第5話 あの子のちょっとしたピンチ
「悪い、花宮。残業頼まれてほしい」
上司の言葉に、彼女の顔があからさまに引き攣った。みるみる嫌そうな顔になる部下に彼は申し訳なさそうに手を合わせた。
仕事が速い彼女は残業することがほとんどない。いつもとっとと終わらせてさっさと帰るのだ。しかし彼女はどうやら頼まれると断れない人種らしく、残業するときは決まってそういう時だ。
しかし上司よ、今日はどうにも間が悪い。横で聞いていた花蓮の顔も青ざめていることだろう。何故なら今日は『花影朱璃』の配信日だからである。
「えぇっと、今日、ですか」
両手がすりすりと擦り合わせられる。一年観察してきたからわかる、あれは彼女が滅茶苦茶焦っている時の癖である。
元々の下がり眉がさらに下がり、困ったように金の瞳がうろつく。
「部長、私がやりますよ、それ!」
気が付いた時には彼女の前に立ってそう言っていた。後ろから小さく息を飲む音が聞こえる。心の中では血の涙を流しているが、後悔は全くしていない。推しの配信を楽しみに毎日を生きている同志たちのためにも、彼女に残業させるなんて酷なことはできるはずもない。
「本当か、助かる!」
花蓮の願ってもない申し出に、上司は嬉しそうにしている。
「じゃあ申し訳ないんだが、お願いするよ。ありがとうな、桜城」
「はい、任せてください」
「ああ。花宮も都合が悪いのに悪かったな」
「い、いえ」
先ほどまでとは裏腹に軽快な足取りで上司は去って行った。
「先輩……、よかったの?」
「んー? 何が?」
飽くまでも花蓮を何も知らない設定だ。それが二人の暗黙のルールだった。だから花蓮は、彼女に向けてただ微笑んだ。
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