第4話誘惑

 体育終わりの教室。野郎共の着替え場所となっているこの更衣室ではこの季節は酸っぱい匂いと制汗剤の匂いが入り交じる。

 少し汗でベタついた肌を汗拭きシートで拭った瀬名は丸めたシートをゴミ箱へと投げ込む。丸められたシートは惜しくもゴミ箱の縁に当たって跳ね返った。


「おいおい、ゴミぐらいちゃんと入れろよ…」


 呆れた様子で亮太がシートを拾った。そして瀬名の代わりにゴミ箱を投げ入れる。


「雑用は家臣の仕事だろ?」


「だから誰が秀吉だよ。勝手にお前の家臣にするな」


 もはや恒例となっているやり取りに瀬名は頬を緩める。これがないとな、と思っている辺りかなり自分も悪い性格だと自分自身に呆れながらもそこが好きな部分でもあった。


「なぁ瀬名、”あの噂”聞いたことあるか?」


 瀬名がジャージに着替え始めたところで一人のクラスメイトが彼に語りかけた。その言葉の意味が分からなかった瀬名は首をかしげた。


「月凪さんの噂だよ。なんでも、最近いろんな先輩方に声をかけては振り回してるんだとさ」


 またか、と言いたくなる噂だった。話しかけてきたクラスメイトの顔を見るに、瀬名を怖がらせたいのだろう。そう悟った瀬名はできるだけ平然を取り繕って聞き返した。


「へー…それ本当なの?」


「さぁな。あくまで噂だ。…でも、お前も近いうちに狙われるかもな。せいぜい財布にならないように気をつけな」


 『そんなに悪い人ではないと思うんだけど…』と言いたいところだったが、どうせ返ってくる反応は見飽きたものだと予想した瀬名は口に出さずに飲み込んだ。

 席替えから一日経ったばかりだったが、瀬名の隣に座る沙綾香は変わったことをするような気配はない。むしろ教科書を見せてくれる辺り良心的な心の持ち主といえるだろう。だが、それが瀬名以外に伝わることはない。噂による先入観からか、彼女に関わろうとする生徒は少ないのだ。瀬名以外に2、3人いるかどうかだろう。瀬名はそれが不思議でたまらなかった。

 

 そんなことに思考を巡らせてると、瀬名は自分の喉が潤いを求め始めたのを感じた。朝に通学路の自販機で買っておいたスポドリで水分を補給しようとするが、すでに中身は底をついていた。

 仕方ない、と瀬名は財布を取り出す。少々手間ではあるが、1階にある自販機へ向かうことを決めたのだ。


「なぁ瀬名ー、あっちぃから俺の分のやつも買ってきて〜」


 教室を出ようとする瀬名に亮太が言う。手をパタパタとさせている彼は自分から動きつもりはないらしい。


「なんでだよ…パシリに行くなら普通は家臣だろ」


「誰が秀吉だよ。頼むって。暑いんだよ」


「いや俺も暑いんだけど…」


「瀬名、俺も頼む〜」


「俺矢文サイダーな!」


「ダーリン、いつもの頼む!」


「なんで俺がパシリ決定されてんだよ…仕方ねぇな」


 いつの間にか自分がパシられることが決まっている流れに瀬名は疑問を抱かざるを得なかった。しかし、彼の性格上反論することもできず、タオルを片手に渋々教室を出た。




「えーっと、矢文サイダーにカフェオレ…」


 自販機前までやってきた瀬名は頼まれた品を一つ一つ買っていた。いちいち小銭を入れるのは面倒臭いため、札を入れて一気にボタンを押していく。

 

「ったく、自分で買いに来いっての…おっも」


 数本のペットボトルの総重量はダンベルに匹敵する重量を兼ね備えている。体育の後で体力が減った状態で運ぶのはいささか骨の折れることだった。

 両手で抱えても少し運びにくいため、タオルを活用して一気に持ち上げる。動きにくいことには変わりなかったが、ないよりはマシだった。


「…あ」


 今から教室に戻ろうかというところで瀬名の視界に見覚えのある人影が目に入った。瀬名はその人影の姿を目に捉えると、反射的にゴミ箱の裏に身を隠した。


「___でさ、沙綾香ちゃん」


 沙綾香ともう一人、人影があったようだ。瀬名は少しだけ身を乗り出してバレないように二人を視認する。茶髪の浮ついた印象が強い男子生徒だった。あまり見たことのない生徒のため、上級生だと判断した。

 少し離れたところの自販機の前で沙綾香に何やら話しかけている。ヘラヘラとした態度の男子生徒に対して、沙綾香はいつもどおりの無表情だ。


 瀬名は先程クラスメイトから聞いた話を思い出す。

 沙綾香が上級生を振り回しているという噂。数ある彼女の噂の一つだ。この噂も瀬名はどうせ噂だとうあたがっていたが、この光景を見るにどうやら本当と言わざるを得ないらしい。

 しかし、そう結論付けるにはまだ早かったようだ。


「…あの」


 二人のやり取りを見るに、どうやら男子生徒が無理矢理沙綾香に絡んでいる感じらしい。沙綾香が少し怪訝そうな表情で男子生徒の手を退ける。触れられることがあまり好きではない彼女だからこその反応なのだろう。 


「冷たいなぁ〜誘ったのそっちじゃん?」


「…それはもう終わった話じゃないですか」


 なにやら聞いて言いのか分からない会話の内容に瀬名は動揺してしまった。その会話の節々からはその男子生徒と沙綾香との関係性を表しているようで、瀬名は思わず聞き入ってしまった。


「いやいや、あんな素っ気ない終わり方は無いでしょ?…そうやって他の奴も捨ててきたわけ?」


「別に捨てたわけじゃありません。…食い違いがあったんですよ」


「…はぁ?お前、そろそろ言い訳見苦しいぞ。俺の事馬鹿にしてんじゃねーよ!」


 その男子生徒は沙綾香の肩をつかんだ。先の言動からも察するに明らかに頭に血が登っている。助けに入ったほうが良いだろうか。いや、ここで盗み聞きをしていたことをバラすには___。瀬名がそう思考しているうちにも時間は過ぎていく。

 沙綾香が手を退けた数秒後、その快音は響いた。


「きゃっ…」


 その男子生徒は沙綾香の頬に向かって手を振り抜いた。衝撃で沙綾香は倒れ込み、地面に手をつく。そこに追撃と言わんばかりに男子生徒は手を振り上げた。不幸なことに今はここにいる三人以外に他の人間はいないらしい。このまま野放しにしていては沙綾香の身が危ない。

 瀬名の体は考えるよりも先に動いていた。


「やめろっ!!」


「な…!?」


 半ばゴミ箱を蹴り出すように瀬名は飛び出した。突然の出来事に男子生徒は思わず身を固めた。

 瀬名の姿を見た男子生徒はたじろぐ。自分たちの他に人がいるなんて思ってなかったのだろう。

 男子生徒は目撃者が現れたことで焦ったのか、踵を返して逃げていってしまった。残された沙綾香に瀬名は駆け寄る。


「月凪さん!」


「日向…くん…?」


 沙綾香は瀬名の登場に脳の処理が追いついていない様子だった。彼女の頬には赤い跡が残っていた。


「大丈夫ですか?…頬…」


「…少し痛いけど大丈夫。心配するほどじゃないよ」


「いや、でも保健室に…」


「大丈夫だから。…あ」


 沙綾香は怒気を孕んだ言葉を瀬名にぶつけた。言ってしまって数秒後に沙綾香はやってしまったというい表情を浮かべる。

 瀬名は沙綾香の言葉にたじろいでいたが、それでも引くつもりはなかった。


「…少し、座ってもいいかな」


 沙綾香はベンチに座ると、瀬名を隣に来るように促す。瀬名は床に散らばったペットボトルを回収して沙綾香の隣に座った。

 抱えたペットボトルを見て沙綾香は何やら不思議そうな表情になった。


「…どしたのそれ」


「これですか?みんなに頼まれたんですよ」


「そっか。…男子は結構仲良いんだね」


「はい。悪くはないと思いますよ?女子はどうなんですか?」


 沙綾香は瀬名の質問に黙り込んでしまった。

 女子の関係性というのは男子のそれよりも価値が重く、それでいて複雑だ。ただでさえ踏み込んだ質問であるというのに、その中でも浮いてしまっている彼女にこの質問をするのは見えている地雷を踏み抜くようなものだ。瀬名はどう声をかけたら

よいものか分からず、黙り込んでしまった。


「私はよく分からないけど…仲良くはないと思う」


「…そうなんですか?」


「うん。女子っていうのは色々と狡猾な生き物だから」


 その沙綾香の言葉を境に再び二人の間を沈黙が漂い始めた。

 通りあえず沙綾香の隣に座ったのは言いもの、瀬名はどうしたら良いのか分かっていなかった。頬のことには触れ無い方が良いだろうし、先程の男子生徒との関係性を問いただすのもやめておいたほうが良い気がする。そんな曖昧な心境のままに悩んでいると、彼の視界に先程購入したカフェオレが映った。一度落としてしまったもので申し訳ないが、この沈黙が続くぐらいなら、と瀬名は意を決した。


「…あの、これ。よかったらどうぞ」


「え…いいの?これ、みんなに頼まれたとか、そういうやつじゃ…」


「一本ぐらい減ってもバレません。ですので、よかったらどうぞ」


 沙綾香は目をパチパチさせてカフェオレを受け取ったまだひんやりとしているペットボトルを受け取ると、少しばかり口元を緩ませた。


「…ありがと」


 そう呟くと、沙綾香はポロポロとこぼすように呟き始めた。


「…さっきの先輩、前に少し付き合ってた人でさ。…話、どこまで聞いてた?」


「…最初からっすね」


「そっか。…なんかすぐに飽きちゃってさ。こっちから無理矢理別れた形になって、それが納得できなかったみたい」


 汗ばんだカフェオレを握りしめて、沙綾香は低い声で呟いた。後悔、反省、いろんな感情がその言葉には込められている事を瀬名は悟る。

 先輩を振り回しているという話は結局は本当だったようだ。ここまで来て流石に嘘だったとは言えないだろう。否は全部とは言わずとも大方は沙綾香にあるだオル。だが、それでも瀬名は男子生徒のした行為が許せなかった。


「でも、だからって…だからってあんな事していいわけないじゃないですか!」


 瀬名は少しだけ声を荒げて沙綾香に言い放った。沙綾香は彼の真剣な表情と急に大声を出されたことへの驚きに思わず固まってしまった。


「え…」


 沙綾香の反応を見た瀬名は我に返った。自分が身の丈に合わない事をしてしまっていることへの恥じらいに顔を赤らめながらも続ける。


「あ…月凪さんの綺麗な顔に傷でもついたら大変ですから…その…」


「…ふふっ」


 尻すぼみに消え入りそうになっていく瀬名の言葉に沙綾香は口元をほころばせた。


「駄目だよ日向くん。軽々しくそういうこと言ったら」


「え…いや、自分は本当に…!」


「分かってる。ありがと。…でも駄目だよ。私みたいな悪い女にそんな言葉を使ったら」


 そう言った沙綾香の表情はその言葉とは裏腹にどこか嬉々としていたものだった。瀬名はその表情を見て安心した。彼女の心のダメージを少しでも軽減できれば瀬名はそれで十分だった。


「…いったぁ」


「…やっぱり保健室いきます?」


「めんどくさくなるからやめとく。…私着替えないといけないから、それじゃ」


 沙綾香はベンチを立つと、頬を擦りながら校舎へと戻っていった。その姿を見届けると、瀬名も教室へと戻った。





「…へぇ」


 物陰で二人を見ていた彼女は、不満そうな表情で呟いた。

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