第15話屋上
「はぁ、はぁ、はぁ…いない」
瀬名は校舎の端から端まで人の目など気にせずに駆け抜ける。肩を誰かにぶつけようとも今の彼には関係無い。
ようやく少しだけ仲良くなれた彼女が今、窮地に陥っているのだ。このまま終わりなんて、そんなのは寂しすぎる。
『そう。だから、あんたが助けてやりなさい」
数分前に真名から投げかけられた言葉が頭の中でこだまする。自分が救いの手を差し伸べなければ誰が彼女を救うと言うのだ。彼女を一人にさせたくない。勘違いされたまま消えていくなんて、どんな罰よりも悲しい。せめて自分だけでも近くで寄り添ってあげられれば。曖昧だった理由が徐々に形になっていく。
(どこにいるんだ月凪さん…)
瀬名は逃げるように駆け出した彼女の背中を思い出す。つい最近見た背とよく似ているその背中は、他人を威圧する力や威嚇する姿勢などは無く、ただ非力で無力な彼女の内面が現れていたように思える。だから一人になって、他人を利用しながら逃げて。
「…あそこか」
瀬名は窓の外に見える”そこ”を見上げる。いるという確証は無いが、瀬名は沙綾香の気配をそこに感じていた。
鳴り響いたチャイムなどお構いなしに瀬名は駆け出した。
誰もいない廊下を駆け抜け、階段を二つ飛ばしで駆け上り、一分一秒でもと早まる気持ちを抑え、必死になって足を動かし続けた瀬名はようやくたどり着いた扉のドアノブに手をかけた。
ドアが開かれた音が晴天の青空の元に鳴り響く。啜り泣く声が耳に入った瀬名は視線を付近のフェンスへと向ける。自然と足がそこへと向かって動く。
探し求めた沙綾香はそこにうづくまっていた。
「…なんで来たの」
いつになく沈んだ沙綾香の声は瀬名の心にずっしりと響いた。近くにいながら彼女を守れなかった罰だと言わんばかりの重みに瀬名は少し眉をひそめた。
「…月凪さんが心配だったんですよ」
「もう、授業始まってるけど」
「それはお互い様でしょう」
瀬名は沙綾香の隣に腰を下ろす。そのまま青一色でそれ以外に何も見えない空を見上げた。
「…私には何もないんだよ」
「…」
「…人を騙して、うまく利用したら捨てるだけ。そうしたらまた新しい
泣きじゃくった子供が叫んだ言い訳のように沙綾香は言葉を並べていく。行き場のない感情が瀬名を襲う。
「日向くんだって…たまたま席が隣になっただけで私に手玉に取られた馬鹿なんだよ」
顔を伏せた沙綾香の表情は瀬名には見えない。だが、彼には分かっていた。今彼女がどんな表情をしているのか。
「…嘘は良くないですよ」
「え…」
「苦しくなるぐらいだったらそんな言葉、吐かないほうがいいです」
少し充血した沙綾香の瞳にようやく瀬名が映る。涙で潤んだ瞳はまるで虚を突かれたような不安定さに見舞われて震えていた。
「苦しくなって…無い。今までだってこうやって…」
「限界が来るのは時間の問題です。心っていうのは自分が思うよりも弱くて儚いものなんですよ」
「そんな…はずは…」
沙綾香の目線が地面へと落ちる。今度は顔を隠さずに涙を流し始めた。その涙が流れるたびに瀬名の心がズキンズキンと痛む。
「どうして…」
「ようやく少しわかったのにここでおさらばなんて、俺寂しいですよ」
瀬名は泣いた子供ををあやすように沙綾香に声をかける。たとえ突き放されてもここで手を差し伸べるのをやめてしまったらきっと彼女は遠いところへ行ってしまう。それだけは絶対に嫌だ、と意地にも近い感情が瀬名の心の中で湧き上がる。瀬名はもう引き下がる事を考えていない。
「…日向くんがどう思っていようと知らないもん。騙されたのが悪いんだよ」
「なら、まだ騙されててもいいですよね。…俺は月凪さんを軽蔑したりなんてしませんよ」
「…そんな安い言葉なんて貰っても嬉しくない」
「ごめんなさい。でも、これが俺の精一杯なんです。月凪さんを放っておくことなんて俺にはできません」
今度は瀬名の言葉が沙綾香の心にずっしりとした重みを与えた。
授業や他人の目などお構いなしに、自分のことだけを考えてここまで突っ走ってきた瀬名からの思いが沙綾香の心に残った僅かな希望の炎を焚き付ける。
「…もう一人にして」
瀬名を突き放そうと沙綾香がそう吐き捨てる。しかし、今の彼はいつになく頑固だった。
「…一人になってどうするつもりですか?」
「私は最初から一人だった。だから元に戻るだけ」
「それがどんなに辛くてもですか?」
瀬名の言葉に沙綾香は言葉を詰まらせた。どうにかして反論の一つや二つ行ってやりたいところだったが、どうにも彼女が自身にかけた誤魔化しが徐々に解けてきているようだった。
沙綾香はフェンスに手をかけながらゆっくりと立ち上がる。
「日向くんがどこかに行ってくれないなら私がここを離れる」
「…っ、俺じゃダメなんですか?」
瀬名の必死の問いかけは沙綾香の耳をするりと抜けていく。
「…今までだってこういうことはあった。でもその度に本当の私を見た人は一人残らず私の前から消えた。…きっと日向くんだってそう」
「そんな、俺は__」
「もういいんだよ!」
沙綾香を引き留めようと伸ばした瀬名の手が彼女の袖にかかる。しかし、荒げた沙綾香の声に思わず袖を放してしまった。
その刹那に固まってしまった瀬名の表情を見て、逃げようとした沙綾香の動きが止まる。束の間の後悔が彼女を引き止めたのだ。
「…もう、上辺だけの会話は十分。何十回だってやってきた。もう飽き飽きなの。また苦しくなるなら、自分から…」
ぎゅっと網目状のフェンスを握りしめた時だった。ガコン、と鳴り響いた音。眼の前の光景が90度傾く。それとほぼ同時に沙綾香の体は浮遊感に襲われた。
瀬名は眼の前の光景で道中の張り紙を思い出す。
『”老朽化”につき、立ち入り禁止』
「…は」
人は本当にパニックになると本当に声が出ないのだと沙綾香は知る。視線が手を差し伸ばしてくる瀬名から空へと移る。なにもない自分の心のように晴れ渡った空は皮肉なほどに美しかった。
自分はこのまま落ちるのだ。そのほうが都合がいい。遅かれ早かれこうなる運命だったのだ。今更自分がいなくなったところなんて困る人間なんていない。募る思いに蓋を閉ざすように沙綾香は瞼を閉じる。
「…?」
来る衝撃を待ち構えていた沙綾香はいつまでもその衝撃が襲ってこないことに不思議に思って瞼を開く。視界は相変わらず180度ひっくり返ったままだったが、手首あたりに感じた違和感に視線を上げる。
「…日向…くん…?」
沙綾香の手を瀬名が握っていた。沙綾香の重さを腕一本で支えるのはいささか重すぎるのか、小刻みに震えている。
「っ、月凪さん!」
その瞳は嫌というほどに沙綾香の姿を映していた。
「…なんで」
「なんでじゃないでしょう…目の前で人が死にそうなのに、見捨てられる人がどこにいるんですか!」
沈んだ沙綾香の瞳に訴えかけるような瀬名の言葉は次第に熱を増していく。絶対にここで放してたまるかという思いが伝わってくる程に瀬名の声には彼の感情が乗っていた。
「放して。…このままだと日向くんも落ちちゃうよ」
「放しませんっ…このまま月凪さんを死なすぐらいなら…!」
「…しつこい男は嫌われるよ」
沙綾香の言葉などお構いなしに瀬名は続ける。
「嫌われて助けられるならそれでいいです。…俺は、月凪さんのことを知りたいんです。普段はミステリアスで、いろんな噂が絶えない人だけど…笑った顔が可愛かったり、冗談を言ったり、お弁当を忘れたり、以外なところもある貴方の事をもっと知りたいんです!」
瀬名の言葉に偽りはない。純然たる彼の瞳を見て沙綾香は確信する。それだけで確信してしまったのはもはや彼に根負けしてしまっている証拠だったのかもしれない。
沙綾香の手を握った瀬名の手が次第にずるずると離れていく。彼女を引き上げようと踏ん張る瀬名の力にも限界が近づいていた。
「月凪さん!手を!」
瀬名が手を差し伸べる。いつものように穏やかな表情ではなく、必死に、沙綾香を助けたいという思いを全開にした表情で。
沙綾香は片手を伸ばした。
「…!よし…!」
瀬名は握った両手にしっかりと力を込めて沙綾香を引き上げる。瀬名はついに沙綾香を引き上げることに成功した。
「っ、はぁ、あ”ー……月凪さん…ちょっと落ち着きましょうか」
「…落ち着きましたか?」
「…うん」
フェンスが外れて飛び降り大歓迎となった場所からは少し離れたところで瀬名と沙綾香は息を整えた。
流石の沙綾香も屋上から宙吊りになるのは心に応えたようで、顔色が良くない。あの時こそ彼女は負の感情に囚われていたのだからいいものの、振り返ってみると腹の底が冷える感覚が込み上げてくるような体験だった。
「…ごめん。私のためにここまで来てくれたのに」
「いいんですよ。月凪さんの事助けられたならなによりです」
少しぐらい否定してくれてもいいのに、と沙綾香は呟く。どんなときでも明るい表情を向けてくる瀬名に沙綾香は歯がゆいものを感じていた。
むず痒そうな表情の沙綾香に瀬名が語りかける。
「…あまり自分を卑下しないでください。例え月凪さんがどんな人でも、俺は軽蔑したりなんてしませんから」
「…本当に?」
沙綾香はほんの僅か、一握りほどの希望に手をかける。彼女が聞き返したのは瀬名に対する信頼の現れだ。
「はい。この心に誓って月凪さんを軽蔑したりなんてしません。…だから、月凪さんのこと、これからも教えてください」
「…うん」
沙綾香はぽつりと瀬名に聞こえるかギリギリの声量で呟いた。
キーンコーンカーンコーン
「…あ」
「…サボっちゃったね」
「ですね…教室、戻りますか」
瀬名はさり気なく、沙綾香に手を差し出す。沙綾香は戸惑いながらもその手を取った。先程も何度と手を繋いでいたというのに沙綾香の心の鼓動は速度を早めていく。その事実はうるさいくらいに沙綾香に”その感情”を訴えかけていた。
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