第2話耳

「…」


 朝のHRを終えた瀬名。新たな席周辺で会話の飛び交う教室内で彼は黙り込んでいた。 

 なんせ、隣があの沙綾香なのだ。言霊、という言葉があるがまさかこのようにして体験できるとは瀬名も思っておらず、この状況に困惑していた。


 沙綾香はというと何を思っているのか分からない横顔でスマホをいじっている。せっかく隣になったのだから話しかけようと思っていた瀬名は早速出鼻をくじかれてしまった。

 周りの生徒もその空気を察してか、二人に話しかけることはない。瀬名からしたら話しかけてくれないと困る状況なわけだが。

 こんなに考え込んでる自分がおかしいのだろうかと思い始めたその時、授業開始のチャイムが鳴った。それとほぼ同時に老け込んだ国語教師が入ってきた。


「きりーつ、きおつけー、礼」


 若干やる気のなさそうな日直の声に合わせて礼をした瀬名は席に座ると教科書が入っているであろう鞄を漁り始める。

 幸いにも一時間目はあまり話すことのない国語だ。少なくとも気まずい空気にはならないはず。瀬名はそう踏んでいた。


 しかし、彼の希望は安々と打ち砕かれた。


「…あれ?」


 教科書がなかったのだ。何度も確認するが、鞄の中に教科書の姿はない。机の中かと確認してみるも、やはりない。どうやらロッカーに置いてきてしまったようだった。

 今からロッカーに取りに行けばいいじゃないか。そう思うかもしれない。しかし、瀬名の席は廊下側からは一番遠い窓際。取りに行くとなれば当然数名の生徒の後ろを通らなければならない。そうなれば目線を集めてしまうことは確実だろう。あまり目立ちたくはない瀬名にとってそれはできればしたくなかった。

 しかしこのままでは授業を聞いても意味がないだろうし、もし教師に当てられて教科書の文を読むなんてことになったらまずい。

 ここは覚悟を決めて行くべきか。いやしかし、と頭を抱えていたところで瀬名の来ているブレザーの袖がくいっと優しく引っ張られた。

 手から腕へと視線を滑らせていくと、その先には沙綾香の顔があった。


「教科書、忘れたんでしょ?」


「え…」


「机。見せてあげるから」


 沙綾香に目で促された瀬名は言われるがままに机をくっつけた。

 沙綾香は机の真ん中に教科書を置くと、授業に戻ったようだった。

 瀬名は困惑せざるを得なかった。まさか沙綾香が話しかけてくるとは思っていなかったし、ましてや教科書を見せてくれるなんて完全に予想外だった。何にしろありがたいと思うしかない。

 朝の亮太との会話で多少沙綾香に恐怖心を抱いていた瀬名だったが、それも少しは緩和されたようだった。


 見せてもらっているのだから真面目に授業を受けようとした瀬名だったが、どうしても視界の端に入り込んでくる青と黒の髪が気になって仕方がなかった。

 学校にいる時も一人。所属している部活は不明。多方面での目撃情報があることから詳しいことは一切不明なミステリアスな沙綾香だったが、瀬名は彼女に不思議な引力を感じていた。

 瀬名が噂を信じていないということもあったが、何よりも彼は無意識に彼女の横顔に惹かれていたのだ。


 ふと瀬名の目線は沙綾香の頭部に移る。学園の校則に反していないのかと疑いたくなる色の頭髪に隠されてるであろう耳が彼の好奇心を引いたのだ。

 彼女の噂の中に耳にピアス穴が空いているというものがあった。それはこの学園の校則で禁止されているがゆえの噂だったのだが、目と鼻の先に彼女がいる状態の今、瀬名はその真実がどうしても気になってしまった。


 不意に沙綾香が髪を耳にかけた。まるで瀬名に見せびらかすかのように、彼女の耳はあらわになった。

 その瞬間、瀬名の瞳はたしかに捉えた。沙綾香の耳たぶに開いた数個の穴を。小さく開いたその穴はたしかにピアス穴だった。


 噂は確かだったのだ。彼女の耳にはピアス穴が開いていた。基本的に噂は噂と割り切っていた瀬名だからこそ声には出さなかったものの、その光景は衝撃だった。

 不思議ちゃんな沙綾香の謎が一つ解けた瞬間だった。


「…何?」


 不意に沙綾香の視線が瀬名へと向いた。どうやら瀬名からの視線に気づいていたようで、訝しげな表情を瀬名に向ける。

 ピアス穴を見ていたと言うわけにも行かず、瀬名は言葉に詰まった。耳を見ていた、なんて言えば彼女からの信頼が地に落ちることは確実。ここからは慎重に言葉を選ばなくてはいけない。だが、彼の脳内には謝罪の文言しか浮かんでこなかった。

 数秒言葉にならない声を口から漏らしている瀬名を見て沙綾香は察したようで自らの耳に指を指した。


「もしかして、これの事?」


「あ…うん」


 瀬名は気まずそうに頷く。


「見えちゃたか…隠しておくつもりだったんだけど」


「…ピアス、開けてるんすね」


「うん。学校ではつけないけどね」


 会話はそこで途切れた。その先で話す内容が思いつかなかったからだ。

 広げるつもりのなかった話を自ら広げてしまったことに瀬名は後悔していた。大して話すのが得意というわけでもないのに自分は何をしているんだと再び頭を抱える瀬名。男子ならもう少しやりやすかったのだがと現実から目を背け始めていたところで口を開いたのは沙綾香だった。


「…このこと、先生に言っちゃう?」


「え…いや、言わないっすけど」


 その言葉を聞いてか沙綾香はどこか安堵したような様子を見せた。流石に沙綾香も教師のお世話になるのは嫌なのだろう。既に数回はお世話になっていそうな見た目をしていることはこの際考えるのをやめた。


「…最近結構お世話になっててさ。これ以上お世話になるとまずいんだよね」


「へ、へぇー…どんなことでか聞いても?」


 後から考えてみれば実に攻めた一言だった。それまで言葉を交わすことでさえ億劫になっていたのに瀬名はここで踏み込むような一言を沙綾香にぶつけた。

 きっと好奇心がそうさせたのだろう。だが、この刹那で瀬名は人生三回分の後悔をしていた。


「…知りたい?」


「え?」


「どんな事してたか、知りたい?」


 まるで試すような表情を瀬名に向け、沙綾香は問いかける。ここまで来て後に引けず、成り行きの形で瀬名は頷いた。それを見届けた沙綾香は口元を少しばかり釣り上げた。


「おしえな〜い」


 沙綾香は軽い笑みを浮かべてそう言い放った。瀬名にとっては、まったくの予想外だった。

 鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情に瀬名は固まる。まるで裏切られたような、予定調和が崩れた時の混乱のような、そんなものに近い感情を瀬名は感じていた。

 そんな瀬名の様子を見て沙綾香は先程とは違う、嘲笑に近い笑みを浮かべた。


「ふふっ…そんな顔しなくていいじゃん」


「…沙綾香さんって冗談とか言うんですね」


「言うよ。私なんだと思われてるの?ロボットかなにか?」


 瀬名が思っていたよりも軽やかに沙綾香は笑った。少しギャップのあるその笑顔に瀬名は再び固まる。

 今まで無表情な彼女しか見ていなかったからか、瀬名はなんだか新鮮な景色のように思えた。


「ふふ…ピアス、私と日向くんの秘密だからね」


 沙綾香が呟いた一言は瀬名の心をきゅっと締め付けた。

 魅力的な彼女の小顔から覗く紺色の瞳が瀬名の目線を奪い、その発言をより一層重みのあるものにしていく。

 艷やかとも表現できる表情で沙綾香は瀬名を一瞬で釘付けにした。


「約束、ね?」


「…はい」


 とても心臓に悪い人だ、と瀬名は呟いた。

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