第12話お腹

「おかえり…ってどうしたのその顔」


 眉間にシワを寄せてなにかに耐えようとしている瀬名の顔を見て沙綾香は思わず驚く。らしくない表情の裏には悶々とした感情が渦巻いていた。


「…なんでも無いです。これどうぞ」


 瀬名はポカリとタオルを沙綾香に手渡す。そして彼女に背を向けるようにして壁と向き合った。

 部屋に戻ってきた瀬名は先程の記憶を消去しようと必死だった。洗面所で見つけた黒いレースのついた布。もはや布切れと呼んでもおかしくはないほどのサイズが瀬名の脳裏にこびりつく。異性の下着を見るという経験が初めてだったということもあり、その色はなかなか離れてくれない。


(…案外派手なやつ履いてるんだな。いや、あっち系の噂も多いんだしそういうのを履いててもおかしくは…って馬鹿馬鹿。何を考えてるんだ俺。こんな事考えてるなんてバレたきもがられるじゃ済まないぞ)


「日向くん」


「っ、は、はいっ!?」


 不意の呼びかけに少し上ずった声で瀬名は反応する。沙綾香は様子のおかしい瀬名に小首をかしげながらもタオルを差し出してきた。


「拭いて」


「…はい?」


「体、拭いて」


 本日二度目の衝撃が瀬名に走る。何度目かも分からない思考停止はもはや恒例行事というべきか、動きすらも止めてまるで止まった時間の中にいるかのような時間が流れる。

 数十秒を要してようやく動き出した瀬名の脳は疑問を打ち出すので精一杯だった。


「…月凪さん。それはどういう」


「汗かいちゃったからふいてほしい」


 瀬名の口からは驚きを通り越してため息が飛び出る。頬をつねっても以前目の前の景色は鮮明なまま。風邪が長引いたあまりに頭がおかしくなってしまったのでは無いかと疑いたくなる状況は間違いなく現実だ。


「…月凪さん。一旦冷静になってください。それはいくらなんでもやばいです」


「えー、だってだるいんだもん…」


「だからって同い年のまだ関わって間もない男に体拭かせるのはどうかとおもいますけど!?」


 彼女の価値観がズレているのかはたまた熱にうなされているだけなのか、沙綾香は自分の意志を曲げるつもりは無いようだ。ジト目で瀬名に抵抗の眼差しを向けている。

 瀬名の理性の結界は先程のこともあり既に崩れかかっている。クラスでは隣の席の美女が目の前で体を拭いてくれと要求してくるこの状況は全国の男子高校生からしたら願ってもないシチュエーションだが、熱に浮かされてそのまま、なんてのは沙綾香もきっと願っていない。瀬名は必死に欲を押し殺した。


(…鎮まれ。鎮まれ湧き上がる欲よ。今ここは耐えるのだ。男として、月凪さんを守るためにも、ここは男として、戦士として、落ち着くんだ…)


 必死に表情を取り繕う瀬名は沙綾香はジト目で見つめる。


「…そんな目で見られてもやりませんからね」


「…ぶー」


「ブーイングされてもやりませんから。…やりませんからね」


「ちぇ、つまんないなぁ…」


 熱のせいか完全にキャラが変わってしまっている沙綾香を前に瀬名はタジタジだった。部屋の空気に入り混じる沙綾香の熱とほのかに香る甘い匂いが瀬名の思考を乱していく。正常な判断ができるのも今のうちだろう。


 悶々とした感情を胸に葛藤する瀬名を前に沙綾香はパジャマをめくった。


「え!?ちょ、ちょっと!!」


「…?なに?」


「お腹!お腹見えてますから!」


 瀬名は両手で自らの視界を塞ぎつつ言い放つ。めくれたパジャマの隙間から彼女の腹部がくっきりと露出している。きめの細かい白い肌は瀬名の理性を揺るがすには十分過ぎる破壊力をもっている。瀬名は目を背けるしかなかった。


「いやしょうがないじゃん。拭きにくいんだもん…」


「だからって異性の前でそんな事しないでください!」


「…えっち」


「見せといてなんですかそれ!…はぁ、終わったら言ってくださいね。外に出てますから」


 瀬名は早まる鼓動を抑えつつ、部屋の外へと出た。

 深く息を吸って、吐く。そうすることで瀬名は騒ぎ始めた自分の欲を抑え込む。多少の興奮は抑えられたものの、脳裏に焼き付いた布と腹部が瀬名の心を再び騒ぎ立て始めた。


(…沙綾香さんって、あんな人だったっけ。これまた以外な一面だな…)


 再び心を落ち着かせようと息を吸ったところで扉がこんこんと二回叩かれる。終わったという合図だと受け取った瀬名は部屋の中へと戻る。


「…終わりましたか」


「終わったよ。嘘、つくと思う?」


「まぁ、多少なりには」


「信用されてないなぁ…私、病人なのに」


「さっきまでの行動を振り返ってから言ってくださいよ」


 冗談交じりな沙綾香の言葉に瀬名が返す。その言葉に沙綾香の表情はふっと緩んだ。学校では見ない、これもまた以外な一面だったように思える。


「俺ができることももう無いでしょうし、そろそろ帰りますね」


「あ、ちょっとまって」


 荷物に手を伸ばした瀬名を沙綾香が呼び止める。ベッドに寝転がった沙綾香は手を差し出してくる。


「少しだけ手、握っててくれない?」


「…俺で良ければ」


 瀬名は手汗を書いてないことを沙綾香にバレないように確認して沙綾香の手を優しく握った。自分よりも少し暖かい彼女の手のぬくもりが肌を介して伝わってくる。


「…今日はわざわざありがとね」


「いいんですよ。このぐらいは自分にもできますから」


「…私の親さ、どっちも忙しくてあんまり家に帰ってこないんだ。私が小さい頃はこうやって体調崩したりしたら駆けつけてくれたんだけど…私ももう高校生だし」


 ぽつりぽつりと口からこぼれた言葉は普段の彼女には似つかわしくない弱々しい言葉だった。体調面のコンディションのこともあるだろうが、病は気からという言葉もあるように彼女の精神も衰弱しているように思えた。


「昔、ママが眠れない私をこうやって手を握って寝かしつけてくれてたんだ。だからこうしてもらえると、ちょっとだけ安心できる」


「そう…ですか。優しいお母さんですね」


 少しうわづった声で部屋に響く。異性と二人きりで手を握っているという初めて体験するこの状況に対する瀬名の心の焦りが言葉にそのまま出ていた。


「…私、少し寂しかったんだ。だから、日向くんが来てくれて嬉しかった。…ありがと」


 いつも不動の表情筋を器用に働かせて、沙綾香はふふっと微笑む。あまりの破壊力に動揺に動揺を重ねていた瀬名の心がいよいよ仕留められる。瀬名は思わず身を固まらせてしまった。


「っ、月凪さん…!」


 瀬名の口から彼女の名前がついて出る。不意に飛び出した言葉に瀬名は自分自信も動揺していた。


「…」


(寝ちゃった。…俺は何を言おうとしていたんだろうか)


 瀬名は数秒の思考にふける。彼女の寝息が響く部屋の中で彼は葛藤した。


(…帰ろう)


 瀬名はそっと沙綾香の手を放して荷物を持つ。沙綾香を起こさないようにこっそりと瀬名は部屋を去った。


 数日後、『忘れて』というメッセージと共に赤面した沙綾香を見つけることになるのを瀬名はまだ知らない。

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