しく、MI6の仕事を早く片付けられないかなって考えてみたりね。
でも騙せなかった。そりゃそうだ。
MI6が僕に言いつけた仕事ときたらかなりいい加減で、腕に牛の
だって、もし彼らが国家を揺らがすような大犯罪を企んでいる集団なら、指令はこんなあいまいなものじゃない。『○時○分に○○街の○○へ行け』となるはずだ。
僕が思うに、彼らの危険度はまだまだ低い。良く見積もってB級、始末命令を出したのは『女王陛下のお膝元でうろうろされるのが気に入らない』とか何とかそういう理由だろう。
僕みたいなSS級の
MI6の件を抜きにしたって、我が壁に穴を開けやがったシャーロックと僕は長年のライバルだっていう問題が横たわる。殺し合いの種なら今までもこれからも、掃いて捨てるほどある。海の砂ほどある。それゆえ穴はそこにある。
……て言うか、何で僕は奴と同じ下宿で暮らさなきゃいけないんだ?
ここを住居にと決めたのは僕や奴の上司の方だから文句は言えないけれども、あっちゃいけないだろこんな
僕の心はもうストレスでいっぱい、圧力鍋の中でスタンバイ中の火薬や鉄釘や
何より嫌なのが、シャーロックの部屋の空気がこの穴を通して流れて来るってことだった。僕の本や衣服、それにベッドのマットレスやシーツでさえも、あいつ好みの煙草の匂いが染みついて取れなくなった。
窓が開いていてもシャーロックの匂いは紛れない。これどういう地獄?
嵐で下宿が停電した夜なんか、たまたま廊下で僕の後ろを歩いていたマフィン君が袖を引いて「ホームズさん、電気はいつ復旧するんでしょうね」と言った。
「え、なに、ホームズ? 僕はロビンだよ?」
まさかあんな奴に間違えられるなんて。
心から絶望したよ。危うくマフィン君の首を絞めそうになった。
◆
二週間目、僕はシャーロックに「いい加減穴を塞げ」と談判した。
「何故」とシャーロックは言った。
「何故だって?」僕は自分の耳を疑った。
「君はとうとう頭がイカレたらしいな。何故なら、あれは壁だからだよ。僕と君との間には今日も冷たい風が吹いてくれちゃ困るんだ。同じ家で暮らしてること自体僕には拷問なんだからさ、せめて仕切りくらいはちゃんとさせてくれよ。それとも何だい、君は壁でミツバチでも飼おうってのかい? 冗談じゃない、蜂の巣にするのは自分の体だけにしてくれ」
すると、シャーロックはこうだ。
「ほう。お前はユウミさんの
「はあ?! ユ、ユウミさんは関係ないだろう!」
「大ありだ。お前にはもうユウミさんに近付く資格はない。ま、お前側の壁だけは元通りになるように上手く塞いでやろう。俺にとっては愛しいユウミさんの分身でも、お前にはただの拷問なんだろう?」
「待て待て待て待て塞がなくていい」
僕は思ってもみなかった部分、だが確実に致命傷になる部分を言葉のナイフで突かれてしまった。
神に誓って言うけれども、僕は絶対にシャーロックよりユウミさんのことを愛している。
あの輝くような金髪、ナイチンゲールの如く甘い声、いっそ透き通るような肌に、しなやかな腰の曲線……それが全て僕だけのモノになるのなら、どんなにか素敵だろう!
それに僕は、シャーロックなんかよりユウミさんのことを幸せに出来ると思っている。
お金なら世界一周旅行を百万回してもまだ残るくらいたんとあるし、僕は家事にも育児にもちゃんと興味があるジェントルマンだからね。
それなのに、こんな理不尽な状況でユウミさんへの愛の深さを試されるとは――そしてシャーロックを有利に立たせてしまうとは――何という不覚。何という試練。
僕がボクサーならカウンターを喰らって脳震盪、ぐるぐるする視界に体ごと呑まれてリングに沈んだ所だ。
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