第3話 後輩のあの子

 資料を渡してしばらくして、休憩終わりの花蓮のもとに彼女がやってきた。飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。


「ねぇ先輩、ここ間違ってましたよ。訂正、これでいい?」

「え、嘘っ⁉ すみません、ありがとうございます大丈夫ですぅ!」


 小さな口許を釣り上げて彼女は悪戯っぽく首を傾げた。慌てて指先が示すところを確認すれば確かに間違った情報と、赤ペンで上書きされた正しい情報。


「うわ、ほんとだ……最悪」

「珍しいじゃん、先輩ったら。疲れてんの?」


 いつも機械みたいに完璧なくせにさ、なんて皮肉っぽく放たれる言葉に肩身が狭くなる。


「い、いえ。でもちょっと寝不足で」


 何故ならもうすぐ推しの五周年記念。昨日はグッズ発売日だったのだ。


「ふぅん……寝不足、ねぇ」


 ふと顔を上げると彼女がその金色の瞳を細めていた。少し笑ったような表情には何故か呆れのような困ったような色が滲んでいる。


「ま、いいけど。ところで、ねぇ先輩?」

「ひゃい、なんでしょうか⁉」


 見たことのない表情に動揺して声が思わず裏返った。


「どうして未だに敬語なの? 私には敬語いらないってあんなに言ってたのに」


 確かに出会って初日にそんなことを言った。推しに敬語を使われる事実に耐えられなかったからである。


「やっ、だって、それはっ」


 目の前がぐるぐる回っているようだ。唇を尖らせて拗ねたように振る舞う推しがあまりにも可愛い。三次元のビジュでも可愛いとはこれ如何に。

 距離を開けようと無意識に後退ると腰がドンっとデスクに当たった。

 

「「あ。」」


 積まれてタワーのようになっていた資料の上にあったスマホが滑り落ちる。

 あ、やば、なんて思う暇もなく、視界の端から伸びてきた腕が危なげなく花蓮のそれをキャッチした。


「よっと、ナイスキャッチ。はい、先輩」

「あ、ありがとうございます! すごい反射神経ですね……」


 シンプルにすげぇな、という気持ちともうスマホ拭けない、という気持ちが拮抗してそんな間の抜けた感想が口から飛び出た。


「そぉ? ありがと……ん?」


 訝し気な声に花蓮も彼女の視線を追ってスマホに目を落とす。


 全身の毛が逆立った。


(ああああああああ、しまったあああああああ‼)


 心の中でムンクが絶叫している。まあ本当はあの絵は耳を塞いでいる絵なのだが、心情的にはそれが一番的確なのだからしょうがない。

 どうやらうっかり手渡された時に電源を押してしまったらしい。二人の手の中で、愛らしく微笑む『花影朱璃』がホーム画面に映っていた。

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