第2話パップンに会えないどころか何もない

 一歳を過ぎようやく視力が安定してくると、俺は自分の置かれた環境をそれなりに理解できるようになってきた。俺はこの地域ルクスアゲルの領主、アウモダゴル・エ・ディグヌス、ルクスアゲル公爵の第十三子であり五男として誕生した。母であるマリアの子としては十一子だが、父と亡くなった先妻との間にかなり年の離れた姉が二人おり俺が生まれるずっと前にほかの領主の元に嫁いでいる。その下に長兄、それから立て続けに年子の姉が八人、一年空いてまたぽんぽんぽーんと年子の兄が二人そしてこの俺だ。そしてこの俺が末っ子のエルファルト、この国の言葉ではわんぱくな妖精って意味があるらしい。略してエルと呼ばれることが多い。

 しかし十三人も子供がいるとかよ、いくらなんでも子だくさんすぎやしねーかとは思うが、そんなことはこの際どうでもいい。俺にとって重要なのはここが、ただの外国ではなかったということだ。ここ、サナーティオ王国は外国といえば外国だ。俺の生まれ育った。そして一度もその外へ出ることのなかった日本ではないのだから。しかし、ここから日本へ行くことは絶対にできない。小学校時代から本棚の上に置きっぱなしですっかりほこりの被っていた地球儀にもここは載っていない。

 ここは地球上にない国だ。俺が初めてそのことに気付いたのは、母であるマリアの御世話役、ミズブリギナのもっさもさの腕のその先をまじまじと見つめたその時だった。


「さー、エルファルト坊ちゃま。アウモダゴル・エ・マリア様の沐浴中におべべをお取替えしましょうねー」


 あまりにも毛深いもっさもさの腕、獣かよと思いつつ顔を見上げるとまだおぼつかないぼんやりとした視力でも明らかにそれは異形のものに見えた。真っ白な白衣から飛び出た腕も首も足ももふもふの毛もじゃ、もちろん顔も、ピンっと横に張り出した何本ものひげに、らんらんと輝くサファイアグリーンの大きな猫目、っつーかその顔はまるっきり猫だった。二本足で立つ猫、しゃべる猫……これって、これって、これって、そうだよ、ゲームで見たことある。ケット・シーってヤツじゃんか! 俺は驚きのあまりもう「おぎゃあ」の一言すら発せられず、ただ目をまん丸にしてその猫の顔をじっと凝視した。

 異国には妖精伝説があるところもあるよな……それに湖になんちゃらいう未確認生物が出たとか何とか……うーん、じゃあここはやっぱり異国の地……んなわけねーっつーの! これが長い夢ではないのなら、俺は普通に輪廻転生して異国に生まれたわけじゃねぇ。地球の輪廻の輪の外、異国どころか異世界に飛ばされて来ちまったみてぇーだ。

 いやいやいや、まさかな。俺やっぱ昏睡状態で夢見てるだけなんじゃねーかな。この夢から覚めたらよ、奇跡の生還なんつってさ、せららんが見まいに来てくれちゃったりしてよ……あわよくば甲斐甲斐しくお世話されながら二人っきりでお話なんか出来ちゃったりしてよぉ。

 覚めろ、覚めろ、俺の夢。

 小さなぷくぷくの指で何度も自らの頬をつねってみるがチクリと小さな痛みが走るだけで、俺はこの世界から抜け出すことはできなかった。うつらうつら日に何度も眠り、目を覚ましてもやはり俺がいるのは公爵邸、今の自分の生家である屋敷の中だった。


 何度も何度もパップンのライブ映像を、せららんの動く姿を夢の中で観た。でも繰り返すうちに擦り切れたように映像がとぎれとぎれになり、どこかもやがかかったようにしっかりと顔を見ることができず寝起きの頬には涙の筋がいくつも残されていた。あんなに何度も観た、脳裏に焼き付けたはずの映像がどんどん薄れてゆくなんて……俺のパップン愛は、せららんへの想いはこんなちんけなものだったのか。そう思うと、悔しくて悔しくてたまらなかったんだ。


 物心ついたときから虚弱体質で特に胃腸が弱く、その上乗り物酔いもひどかった俺は小学校の修学旅行で大失態を起こした。気弱でクラスメイトのやんちゃ坊主の池脇に勧められたにんにくチップスを断り切れなかった俺は、波打つ吐き気とシクシク痛む胃腸をがまんしながらなんとか数枚を飲み下した。

 しかしそれが不運の始まりだった。バスが停車するまでなんとか吐き気をだましだましやり過ごし、バスを降りたらダッシュでトイレに向かおうとしたところ俺は通路に伸ばしていた池脇の足に引っかかりそのままごろごろと転がりながらバス中に腹の中から噴き出したものをまき散らしてしまったのだ。俺は体調が悪いと言ってそのまま修学旅行をリタイアし、その後学校には二度と行かずホームスクーリングを続けて高卒認定資格試験をクリアし、ほぼ外出すらしなかった。そして、好きな漫画の書店限定本を買いに数か月ぶりに繁華街に出たあの日。俺の人生をがらりと変える出来事があったんだ。書店に向かう大通り、身をかがめて人の群れを避けながら歩く俺の目の前に、手作り感満載のカラフルなチラシが差し出された。


「こんにちはー! ときめき☆パップンプリンセスのストリートライブがこの後午後二時から始まりまーす。良かったら見に来てくださいねー」


 おどおどとチラシを受け取ると、差し出した手はにゅっと伸びふるえる俺の手をぎゅっとにぎりしめた。


「ありがとー、なかなかチラシ受け取ってもらえなくてちょっとへこんじゃってたんだ。うれしいなー、見に来てくれたらあたしもっとうれしい」


 極度の緊張のせいかエコーがかかっているようになってしまってよく聞こえないけど、それでもやさしくやわらかな声だというのはわかる気がする。うつむいていた俺はとうとう顔を上げることはできずその場をあわてて立ち去ったけど、その手のあたたかい感触が優しいぬくもりがいつまでも手の中に残っているようだった。本屋で限定本を買った後、俺の足はふらふらとさっきの場所に舞い戻っていた。さっきの子だろうか、数人の観客の後ろに隠れるようにしていた俺を見つけると軽く手を振ってくれた小柄な女の子がいた。声と同じで優しい笑顔、まるで冬の陽だまりのようなほっとするあたたかさだ。こうしてすっかり胸を撃ち抜かれた俺はパップンのイベントに度々足を運ぶようになりインディーズで出された五枚で一度チェキ特典のあるCDもライブ映像を収録した円盤も何十枚でも何百枚でも買った。そのうちこつこつ貯めていたお年玉貯金が底をつき、バイトまで探し始めた。しかし、家族以外は勉強を教えてくれていた近所のお兄ちゃんのたっちゃんとしかまともに口をきいたことのなかった俺が面接でまともな受け答えをできるはずもなく、やっと決まったのは深夜の学校の夜警だった。けれど長年ヒッキー状態だった俺にとって一人でできるこの仕事は性に合っていて、小六の六月以来足を踏み入れることのなかった学校だったが人気の全くない深夜のこの場所は不思議と心が落ち着いた。

 それからの俺はもごもごして返事もしない俺に根気強く話しかけ続けてくれたあの日の数人のヲタ仲間と共にグループを作り、トップヲタグループとして運営やマネージャーから公認されるまでになった。こうして俺を光の下へ引っ張り出してくれた女神のようなせららんとの出会いの日、俺の運命の日。まざまざとその日の記憶はあるというのに、せららんのあの時の笑顔にもやっぱりもやがかかってしまっている。


「ふぅぅ……」


 赤ん坊らしからぬアンニュイなため息をついた後、沐浴を済ませた母の乳をがぶがぶ飲んで満腹になった俺は再び眠りに落ちる。せららんの面影を求めて。


 何度思い出そうとしてももやを払えなかった俺は、しばらくすると新たな目標を定めるようになった。

 俺にとってときめきパップンプリンセスは、せららんは、何度生まれ変わろうともどこの世界へ飛ばされそうともゆるぎない心の一推し、トップオブトップ、不動のナンバーワンアイドルだ。それは決して忘れることのない、俺の胸に刻まれた思いの証。けれど、今の俺にもちょっとした楽しみは必要だ。

 浮気じゃない、決して浮気なんかじゃないし、推し変なんてこの俺には絶対に天地がひっくり返ってもありえない。でもよ、この世界のアイドルにもちょっとばかし興味が湧いてきちまったんだよな。

 異世界のアイドルなんてさ、どんなパフォーマンスを見せてくれんのかちらっと見物してみてぇじゃねーか。


 俺は新たな生きがいを一つ見つけ、言葉を思い通りに自在に発せるようになる時を待った。

 年頃の長兄にリサーチすれば、きっと人気のアイドルを教えてくれるに違いない。

 ワクワクしながらその時を待ち、二歳になった俺は「今だ!」と思い立った。長兄のヘロースは今十四歳、異性に興味津々で可愛いアイドルに夢中になるお年頃だ。かわいい盛りの末っ子の俺が無邪気に問いかければ、ノリノリでお勧めのアイドルを教えてくれるに違いない。

 意を決した俺はてこてこと長兄の部屋を訪ねてゆき、ちょこんと膝に乗って頭をなでられながら何度も脳内で反芻したあのセリフを振り向きざまの上目遣いで目いっぱい愛らしく長兄に放った。


「ねぇねぇヘロツおにいたまぁ、おにいたまのいっとう好きなアイドルをおちえてちょうだい」

「はっ? エルは一体何を言っているんだ? そのアイドルってなんだ、そんな言葉は未だかつて聞いたことがないぞ……新しいお菓子の名前なのかい?」


 この世界に転生して二年。俺はやっと悟った。この世界にはアイドルという概念がない。


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