第8話家

 手を繋いでから歩くこと十数分、自分が住んでいるところとは比べ物にならないほどの家が目立つ住宅街に足を踏み入れた瀬名はまた違う意味でドキドキしていた。

 異性と二人きりで手を繋いでいる、ということよりもこんなところに自分がいていいのだろうかという不安が瀬名の心臓の鼓動を加速させている。

 目線で辺りの景色を見回す瀬名の頭の中には新たな疑問が浮かんできた。


(ここって確か金持ちが多いって噂の住宅街…やっぱり月凪さんの家って…)


 それと同時に瀬名の脳裏には一つの噂が蘇ってくる。それは沙綾香にはこの住宅街に彼氏__もとい財布にしている男がいる、という話。聞いたのもかなり前のことであったから瀬名は忘れいた。

 そのため、次に瀬名を襲ったのはとてつもない不安だった。


(…待てよ。あの噂が本当なんだとしたらこの状況まずくないか?彼氏さんから見たら俺って…)


 顔から血の気が引いていくのが自分でも理解できるほどに瀬名の顔は青白くなっていた。

 このままでは自分が沙綾香の浮気相手になってしまう。他の人ならまだしも自分がそうなるのはまずいと判断した瀬名は言い訳の弁を考え始める。

 ただの友達。迷子で案内してもらっただけ。実は女でした。瀬名の脳内には不思議な程にポンポンと言い訳が浮かんでくる。信用できるかは別として。

 

「…?日向くんどうしたの?顔色悪くない?」


 瀬名の様子に気づいた沙綾香が顔を覗き込んだ。瀬名はなんでもないですよ、と愛想笑いでなんとか誤魔化すが、事態は一向に解決に向かっていない。瀬名はますます自分を追い込んでいるこの状況に苛まれるばかりだった。

 しかし、瀬名の脳は言い逃れする方法ではなく、別の結論を導き出した。


(…いや待て。まだ本当だって決まったわけじゃないだろう。まだ自分の目で見たわけじゃないし、あれはまだ噂の域を出ない。ここで忌避するのは早計だ。いたにしてもあれは結構前に聞いた噂だし、今はいないっていう可能性も…)


「…日向くん、なんか悩んでる?」


 不意に沙綾香が瀬名に語りかけた。いつものようなふわふわした表情ではなく眉間にシワを寄せたその表情にどこか悶々とした感情を感じたのだろう。

 自分の世界に入り込んでいたばかりに瀬名は反応が遅れる。


「…へ?」


「なんからしくない顔してるよ。…悩み事は抱えてても大きくなっていくだけだよ」


「あー、いやー…」


 いっその事ここで聞いてしまったほうがいいだろうか、と苦悩する瀬名。瀬名と沙綾香はそんなに親しい訳でもないし、まだ友人と呼んでいいのか怪しいレベルだ。そんな相手に『彼氏がいますか?』なんて聞くのはデリカシーがなさすぎるのではないのだろうか。いやしかしこのままでは自分の身が破滅しかねない。と瀬名は堂々巡りな思考を繰り返す。

 究極の二択から彼が選んだのは”保身”だった。


「…その、すっごい失礼なこと聞いちゃうんですけど…沙綾香さん、彼氏っています?」


「彼氏?…いないけど…」


 そう聞いて瀬名がほっとしたのも束の間、沙綾香の顔がかあっと赤く染まる。瀬名から投げかけられた質問がどうやら悪さをしたらしい。そんなことに瀬名が気づくはずもなく、赤面した沙綾香に首をかしげるばかりだった。


「月凪さん?顔赤いっすよ?」


「…日向くんって結構鈍いよね」


 瀬名はその言葉にすら首をかしげた。彼の察しの悪さには沙綾香もため息をつくばかりだった。


 更に歩くこと数分。瀬名と沙綾香の足は白と黒で統一されたモダン調な家の前で止まった。瀬名がまさかと呟くよりも先に沙綾香が口を開く。


「ついたね」


「…でかいっすね」


「そう?結構普通だと思うけど」


(感覚が狂ってる…ということはやはり…!)


 瀬名の読みが正しかった事がここで確定した。一体親はどんな事をしているのかと聞きたいところだったが、そこを聞くのは失礼だと我慢して口をつぐんだ。

 瀬名の手を握っていた沙綾香の手がするすると抜けていく。ここまで来たのだからもう十分、ということだろう。


「送ってくれてありがと。助かった。…えと、その…」


 まるで幼子のように拙い言葉で紡いだ言葉はそこで途切れた。先程赤面していたことからも瀬名は彼女の様子に疑問を抱く。何が言いたいのだろうか。こちらから手を差し伸べたほうが良いのだろうか?彼なりの気遣いが脳裏によぎるが、瀬名は沙綾香の言葉を待つことにした。

 沙綾香はためらう気持ちを押しのけて口を開いた。


「…連絡先、交換してもいい?」


「いいですよ。LINEでいいですか」


 沙綾香の願いを快く引き受けた瀬名はポケットから自らのスマホを差し出す。沙綾香は手早く画面を操作すると、瀬名のスマホに自分の連絡先を入れた。自分のスマホにも入れた後に沙綾香は瀬名にスマホを返す。


「…ありがと」


「いえいえ。俺も交換しておきたかったので」


 瀬名はそう言ってにっこりと微笑む。その表情を見て沙綾香ははにかんだ。


「えっと…また明日」


「はい。また明日」


 沙綾香は瀬名を横目に門の奥へと消えていった。


 沙綾香が家の中へと入っていくのを見届けた瀬名はくるっと振り返って家へ向かって歩き始める。

 少しさびしくなった片手に残る熱はどこか物寂しさまで感じさせた。これから暑くなる季節だと言うのに、その熱が欲しいと思ってしまうぐらいに愛おしい。まだ知らないことも多い彼女に対してそう感じてしまっているのは言い表せない心情が物語っていた。鈍い彼にその自覚はないが。


 薄暗くなった道では街灯がぽつりぽつりと点滅を始めていた。いつもとは違う新鮮な景色を楽しみながら歩いていく。


 噂の絶えない彼女だけれど、未だ胸の内知れない彼女だけど、まだ隣にいられたら。皐月の空に瀬名は思いを馳せた。






 そんな矢先だった。彼女が学校に来なくなったのは。

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