第11話おかゆ
瀬名は階段を降りてキッチンへと立つ。小綺麗なダイニングキッチンは瀬名にとっては新鮮なものだった。
どさっと食材の入った袋をテーブルに置く。と言っても大半はおかゆに使うものではなくゼリーやらなんやらの冷蔵が必要な保存食のものだ。
袋から取り出した食材を冷蔵庫へと運んでいく。
(…冷蔵庫空っぽだ)
開いた冷蔵庫には食材が見当たらなかった。最低限の調味料は揃っているものの、食材どころか冷凍食品すら見当たらない。立派な冷蔵庫だったが、冷蔵庫としては機能していなかった。
(普段料理とかしないのかな?…人様の家の冷蔵庫見て考えることじゃないか)
思考をそこで打ち切った瀬名は冷蔵庫にぱぱっとしまうと、おかゆに使う食材だけを取り出す。少し棚を漁って鍋やら包丁などを引っ張り出す。若干埃を被っている辺り普段の使用は少ないのだろう。
(…よし、始めるか)
ワイシャツの袖をまくり、瀬名は調理を始める。と言ってもやることは至ってシンプル。冷凍ご飯をレンチンしてお出汁で煮ながら溶き卵を入れるだけだ。
シンプルだからこそ丁寧に心を込めて作る。これが瀬名の信条だ。対して料理にこだわりがある訳では無いが、今回は人様に出すのだから半端なものは出せない。気合を入れて作らなければ。
鍋に水と調味料を入れ、その後にレンチンしたご飯を入れる。少し煮たあとに溶き卵を回し入れて完成だ。
(よし…悪くはないだろう)
食器棚からお椀を取り出しておかゆを盛り付ける。少しネギを散らしてスプーンを取り出す。その際、瀬名の目線が付近の食洗機に止まる。
(…食洗機だ。これ欲しいんだよな。…でも使われてない?)
長らく使用されていないのか、それとも一度も使用されていない新品同様のものなのかどちらにせよ無用の長物になっているのは確かだった。
他にもキッチンから見えるリビングに目を向けると整えられたソファやおしゃれな照明が目に入る。しかし、どれも新品同様といってもいいほどに使用の形跡が見受けられなかった。
(なぜだろう。人の気配を感じない…?)
瀬名はまるで人の手が入らなくなった廃墟を見ているかのような、そんな空虚な感覚に襲われた。
(…少し考えすぎか)
瀬名はそこで思考を打ち切り、お盆を持って沙綾香の部屋へと戻った。
部屋に戻ると、沙綾香がベッドから起き上がって瀬名を待ち構えていた。どうやらかなりお腹が空いているらしく、腹部をさすっている。
「おまたせしました。お口に合えばいいんですけど…」
「…瀬名くんって料理できるんだ」
「そりゃ一人暮らししてるんですから多少はできますよ。ここまで言っておいてできないわけないでしょう?」
「いや、なんか改めて以外だなって。別に馬鹿にしてるわけじゃないからね?」
それを言ってしまうと更に怪しいのではという言葉は蛇足だと瀬名は言葉を飲み込んだ。
「…ん」
沙綾香はスプーンを手に取ると、口に運ぶわけでもなく瀬名に向かって突き出す。
「…なんですかこれ」
「食べさせて」
瀬名の思考がフリーズする。人は本当に困惑するとなんの言葉も出てこないと瀬名は知った。
数十秒のロード時間を要して瀬名の頭は動き出した。
「…何言ってるんですか?」
「私、具合悪い。自分で食べるの、つらい」
「何故にカタコト…」
沙綾香が言うには具合が悪いから食べさせろ、ということらしい。兄弟や親子ならまだしも、年頃の男女がやることではないというのは周知の事実だ。あたかも当たり前かのように要求してくる沙綾香を前に瀬名は困惑を隠せなかった。
(…なんでこの人さも当たり前かのように言ってるの?もしかして俺のほうがおかしいの?こういうのって当たり前なの?)
「ねぇ、早く。お腹ぺこぺこだよ」
「えぇ…」
「はーやーくー」
「まぁ…しょうがないか」
半ば押し切られるような形で瀬名はスプーンを手に取る。おかゆをひとすくいして沙綾香に向けて差し出す。
「ふーふーして」
「…やんなきゃ駄目ですか?」
「だめ」
もう仕方ないかと瀬名はため息まじりながらにおかゆに息を吹きかけながらおかゆを冷ます。何をやっているのだろう虚無感に襲われそうになるが、思考を放棄することで瀬名はそれを退けた。
冷まし終えたところで瀬名は沙綾香にスプーンを差し出す。
「…はい、あーん」
戸惑う心を必死に押し殺して瀬名はそれ以上の思考を打ち切る。
「あーん…」
ぱくりと沙綾香が瀬名の差し出したスプーンにかぶりつく。数回の咀嚼のうちに瀬名の心の拍動はマックスへと近づいていた。
味の不安は彼女の表情を見れば見るほどにその力を増していった。
沙綾香は瀬名のおかゆを食べて少し驚いたような表情になった。我慢ならない瀬名はついにこちらから問いかけた。
「…どうですか?」
「…似てる」
「え?」
「…ママの作ったおかゆの味に似てる」
予想外の返答に瀬名は黙り込んでしまう。
まずいということでは無いようだが、その返答にはどうも気になるところがあった。
瀬名が問いかけるよりも先に沙綾香が口を開いた。
「私、小さい頃は体が弱くてさ。今は少しマシになったけど、昔は今みたいに寒暖差が激しい時期は体調崩す事が多かったんだよね。その時にママが作ってくれてたおかゆの味にそっくり」
そう語る沙綾香の横顔にはどこか物寂しいものがあった。後悔、というよりはなにかを懐かしんでいるような哀愁を感じられるその姿に瀬名は心にきゅっと苦しくなるものを感じる。
思わず手を差し伸べてしまいそうなぐらいに儚く脆いその横顔に瀬名は優しく語りかける。
「俺も月凪さんのお母さんも、月凪さんのことを思って作ってるからですよ。きっと」
「そうなのかな。…そうかも」
ふふっと沙綾香が微笑む。心なしかいつもより赤い頬は熱に浮かされたのか、はたまた彼女の心がそうさせたのかは分からない。微笑む沙綾香を見て瀬名もまた微笑んだ。
「はい、早く次」
「…これまだやるんですか」
「あー」
雛に餌付けしてる親ってこんな感じなのかと感じながら瀬名は沙綾香におかゆを食べさせ続けた。
「…ご馳走様」
瀬名が沙綾香におかゆを食べさせ続けること数分。沙綾香はおかゆを完食した。食欲が衰えていないことに瀬名は安心する。この調子なら数日で復活することだろう。
「お粗末様でした。…下に行ってきますけど、なにか取ってきて欲しいものとかあります?」
「ん〜…下の廊下の突き当りに洗面所があるんだけど、そこからタオル取ってきて欲しい。あとポカリ」
「わかりました。それじゃ、取ってきますね」
瀬名は空になった皿をお盆にのせて部屋を出る。一階に降りて洗い物を済ませると、ポカリを冷蔵庫から取り出し、その足で洗面所へと向かう。
(ここか?タオルは…!?)
タオルがしまってあるのはどこかと辺りを見回す瀬名の視線は洗濯機横のかごに止まる。そのかごからは黒色の布がはみ出していた。特徴的なレースが付いたその布の正体は全貌を見ずとも瀬名にはわかった。
(あれは…月凪さんの…?)
この家にあるのだから使用者はこの家にいる者。そしてこの家にいるのは沙綾香だけ。親という可能性も捨てきれないが、数日間家に籠もっている沙綾香の可能性が必然的に高くなる。同性が使っているものならまだしも、異性が使っているものとなると年頃の男は興奮を覚えてしまうのが必然だった。
瀬名は無意識中にかごに向かって手を伸ばしていた。気づいた瀬名は自らの理性をもってして自制する。いくら彼女が見ていないとは言え、ここで手を伸ばしてしまえば戻れないところまで行ってしまう。変質者になど成り下がりたくない瀬名は必死に湧き上がる衝動をこらえる。
(駄目だ、落ち着け俺。欲に駆られてはいけない。今までだってそうしてきただろ。ここで手を出したら亮太以下だ。落ち着け…)
瀬名は自分に言い聞かせながら洗濯機横の棚に手を伸ばす。そこからタオルを一枚取り出すと、踵を返して沙綾香の部屋へと足を進めた。
(黒なんだ。…ってなに考えてるんだ俺は。失礼だろ。考えるな俺…)
湧き上がり始める煩悩を無視して瀬名は部屋へと戻った。
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