第7話 あの子の名前

 翌日、花蓮は泣きはらした顔のままで出勤した。

 あの後必死に目元を冷やしたのだが、いかんせん涙が留まることを知らず流れ続けていたのでどうしてもむくんでしまったのだ。メイクでカバーするのも一苦労だ。

 目元を隠すように前髪を気にする素振りをしながら席に着くと、隣の席で作業に取り掛かっていた同僚が驚いたように小さく声をかけてきた。


「うわ。桜城さん、どうしたの」

「水無瀬くん……ううん、ちょっとね」

「そっか。無理しないでなんかあったら言ってね」

「うん、ありがとう」


 心配そうに花蓮に話しかけたのは同僚の水無瀬翠依だった。

 癖のないすっきりとした顔立ちと女性の扱いに慣れた気遣いのできる対応が格好いいと社内の女性ファンも多い青年だ。

 他の人に知られるのは嫌だろうと小声で話しかけ、するりと身を引いたところもポイントが高い。


(感動して情緒がぐちゃぐちゃになって泣いただけだからなぁ……)


 ちょっと申し訳なく思っていると、今度は反対側から別の声が降ってきた。


「せーんぱい、おはよ」

「ひぇ、おはようございます!」


 ガチリと身を竦めて、昨日の涙の原因である彼女に挨拶を返す。


「あは、ひぇ、だって」


 可笑しそうに笑った彼女は、ちらりと花蓮の隣の青年を見やると花蓮の腕をとった。ぐい、と引っ張って立ち上がるよう促す。


「ねぇ先輩、こっち来て」

「えっ、あ、花宮さん⁉」


 するりと腕を絡められプチパニックに陥る花蓮を無視して、彼女はすたすたと歩みを進める。廊下の突き当りでようやく止まって、彼女は花蓮を見上げた。


「あの、ね。その……」


 もごもごと言い辛そうに指を擦り合わせる彼女に、少し心が落ち着いた。そういえば年が二つ下だったなと思い出す。二歳年下であれば花蓮の弟と変わらない。そう考えると途端に目の前の彼女が幼く思えた。


「うん、どうしたの?」

「っ⁉」


 彼女の両手を軽く包んで、目線を合わせて微笑みかける。幼かった弟にするのと同じように。

 突然距離を詰められ、今まで花蓮から接触されたことがなかった彼女は驚いたらしい。びくりと体が震えて、頬が少し赤くなっている。


「えぇっと、あの」

「うんうん、なぁに? ゆっくりでいいよ」


 にこにこと笑う花蓮とたじろぐ彼女の構図は普段とは正反対で少し面白い。そして覚悟が決まったのか、彼女は大きく息を吸って花蓮の目を見た。


「あの、昨日はその、……ありがと。先輩のおかげで助かった」


 思わぬ言葉に、花蓮はぱちくりと大きく瞬きした。そんなことを言うのを躊躇っていたのか、この子は。

 まあしかしプライドが高くて恥ずかしがり屋の気がある彼女のことだから、きっと勇気を振り絞って言ってくれたのだろう。


(え~なにそれ、めっちゃ可愛い)


 年下らしい一面に生粋の姉属性である花蓮の頬は緩みっぱなしだ。


「そんな、いいよ。私の方こそ、認知してもらえてるなんて光栄すぎるっていうか」

「ずっと見てくれてたじゃん。よく飽きないなって思ってた」

「飽きるわけないよぉ! ずっと好き!」


 その言葉に、彼女の口がはくり、と少し開いて、そして我慢するように横一文字に引き結ばれる。

 無邪気な花蓮は、きっと知らないのだろう。

 誰かに認めてほしくて仕方のなかった彼女が初めて見つけてもらえた時に、一体どれだけ救われたのかを。

 ぐっと唇を噛んだ彼女は、すぐにいつもの生意気な笑みを浮かべた。


「てか先輩、ちゃんと喋れんじゃん」

「え⁉ あ、いやこれは……っ、すみませんとんだご無礼を!」

「なんで? 先輩が後輩にため口なんて普通でしょ」


 にやにやと煽るように彼女が揶揄う。わたわたと慌てる花蓮が大層お気に入りらしい、随分と上機嫌だ。


「それにずっと花宮さん、花宮さんって。私の名前覚えてないの?」


 ちらりと上目遣いに花蓮を見る彼女。へにゃりと倒れた猫耳が見える。


(く、こいつ私がこれに弱いこと気づいてやがる……!)


 わかっていても逆らえないのがオタクの性というもの。


「お、覚えてますよ」

「ふぅん? じゃあ言ってみ?」

「えっ、えっと。み、美茜……」


 名前を口にした瞬間の彼女の表情を、花蓮は一生忘れない。

 淡い金色がきらきらと煌めきを増して、花が綻ぶように、小さな唇が笑みを象る。物語の王子は、きっとこんな姫君の笑顔で恋に落ちたのだろう。


(……そんなに、可愛い笑顔で)


 名前を呼ばれて嬉しいと、美茜が喜んでいる。

 冷たい印象を抱かせる彼女の表情が存外わかりやすいことに気が付いたのは、一体いつからだったか。


「ねぇ先輩、ずっとそうやって呼んでよね。私も花蓮って呼ぶから」

「先輩はもうつけないんだ」

「何かおねだりするときはそう呼ぶよ」

「ちゃっかりしてるなぁ、もう」


 もう普通に話せていた。等身大の年下の女の子であると認識し、もともと順応性が高かったこともあるだろう。

 傍目から見る二人の姿は、すっかり仲良しの親友同士のようだった。




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