第26話:蝦夷地派遣幕臣

「あの船頭、口先だけではなかったな」


 家基が感心したよう田沼意次に問いかける。


「はい、敦賀で鰊粕を売れば、冬の荒れる海を避けて三往復できると見切り、少し安い値で売った判断は見事でございます」


 毎日西之丸を訪れては家基の御機嫌を伺うようになった田沼意次が答える。

 最近では、田沼意次に倣って本丸の幕閣も西之丸を訪れるようになった。


 お雪の方様が二人目を懐妊された事もあって、幕閣は次代の権力争いも視野に入れ、言動に気をつけるようになっていた。


 誰が見ても家治将軍が家基を溺愛しているのが分かる。

 家基の跡を継ぐ竹千代もすくすくと育っている。


 長谷川備中守宣以と津田日向守信之の西之丸老中就任は間違いない。

 田沼意知も順当に行けば西之丸若年寄から西之丸老中になるだろう。


 問題は、家治将軍が何時大御所になり、今の幕閣が家基の幕閣に残れるかだ。

 今の幕閣は、家治将軍と家基の両方に気に入られようと気をつけていたのだ。


「主殿頭も口先だけではないのだな。三国船の件は良くやった。だが、はんべんごろうの手紙を余に黙っていた事には腹が立った。上様に報告して内密にする事になっていたのが分かったから、もう何も言わぬが……」


「申し訳ございませんでした。あの頃の幕府は勝手向きが苦しく、とても蝦夷に兵を送れる状況ではなかったのです。民にオロシャが攻めてくると言う話が広まらないように、手紙は内密にするしかなかったのでございます」


 田沼意次が家基に弁明しているのは、手紙事件の事だった。

 ロシア帝国の侵略に対抗するバール連盟の戦士だったモーリツ・ベニョヴスキーは、武運拙くオロシャの捕虜になり、カムチャツカ半島に流刑されていたが、停泊中のコルベットを盗んで逃げだした。


 阿波藩や土佐藩に上陸しようとしたが許されず、長崎出島に向かったが方向を見失って奄美大島に流れ着き、そこから長崎出島のカピタンに手紙を送っていた。


 その手紙のとんでもない内容は、カピタンが翻訳して幕閣に知らされていた。

 事もあろうに、オロシャが松前を占領しようとしていたのだ。

 占領の準備として、千島に要塞を築いていると言うのだ!


 それなのに、金がないから、届いた手紙をなかった事にしていたと言うのだから、家基が再び田沼意次の評価を下げたのは当然だった。


 家基も色々と学んだから、勝手向きの大切さも軍資金の大切さも理解していたが、それでもオロシャの侵攻に備えていないのには腹が立った。


 家治将軍が認めた事だから、父親の治世を批判するような事はできなし、父親に信頼する老中を解任しろとも言えないが、自分の代になったら田沼意次を隠居させると決めていた。


 家基が弁財船で幕府の勝手向きを改善できるようになったら、直ぐに全てを話して松前藩から西蝦夷と東蝦夷を取り上げたから、田沼意次もオロシャに対する危機感を持っていたのだと分かった。


 勝手向きが良くなったら、オロシャに備える心算だったのも理解した。

 だが、優先する順番が自分とは違い過ぎるとも思っていた。


「もうよい、それよりもこれからの事だ、どうやってオロシャに備える?」


「八王子千人同心と同じ形で幕臣を送ろうと思います」


「八王子千人同心?それでオロシャに備えられるのか?」


 家基の疑問はもっともだった。

 家基にすれば、鍛え直した番方を送るべきだと考えていた。


 側近達から、ほとんど農民と変わらないと聞いている、八王子千人同心送っても役に立つのか疑問だったのだ。


 だが田沼意次は、勝手向きに合わせて、出来る範囲で警備する気だった。

 家基の建造させた弁財船で二十万両もの運上金があったが、それがずっと上手く続くとは限らない事を、吉宗が行った享保の改革で経験していた。


 数年数十年後に問題が明らかになった時にも、臨機応変に対応できる余裕を残しておきたかった。


 だから、幕府が出す役料よりも農民として幕府に納める年貢の方が多い、八王子千人同心を蝦夷地警備に選んだのだ。


 田沼意次が家基に話したのは、八王子千人同心の役料が、たった一〇俵一人扶持(玄米一五俵)である事だった。


 米の作れない蝦夷地の畑で小麦か蕎麦と作るとして、下下畠の一反三斗を基準に計算すると一町の畑で三石収穫できて、年貢が三俵の玄米になる事だった。


 蝦夷では米が取れないので、実際には玄米三石に匹敵する雑穀になるが、五町の畑を開墾できれば、八王子千人同心が納める年貢で役料が払える事を説明した。


 一〇町の畑を開墾できるなら、幕府は蝦夷警備に一人の八王子千人同心を送ったのに、一五俵の年貢まで手に入れられる事を説明した。


 妻子を養いながら蝦夷地の警備をさせるなら、一家当たり三〇町を開拓させればいい事も説明した。


 だがこれも蝦夷地が痩せていて最低の下下畠と考えての話だ。

 もし、蝦夷地で下畠程度の麦や蕎麦が収穫できるのなら、話しが変わってくる。


 一五町開拓できれば妻子を養いながら警備ができる。

 一五町で、玄米に換算して一〇五石の麦や蕎麦の収穫があれば、玄米一〇五俵分の年貢を払っても、玄米一五七俵半の麦や蕎麦が残るのだ。


 玄米玄米一五七俵半と言えば、騎乗を許されている与力の凜米に匹敵するのだ。

 しかも蝦夷地では肥料となる鰊粕が京大阪の五分の一で手に入るのだ。

 もっと収穫量の多い、上畠の収穫が見込める開拓地になる可能性もあるのだ。


 麦や蕎麦を育てる合間に、野菜も育てられれば牛馬も飼えるのだ。

 上手く行けば、幕府は勝手向きを良くしながら蝦夷地に兵を常駐させられる。


 この話は、何の裏付けもない話しではなかった。

 田沼意次はできるだけ情報を集めて検討していたのだ。


 蝦夷地に一番近く、風土が似ていると思われる、弘前藩の田畑と年貢を報告させていた。


 弘前藩の年貢基準は、村を上中下の三つに分け、田と畠を上上、上、中、下、下下の五段階に分けていた。


 上村上上田の収穫量、石盛は一反当たり一石四斗、年貢は六割で八斗四升。

 下村下下畠の収穫量、石盛は一反当たり一斗、年貢は六升だった。


 米が取れない蝦夷では、もっと寒さの厳しい風土になる事が考えられる。

 だから基準を中村中畠の石盛五斗にはぜず、中村下畠の三斗にしたのだ。


 だが内心では、鰊粕で中畠の五斗や上畠の六斗にできると考えていた。

 田沼意次は出来るだけ分かり易く家基に説明し続けた。


「分かった、主殿頭がそこまで言うのなら最初の警備は八王子千人同心と同じ役とする。だが上手くいかなかったら変えるぞ」


「一〇年、一〇年かければ必ず成功いたします」


「一〇年だな、その言葉忘れぬぞ」


『一反当たりの年貢基準:上中下の村によって大きく違う(大阪茨木例)』


上上田:一石七斗:幕府の年貢率は四割だが、藩によっては六割七割もある。

上田 :一石六斗

中田 :一石四斗

下田 :一石一斗

下下田:〇石六斗(実状に合わせる)

上上畠:一石四斗

上畠 :一石三斗

中畠 :一石一斗

下畠 :〇石七斗

下畠 :〇石三斗(実情に合わせる)

屋敷地:一石二斗

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