魔法じかけの走馬灯

もすび

第1章 出会い

第1話 魔法と科学

「お帰り……って、またそんなもん買って!ネットで調べれば済むことやろ!何回言えば分かるん!?」


(いけない。歩き読みに夢中になって、うっかり鞄にしまい忘れてしまった。夜勤に出る前の母さんはただでさえ沸点が低いっていうのに、貴重な小遣いを科学雑誌に使ったなんて知れたら怒られるに決まってるじゃないか!)


「母さんには分からんやろうけど、ネットで調べたってこんな綺麗な画像は出てこんのよ!」


 少年がパッと開いたページには、この世で最も美しい渦巻――アンドロメダ銀河が見開きで印刷されていた。母はそれを一瞥して、「ふっ」と鼻息をこぼした。


「そんなもん見たところでどうするん?」


「それは……」


「大体科学なんて非力なもんだよ。いくら科学が発展したところで、父さんはもう帰ってこないんだから」


「未来は変えられるかもしれんやん」


「それすら『かもしれん』のが現実なんやろ?変な理想を持って大学に行くより、就職した方がいいんやない?兄さんだけならまだしも、あんたまで大学に行かれたら面倒見切れんよ?」


「母さんはいっつもそうだよな、金がない金がないって。奨学金借りればいい話やろ?」


「借金やで?私は怖いわあ」


「もういい!話にならんわクソが!」


「なんやって!?親に向かって何よその口の利き方!こら、待ちなさい!」


 少年は玄関の扉を勢いよく開けて外へ飛び出すと、買ったばかりの科学雑誌を通学鞄に入れて書店へ向かう。バリバリ言わせながら財布のマジックテープを開くと、ため息をついた。

 レシートが残っている以上、返品を申し込みに行かずにはいられない。レシートなんぞどこかに捨て置けば良いものを……そう思う少年だったが、良心の呵責には逆らえなかった。


 少年が何気なく見たビルの広告には、週刊漫画に登場する魔法使いがいた。科学の体現者であるビルが魔法使いを宣伝するために使われるという皮肉が、彼の口元に薄ら笑いを浮かべる。


『実際、科学ほど非力なものはないよな。魔法があったなら、父さんは今頃……何をしてたんだろう』


 科学者になって理想を叶えるため、少年は余暇を全て勉強に捧げてきた。その甲斐あって彼は高校一年生にして理系大学生並の知識を持つ。そんな彼の致命的な弱点は、察しの悪さだった。理想を実現できるのは魔法だけだと察する頃には、もう十六の夏だ。


『科学なんかなければ、母さんと喧嘩することもなかっただろうなあ……』


 少年の胸には「時田ときた 響己ひびき」と書かれた名札が安全ピンで留められている。それを見つめながら歩いていた彼が、背後から迫り来る金属の塊に気づくはずなどなかった。



 バァン、ドーン!



 二つの音が、街に響いた――――





「――――ここ、どこ?」


 目を覚ました響己をとり囲むのは、妙に色濃い草と木々だった。響己は状況のおかしさに首をかしげながら立ち上がって、制服についた土を払い始めた。


『どうやったらこんなところで寝る羽目に?……とりあえず、こんな反吐が出る場所――森なんてとっとと抜け出してしまおう』


 響己は無我夢中で走った。少し先に見える光が太陽のものであることは確かだ。あとはそこが森の外か否かにかかっている。


 暗い森を抜けると、そこには豊かな自然があった。それがこの世のものとは思えないのは、遠くの草原に点在する水色の物体のせいだ。草が風になびく方向と逆に転がり、時たま飛び跳ねている――――これがスライムでないなら、何だと言うのか。


 目の前には一本の細い獣道がある。道があるなら、この辺りには人がいるはずだ。その道にたどり着いた響己は一息ついて、夏用の制服が長ズボンであることに初めて感謝した。


 虫がまとわりついているような気がしてひたすらズボンをはたいていると、突然香水のような甘い匂いが鼻をつんざいた。振り返ると、そこにはアウトドア用の服を着た真っ白な肌の女性が立っていた。


「あ、あの……どうしました?」


 響己が尋ねても、返事はない。気まずい一瞬の後、女性は手招きをした。手は傷だらけで全体的に濡れているように見える。そのまま振り返って森の方へふらふらと歩いて行く女性に、響己は首をかしげながらついていった。


「あの、何かあったんですか?」


 なおも女性は返事をしない。響己は内心焦り始めていた。現実感のない現実は、大抵絶望と無力感に結びつくものだからだ。


 まもなく森に入ろうというところで、


「行っちゃダメ!!!」


 という声が後方から飛んできた。振り返ると、右足を引きずりながらこちらに歩いてくる緑髪の女性がいた。彼女の出で立ちは魔女そのものだ――真っ白なとんがり帽子とコートを身につけ、緑色の大きな玉が付いた杖を突いている。


 響己は何事かと思って、もう一度先ほどの女性を見た。さっきは目を合わせることもできなかったから気づかなかったのだろう――振り向いた女性の両目は別々の方向を向いたまま、ぎょろぎょろとうごめいていた。


「う、うわあ!!」


 響己はひたすら白い魔女の方へ走った。魔女は近寄ってきた響己に容赦なく飛びかかって押し倒すと、手を太ももで押さえつけて馬乗りになった。響己には背中の通学鞄を気に掛ける余裕はなかった。彼の意識は、香水とはまた別の甘い香りに蝕まれつつあるのだ。


「ちょ、何するんですか!」


「うるさい!魔物の分際で!…コアはどこかな~?」


「ま、魔物?コア?何を言ってるんですか?」


 魔女は響己のワイシャツのボタンを外して肌着をめくると、手をつっこんできた。かつてないこそばゆさに顔が火照る。魔女が右脚にだけタイツをはいているせいで、左右の手に伝わる感触が違うのも余計に理性をむしばむ。


「あれ?腹に穴が開いてない。え?でも濡れてるしなあ……」


「あ、あの、濡れてるのはただの汗ですよ」


 魔女は慌てて響己のズボンに手をこすりつけ始めた。


「君は魔物じゃないのかい?」


「もちろんですよ!」


「じゃあ、植物かい?」


「僕は人間です!」


 魔女は怪訝そうにうずくまって響己とおでこを合わせた。響己の頭の中はとうとう魔女の甘い香りで一杯になってしまった。おでこを離した魔女は、つばを大きく飲み込んだ。


「……なら、どうして魔力なしに生きてられるの?」


 響己の額には、未だにぬくもりが浮かんでいる。冷静さを欠いた頭では、魔女の発言も上の空だ。


「え、え?」


「植物と違って、動物は魔力を失えば命を失うことになる。魔物はコアに魔力が封じ込まれているから、体に魔力が流れていないように見えてもおかしくはないけどね。君はいったい、何なの?」


 響己はようやく悟った。ここが、魔力の支配する異世界であるということを。

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