第6話どう思う?
平日の昼下がり。授業中に苛まれた尿意から瀬名は男子トイレへと駆け込んでいた。休み時間に野郎共で開催したコーラ一気飲み選手権が祟ったのか、瀬名の膀胱は破裂寸前だった。
授業中も尿意のせいで全く集中できず、危うく理性が決壊してしまうところだったが、勝ったのは彼の骨盤底筋だった。
どうにか尊厳を保つことができた瀬名は勝利の微笑みを浮かべてトイレを出た。これから奏斗と亮太を誘って購買に向かおうか、と考えていたところで彼体は教室とは真反対の方向に引っ張られた。
「え、月凪さん?」
瀬名の手を引いていたのは沙綾香だった。いつものクールな表情とは違い、今はどこか焦った様子にも見えるその横顔に瀬名は疑問を抱いた。
瀬名が一体どうしたのか、と問いかけようとしたところで沙綾香が重く閉ざしたその口を開いた。
「…ごめん。なにも言わずについてきて」
その言葉を聞いた瀬名が最初に思った感想は『映画でよく見るやつだ』だった。
ある時はスパイに追われるヒロインが主人公を巻き込む時の、ある時は仲間が追われるチームメイトをさり気なく逃がす時の、定番のセリフだ。そんなセリフを使わなければいけない状況に彼女は陥っているのだろうか。はたまた自分が陥ってしまっていたのだろうか。そんな思考を張り巡らせながら瀬名は引かれるがままに沙綾香についていく。
(これまたどういう状況なんだ?なんで俺が…月凪さん、焦ってる…?)
早足になった沙綾香の背中に瀬名は隠しようのない焦りを感じていた。まるでなにかから逃げるような、危機迫る草食動物のような、一方的に狩られるだけの弱者のようなそんなか弱さを感じていた。
瀬名はちらりと背後を見やる。誰かに追われてるにしろ、人が多すぎてそれらしき人間は確認できなかった。いるのだったら少しぐらいは目立つ格好をしてほしかったと心の中でいるかも分からない追手に対して愚痴をこぼした。
瀬名の思考は一つの疑問へと切り替わる。沙綾香がなぜ自分を現在形で連れ回しているのか、という疑問だ。
今の沙綾香の様子を見るに、なにかから逃げているということは間違いない。囮にするのならば既にそうしているはず。分かれて撹乱させるつもりのならそう言えばいい話だ。どちらにも当てはまらないのが今の状況だった。
(どこに向かってるんだろう…人目のつかないところ、とかかな。だとしたら…)
沙綾香の背中を見るに、逃走経路に迷っているというわけではなさそうだった。むしろどこかへと迷わず向かっている様子だ。瀬名の見立てが正しいのなら、彼女は追手を振り切れるようなところへと向かっているはず。さすれば、それに該当するところは一つだけだった。
瀬名は手を引かれるがままに階段を駆け上った。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
バタン、と扉を閉めるのと同時に瀬名は膝に手をついた。
教師の目など気にもとめずに二人で廊下を駆け抜け、階段を普段なら一段飛ばしのところを二段飛ばしで駆け上り、別校舎でもそれを繰り返したところでたどり着いたのは別校舎の屋上だった。
昼休みの屋上、と言われたら人で賑わっているイメージがあるだろうが、この別校舎の屋上には人が集まらない。老朽化が進んでいるために手すりなどが危険なぐらつき方をしているので案外近寄らない人が多いのだ。それを逆手に取って二人は立入禁止のコーンを飛び越えて来た。
案の定人のいない屋上で瀬名は疲労感のままに座り込んだ。続けて隣に沙綾香も座る。
「…流石にもう大丈夫かな。日向くん、大丈夫…?」
「えぇ、なんとか…月凪さんの方こそ大丈夫ですか?」
「まぁ…大丈夫かな。…巻き込んでごめん。こんなに長引くはずじゃなかったんだけど…」
『日向くんがいればすぐに諦めると思ったんだけど…』と呟く沙綾香の横顔に瀬名は一旦の安堵の様子を感じ取った。一旦事態は解決したらしい。
瀬名は絶え絶えな息がまだ整わないうちに沙綾香に問いかけた。
「…何があったんですか?なにかから逃げてる感じでしたけど…」
そう問いかけられた沙綾香は口から歯切れの悪い声を溢しながら呟いた。
「…ここまで連れ回しておいて申し訳ないんだけど秘密じゃダメ?」
それならと瀬名は深く追及するのはやめた。
少しならと思うところもあったが、沙綾香のなにかを危惧している表情は瀬名にことの重大さを示していた。それに触れるのが少し怖かった、というのが彼の本音だ。
「そのかわりと言ったらアレだけど…私にできることならなんでも…」
「…なんでも、ですか?」
言葉の綾と分かって放った瀬名の一言に沙綾香は顔をほんのりと赤らめた。
「えっ、あっ、いや、その…」
「あはは、冗談です」
「…ちょっとだけ恨んでいいかな」
からかわれたことが気に食わなかったのか、沙綾香は頬を赤らめながらもムスッとした顔で瀬名を睨む。沙綾香に関する数ある噂にもそういう類のものはあるが、以外にも慣れていないらしい。噂がすべてではない、ということが改めて瀬名の脳内に記された。
「…少し、聞いてもいいですか?」
「…答えられる範囲でね」
何を聞かれると思っているのか、沙綾香は念押しするように言い放った。その表情は未だに晴れたものではない。
なにか勘違いをされているなと感じた瀬名は苦笑いを浮かべながら問いかけた。
「月凪さんのこと、教えてください」
「…私のこと?」
以外だったのだろう。そう書かれた顔で沙綾香は呆けた。
「なんでも聞いていいんですよね?」
「そうだけど…そんなことでいいの?」
「はい。前々から気になってたんです」
沙綾香の雰囲気を一言で現すのなら『ミステリアス』。数々の噂と彼女の掴めない性格が彼女を取り巻き、彼女に関する一切の情報をシャットアウトしている。
今まで付き合っていた男子生徒から聞こうとしても、何も出てこない。それは彼女が徹底的に個人情報を口にしないからだ。それが原因で破局した、という噂もある。それほどまでに彼女は謎に包まれているのだ。解き明かした先には一体何があるのか。はたまた触れてはいけないパンドラの箱なのか。瀬名の好奇心がそそられるには十分過ぎるものだった。
「…聞いてもつまんないけど」
沙綾香は瀬名の言葉になにか裏があると見て怪訝そうな表情を浮かべていた。
しかし、まさか変な事を根堀葉掘り聞く気なんじゃないだろうかと懸念する沙綾香の思考は瀬名を巻き込んでしまったという事実が貫いた。
「大丈夫です。俺が知りたいだけなんで」
「…まぁ、いいけど…」
沙綾香からの了承を得た瀬名は質問を始めた。
「沙綾香さんのその髪ってどうなってるんですか?青と黒が入り混じってますけど」
「これ?これは単にメッシュなだけ。髪染めてたほうが変な人とか近づいて来ないと思ってたんだけど…逆効果だったかな」
沙綾香は愚痴るように呟いた。実際、染めなかったとて状況が変わるとはとても思えない。むしろ、染めているからこそ彼女の女狐は加速していると言えよう。瀬名はそんな事気にしてもいないのだが。
「綺麗ですよね。他の人にはない感じが素敵です」
「きれい…?…日向くんって髪フェチ?」
沙綾香はジト目を瀬名に向ける。どうにも彼への疑いが抜けきれていないらしい。普段変化のない表情をしている彼女の横顔を見ている瀬名からするとかなり新鮮な光景だった。
「…否定しないんだね」
「あぁ、いや、なんか新鮮だなって」
「…私の髪がって事?」
「いやなんでそうなるんですか」
「だって日向くんが否定しないんだもん」
沙綾香からの疑いの視線は途絶えることはない。長い髪を両手で掴んで瀬名から遠ざけるようにしている。弁明しても返って怪しいだけだと踏んだ瀬名は話題転換を強行する。
「好きなものとか教えてくださいよ。気になります」
「好きなもの?…う〜ん、猫とか?」
「おぉ、案外女の子らしい」
「…私なんだと思われてるの?」
瀬名は猫と触れ合う沙綾香を想像してみる。表情までは想像できなかったが、そこがとても和やかな空間になることは容易に想像できた。
「猫、飼ってるんですか?」
「…飼いたいけど、一人じゃお世話できないから」
そう呟く沙綾香の横顔は惜しいというよりもどこは寂しさを感じさせるものだった。
なにか機嫌を損ねるような事を言ってしまっただろうか、と瀬名は自分の言動を振り返る。どうにも気になるところは見当たらなかったが、強いてい言うなら一つ、というものが瀬名にはあった。
「…あの、もしかして猫アレルギーなんですか?」
「え?いや違うけど…なんで?」
「なんていうか…悲しそうな顔してたので」
沙綾香は瀬名の言葉に少し驚いたように目を見開く。しかし、それを口にすることはなくすぐに表情を取り繕った。
「あー…目に少しゴミが入ってさ」
言い訳にしては少し苦しいものだった。流石の瀬名も違和感を感じざるを得ない。しかし、そこに踏み入るには多少の勇気が必要だった。自分を利用しようとしているかもしれない彼女に、その表情すらも偽りかもしれない彼女に同情するということは、自分の心を預けるのも同然。噂通りならば、そのまま使い古されて捨てられるなんて容易に想像できる。瀬名は言葉を失うしかなっかった。
「そう、ですか…逆に嫌いなものは?」
一つ間を置いて沙綾香は答えた。
「…少なくとも髪フェチの人に髪をジロジロ見られるのは嫌かな」
「それはもう水に流してくださいよ…」
「冗談だよ。…でも、性格の悪い女は嫌いかな」
その言葉に嘘は無いようだった。その時の沙綾香の横顔には、気疲れした時のような疲労感と死刑前の囚人のような罪を後悔する感情が入り混じっていた。
沙綾香の横顔に向いていた瀬名の目線が沙綾香と合う。
「…お前も性格悪いだろって?」
「言ってないですよそんなこと」
「でも、心のどこかでは思ってるんじゃない?…人間っていうのはね、案外自分に似た人間を嫌うことも多いんだよ。同族嫌悪ってやつかもね」
言い返すのも野暮だと思って黙っていた瀬名だったが、沙綾香の横顔を見てやはり否定しておくべきだったかと後悔した。
少なくとも現時点では瀬名は沙綾香が性格の悪い女だとは思っていない。噂のいくつかを実際に目にした彼だったが、どれも沙綾香を女狐に決定づけるものだとは思っていなかった。それが正しいのかは分からない。だが、瀬名は正しいとそう信じている。
それを確かなものにするために、瀬名は口を開いた。
「…最後に一つ、聞いてみてもいいですか?」
「いいよ。何?」
「…月凪さんの噂は全部本当なんですか?」
沙綾香の核心に迫るその問いかけに彼女は僅かな沈黙で場を取り繕う。少しの間の思考は、きっと瀬名を見定めるためのものだったのだろう。下手したら嫌な体験や黒歴史を掘り起こすことにすらなりかねないのだからそのぐらいは当然だろう。この数秒間が瀬名には数倍の時間のように感じられた。
そして沙綾香は口を開いた。
「全部が全部ってわけじゃないけど、本当のやつが多いよ」
予想通りの回答に瀬名は『やっぱり』と呟く。こんな人があんな事をするわけ無いという瀬名の見立ては外れてはいないようだった。
「お酒飲んでるってやつは?」
「私が酔っ払いに見える?」
「聞いてみただけですよ。これぐらいだったら自分でもわかります」
そんなふうに軽口を叩いた瀬名の横顔を見て沙綾香は少しだけ頬を緩める。そして、自分の中の”つっかかり”をこの人になら、と口を開く。
「…っねぇ、あのさ」
キーンコーンカーンコーン
曖昧な決意はチャイムによってかき消された。言い切れなかった言葉が数回沙綾香の中で繰り返された後に消えていく。沈黙が二人の間を取り繕った。
「…」
「…戻ろっか」
「そうですね」
自分はまだ許されていない。心に残る痛みに沙綾香は自らを戒めた。そんなことに瀬名が気づくはずもなく、二人は急いで教室へと戻った。
「佐奈、あいつは?」
「途中で見失っちゃった。…なんか途中で瀬名くんと何処かに消えた」
「…ふーん。ま、また後でいいや」
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