第13話保健室

 昼休みが終わった直後の5時間目。昼食後のこの時間帯は血糖値の急激な変化により眠気に襲われる生徒が多い。

 しかし、今日の5時間目の授業は体育。体を動かすことで眠気もどこへやら。屋上から急いで戻ってきた瀬名はクラスメイト達とバスケに熱中していた。


「へい、瀬名!」


「よっしゃ」


 奏斗から渡ったボールを受け取った瀬名はハンドリングを駆使して相手を躱す__予定だった。手の中にあったバスケットボールは彼の意思に反して明後日の方向にすっ飛んでいってしまった。


「あー、やっべ…」


「どんまい。次だ次」


「…瀬名、お前案外球技苦手だよな」


 そう呟いた亮太を奏斗がキッと睨む。瀬名は二人の間に入って争いに発展するのを阻止する。 

 亮太の言う通り瀬名はあまり球技が得意ではなかった。先程のようにハンドリングをしようとすれば明後日の方向に飛んでいくし、シュートをすればどこかしらに跳ね返ってきて顔に当たることもしばしば。野球なんてデッドボールばかりでその御蔭で小さい頃はよく助っ人に呼ばれたりしていた。

 ボールは友達、なんて言葉はあるがあんなのはボールの恐ろしさを知らない奴の言った言葉だ、と瀬名は思っている。それぐらいには相性が悪かった。


「秀吉てめぇ俺の瀬名になんてことを…!」


「待て待て奏斗。その拳を一旦下ろせ。苦手なのは事実だからいいんだよ」


「でもよぉ、こいつ秀吉だぜ?」


「なんで秀吉が悪口みたいになってんだよ。本物に失礼だろうが」


「全国の小学生だって猿だのなんだの言って馬鹿にしてるんだからいいだろ。それより俺はマイダーリンを愚弄したお前が許せないんだよ」


 奏斗は嫌気全開オーラで亮太を睨み続ける。一部の女子が見たら歓喜しそうだ。

 どっちが家臣だよと呟きながら亮太は呆れた様子だ。奏斗の瀬名への執着は亮太から夢に対するそれに匹敵する。どちらも人のことは言えない状態だった。

 鋭く突き刺さる奏斗の視線を無視して亮太は続ける。


「…にしてもお前、球技以外はそつなくこなすのに球技だけはダメだよな。嫌いなの?」


「別に嫌いってわけじゃないんだよ。できないってだけ。ほら、体が魂についてこないみたいな?」


「なんだその例え…まぁ大体はわかったわ」


「バレーならちょっとはできるんだけどなぁ…」


 瀬名がそう呟いた時だった。瀬名の背後から黒い影が迫ってくる。


「おわっ!?やべ、瀬名、後ろ!」


「へ?後ろ?」


 瀬名がちょうど振り返ったときには既にその影は眼の前まで迫ってきていた。

 

「ごふっ!?」


 鈍い音と共に瀬名の顔面にバスケットボールがめり込む。振り返ったタイミングで運悪くクリーンヒットしてしまったのだ。衝突の反動で瀬名は後ろへと倒れ込む。すぐさま亮太と奏斗が駆け寄ってきた。


「おい瀬名!大丈夫か!?」


「瀬名!…おい秀吉!ボールぐらい弾けや!」


「無茶いうな!お前だって気づいてなかっただろ!」


「うるせー!元はと言えばお前が話かけてきてダーリンの注意を逸らしたのがわりぃだろうが!」


「はぁ!?言いがかりにも程があんだろ!」


 奏斗の言いがかりを皮切りに二人の口論はヒートアップしていく。もはや瀬名のことなどお構いなしになった状況に数名のクラスメイトが二人を止めに入った。

 ゆっくりと起き上がった瀬名に気づいたクラスメイトが一人彼の元に駆け寄ってくる。


「瀬名、大丈夫か?」


「…ぐらぐらする。いってぇ…」


「大丈夫じゃないってことだな…ってお前、鼻血出てるぞ」


「え?」


 瀬名が手の甲で鼻を拭くとべっとりと赤い液体が彼の肌を染めた。ソレが地打とわかった瞬間、生暖かい感覚が鼻に纏わりつく。


「結構出てるな…保健室連れて行くか?」


「いや、大丈夫だ。一人で行ける」


「でも…」


「お前はあいつら止めるので手一杯だろ…?」


 瀬名はまだ暴言が止まない二人を見やる。止まるどころか瀬名の血を見て更にヒートアップしているようだった。


「…悪い。二人を止めた後で行くわ」


「おう。痛テテ…」


 瀬名は衝撃で狂った平衡感覚に苦しみながら辿々しい足取りで保健室へと向かった。



「だーっ、はぁ…」


 重い足取りを進めること2分ほど。ようやく見えてきた保健室の扉を見て瀬名はため息を吐いた。

 いつもは十数秒ほどの渡り廊下も今の瀬名には果てしなく遠い道のりだった。礼の二人がもう少し大人しくしてくれていれば誰かに連れてきてもらおうこともできたのだろうが、あいにく現実は非情だ。


「失礼しまーす…」


 瀬名はティッシュで鼻を押さえながらスライド式のドアをゆっくりと開ける。彼の言葉へ帰ってくる言葉は無く、どうやら先生は不在のようだった。


(…先生いないのか?最悪…とりあえず座るか)


 瀬名は回転式の丸椅子に座る。

 球技の授業があるたびに瀬名は保健室でお世話になっているため保健室の先生とはかなり親しい仲なのだが、鼻血を出している瀬名の顔を見て毎回笑い転げるために瀬名も毎回ムカついている。今回はそうはならないようだが。


(奏斗と亮太、収まったかな…あいつら仲いいくせにすぐに喧嘩するからな。もう少し大人しくしてくれるとありがたいんだが…ん?)


 平和への思いを馳せていると、瀬名の耳が足音を捉えた。廊下の奥から次第に近寄ってくるその足音は感覚が狭い。どうやら小走りになりながらこちらに向かってきているようだった。

 

(先生が戻ってきたのか?…でもなんでまた走ってるんだ?急ぎの用事でもあるのか?)


 次第に大きくなってくる足音に、瀬名は扉の方向を見つめる。開かれた扉に飛び込んできたのは瀬名が予想していた人間ではなかった。


「え、日向くん!?」


「月凪さん…?」


 滑り込むように保健室に入ってきたのはまさかの沙綾香だった。どうやらここに来るまで走っていたようで、多少の息切れの様子が見て取れた。

 驚くのも束の間、沙綾香は辺りをキョロキョロと見回し始めた。どこか焦っている様子は瀬名が昼休みに見た時の彼女と一緒だった。

 瀬名は瞬時に沙綾香の様子を読み取ると、ベッドのまわにの仕切りになっているカーテンを開ける。


「月凪さん!」


 沙綾香は少し戸惑いつつもカーテンの内側へと入っていく。沙綾香を隠した瀬名の耳はもう一つ保健室に向かってくる足音を捉えた。それが保健室の先生で無いことを瀬名は察する。

 一体沙綾香が何に追われていたのか。よくない考えを振り払いながら瀬名は構えた。

 扉がもう一度開かれる。


「…あれ?瀬名くん?」


「…角巻さん?」


 入ってきた人物はこれまた以外な人物だった。

 角巻つのまき佐奈さな。クラスではよく夢と一緒にいることの多い女子。瀬名の中での位置づけは『クラスのカースト上位の女子』と言ったところ。ショートカットがよく似合う明るい生徒だ。

 互いに首をかしげたところで瀬名が先に口を開く。


「…角巻さん?どうしてここに…」


 ぱっと見では角巻に怪我は見えない。内面的な部分で具合悪いと言うのなら納得はできるが、彼女の表情を見るにそれもどうにも違うようだった。

 角巻は言葉につまりながら手をわたわたとさせて答える。


「あー、えーっと…沙綾香ちゃん探してて」


「月凪さんですか?」


「先生が呼んでててさ。それで探しに来たんだけど…こっち来なかった?」


 瀬名は数秒の間を置いて答えた。


「来てないですよ」


「そっか。見かけたら言っておいてくれない?私が探してたよって」


 そう言い残すと、佐奈は保健室を後にした。瀬名は離れていく足音に耳を傾けた。

 無事に遠ざかっていったところで瀬名はカーテン越しに呼びかける。


「…もう大丈夫ですよ」


 シャッとカーテンがレールにそって走る。瀬名の言うことが嘘ではない事を確認した沙綾香は息を吐いた。


「はぁ…ありがと」


「大丈夫なんですか?なんか先生に呼ばれてるみたいでしたけど」


「大丈夫…多分」


「多分て」


 瀬名は苦笑する。自分がとやかく言うのも違うだろうと感じていたためにそれ以上の追及はしなかった。


「…なんか顔赤くない?てかその鼻…」


「あぁ、これはちょっとバスケでやっちゃって…球技苦手なんですよ」


「…へー、なんか以外」


「そうですか?」


「なんでもそつなくこなすイメージだったから…」


 褒められている訳ではなかったが、瀬名はなんだか気恥ずかしかった。スポーツができる男だったらこういうところで胸を張る事ができるのだが、瀬名には圧倒的にスキルがなさすぎた。

 気恥ずかしさを紛らわすように、瀬名は話を切り出す。


「…角巻さんとは仲が良いんですか?」


「いや?あんまり話したことは無いかな。…なんで?」


「いや、こういうときって仲の良い人が呼ぶのが普通じゃないですか。だからそうかなって」


「…多分だけど、先生が呼んでたってのは嘘だよ」


「…え?」


 沙綾香の言葉に瀬名は目を見開いた。沙綾香の表情を見るに、嘘という訳ではなさそうだった。

 沙綾香は自分の座っているベッドの横を手でポンポンと叩く。瀬名は高鳴る鼓動を抑えつつ、ふわりと良い香りのする沙綾香の隣に腰を下ろした。2人分の体重に反応してコイルがぎしりと軋む。


「…そろそろ話さないとかな」


「アレが嘘って…どういうことですか?」


「…日向くんは私の事、信じてくれる?」


 らしくなく少し眉尻を下げて沙綾香の瞳が瀬名を貫く。拭いきれない感情がこぼれ落ちている沙綾香を見て、瀬名の中で好奇心よりも”助けたい”という感情が勝った。

 不安にまみれた青い瞳に瀬名はゆっくりと頷く。


「俺は信じてますよ。月凪さんのこと」


「…そっか。簡単に人を信用しちゃいけないよ?」


「どっちなんですか…」


「ふふ、冗談。…けど、ここからは本当の事。だからどうか、真剣に聞いて」


 いつになく真剣な沙綾香の表情に瀬名は思わず身構える。誰も知らない彼女の腹の中を今から聞くと思うと、どうしても落ち着かないところがあった。


「…私に関する噂、いくつか知ってるでしょ?」


 瀬名はこくりと頷く。


「いくつかは本当…ってのは昼休みに話したよね。いくつかは嘘。…その嘘なんだけど」


 沙綾香は言葉を詰まらせながらも続ける。


「その…いくつかの嘘、それもよくないやつは誰かが流してるみたいなの」


 瀬名はその言葉に衝撃を覚えた。

 噂のいくつかが虚構のものであることは瀬名でも予想ができた。しかし、それらが意図的なものだとは予想できなかった。


「それって、誰がなんのために…」


「…分からない。私に個人的に恨みがあるのかもしれないし、面白がってやってるのかもしれない。でも、誰かがやってるってことは確かなの」


「…誰かがやってるってなんで分かるんですか?」


「…見たんだ。その…角巻さんが言ってたの」


 二度目の衝撃が瀬名の脳を直撃する。信じられない言葉の連続に瀬名の脳は処理が追いついていなかった。


「…角巻さんが?」


「…うん」


 重くうなづいいた沙綾香を見て、瀬名はそれが嘘ではないことを察する。


「本人が言ってたわけじゃなかったんだけど…その中のグループに角巻さんがいた。きっとさっき私を探しに来たのもなにかあったんだと思う…」


「そんな…でも、角巻さんがそんな事…」


「女の子は嘘で出来てるの。…こんな私が言えたことじゃないけど、簡単に信じちゃダメ」


 決して信じたくは無い事だったが、瀬名は信じざるを得なかった。女には裏はつきもの、とはよく言ったものだが、実際に目の当たりにすると受け入れられないものがあった。


「…先生には?」


「言ってない。…指導受けまくってる私が今更言ったところで信じてもらえるかどうか…」


「他に誰か頼れる人は…」


「私にいると思う?」


 その沙綾香の言葉に瀬名は口を閉ざさざるを得なかった。

 沙綾香は瀬名の顔を一瞥して続ける。


「…だから私との関係を切るのは今のうちだよ。このままだと、日向くんも巻き込まれちゃうかも」


 あり得ない話ではなかった。このまま沙綾香との関係を持っていれば瀬名の身も危ない。沙綾香のようにありもしない噂が広まることなんて目に見えている。

 それでも、瀬名の決意は変わらなかった。


「…そんな事しませんよ」


「…え?」


「たとえどうなっても、このまま見過ごすことなんてできません。だから、だから…!」


「え、ちょ、日向くん…」


 瀬名はすぐ横の沙綾香の手を優しく握る。その瞳には沙綾香しか写していない。


「はいはい、盛るのはそこまでにしてね〜」


 突然の声に瀬名と沙綾香はバッと声の方を見る。

 扉の方にはこの学校の養護教諭であるすめらぎ真名まなが立っていた。

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